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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
永劫の凪と救済の深淵
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第14話:『断絶の音色』

 エンド・ロアの広場は、一瞬にしてエヴァリアの冷徹な規律に支配された。

 腐敗した大気と、逃げ惑う人々の不規則な足音。

 その混沌とした騒音の只中で、三人の執行官が放つ気配だけが、鏡面のように滑らかで、一切の揺らぎがない。


 セヴェルスが微かに地を蹴る。

 それは「音」というよりも、空間そのものが震えるような予兆だった。


 キィィィィィィィン……!


 月光を帯びた銀の刃が、アイリスの喉元を正確に狙う。

 同時に、左右に控えていた二人の執行官が、影のように滑り込んだ。

 三位一体。一族の血と肉に刻み込まれた、死を許さぬための包囲網。


 彼らの剣戟は、もはや武術という域を超え、緻密に計算された「舞」のようだった。寸分の狂いもない拍子で繰り出される連撃は、盲目であることなど微塵も感じさせない。


 アイリスは始祖の剣を掲げ、その猛攻を紙一重で受け流した。

 地下での怪物との戦いで負った傷が、一撃ごとに熱く疼く。

 肺が焼け、視えない視界の端で火花が散る。それでも彼女の身体は、幼少期から嫌というほど叩き込まれた「一族の型」を、本能的に再現していた。


(……このリズム。お父様も、カインも、セヴェルス先生も……私も。みんな同じ)


 四人の剣士が交錯する広場の中央だけが、外界から切り離された聖域と化していた。 石畳を叩く足音の残響。衣が擦れる風の鳴り。


 そして、互いの鼓動が共鳴し合う戦慄の拍動。 見守るエンド・ロアの人々には、それが銀の閃光が幾重にも交差する、美しくも悍ましい旋律に聞こえたはずだ。


「……良い動きだ、アイリス。外の世界の濁りに晒されながら、その刃に一点の迷いもない」


 セヴェルスは剣を振るいながら、感情を排した声で言った。

 彼は知っていた。

 アイリスが一族の中でもいかに異質で、いかに純粋な才能を持っていたかを。

 寡黙な少女の奥底にある、折れることのない「芯の強さ」。

 彼はそれを高く買っていたからこそ、自らの手でその芽を摘み、永遠の凪の中に封じ込めることが、師としての、そして執行官としての「慈悲」だと信じて疑わなかった。彼女には、何か使命を負うにはまだ。早すぎるのだ、と。


 だが、セヴェルスという男は、アイリスにとって高すぎる壁だった。


 彼が放つ「エヴァリアの剣」は、空気を切るたびに独特の高周波を発生させる。


 それは聴覚によって世界を視る一族にとって、感覚そのものを麻痺させる「毒」に等しい。 連撃が重なるたび、アイリスの耳は鋭敏さを奪われ、足元の地面さえもが不安定に揺らぎ始める。


「終わらぬ苦痛を知るのだ。それが、凪を乱した者への報いだ」


 セヴェルスの剣が、アイリスの肩口を浅く裂いた。


 エヴァリアの刃は、肉を断つと同時に「再生」の理を流し込む。傷口は瞬時に塞がろうとするが、その過程で細胞が異常な摩擦を起こし、焼け付くような激痛がアイリスの全身を駆け巡った。

 死ねない。終われない。

 ただ、永遠に再生を繰り返しながら、痛みの檻に閉じ込められていく。

 それがセヴェルスが突きつける、彼に刻み込まれた役目。一族の正義。


(感覚が、削られていく……。先生の音しか、聞こえない……)


 アイリスは、自分がエヴァリアの深い霧の中に引き戻されていくような感覚に陥った。 外の世界で得た「生の重み」も、ベネディクトの温かな祈りも、すべてがこの冷徹な規律の音にかき消されていく。


 セヴェルスは、彼女のあらゆる回避運動を予見していた。彼女の呼吸の乱れ、筋肉の収縮、そのすべてが彼の掌の上で転がされているに過ぎない。


 圧倒的な実力差。 アイリスは、血を流しながらも塞がろうとする傷の痛みの中で、かつて経験したことのない孤立感に震えた。


 セヴェルスと二人の執行官が編み出す、銀の檻。


 寸分の狂いもないその包囲網の中で、アイリスの意識は次第に混濁し始めていた。かつて師から受けた苛烈な教え、身体の髄まで染み付いた一族の型が、皮肉にも彼女を「正しい敗北」へと誘っている。


(このままじゃ、連れ戻される……。また、あの終わりのない凪の中へ)


 呼吸が浅くなり、足首が重い。セヴェルスの剣が放つ高周波が、彼女の優れた聴覚を内側から磨り潰していく。 その時だった。


 激しい剣戟の合間、左手の中で握りしめていたロザリオの「不規則な感触」が、アイリスの掌を鋭く刺激した。


 地下の怪物が遺した、歪で、欠けていて、ざらついた手触り。

 それはエヴァリアの滑らかな白銀には決して存在しない、生命が必死に生きた証としての「汚れ」だった。


(……そうだ。この重みは、先生たちの知らないものだ)


 アイリスは深く、長く、一度だけ息を吸った。

 彼女は、セヴェルスたちが維持しようとしている「エヴァリアの擬似環境」との同調を、自ら放棄した。 耳を塞ごうとしていた外界の雑音――逃げ惑う人々の悲鳴、石畳を叩く泥の音、遠くで鳴り響く葬礼の鐘。

 それらすべてを、拒絶するのではなく、自らのリズムの中に「不協和音」として招き入れたのだ。


 セヴェルスが、微かに眉をひそめた気配をアイリスは捉えた。


「……何をした、アイリス。貴様の音色が、乱れているぞ。美しくない」


「先生。正しい音だけが、世界のすべてではありません。この濁った音こそが、私たちが背負うべき重みなんです」


 セヴェルスが最後の一撃を放つべく、正中線へと踏み込む。


 執行官二人がその左右から、逃げ場を断つべく交差するように刃を突き出した。

 完璧な、美しすぎる同時攻撃。


 だが、アイリスはその瞬間、一族の「型」を完全に捨てた。

 彼女はロザリオを握る左手をあえて無防備に晒し、泥に滑るように身体を斜めに沈めた。セヴェルスが予測していた「アイリスならこう動くはずだ」という数理的な軌道から、彼女自身が「雑音」となって逸脱したのだ。


 その刹那、手にしていた始祖の剣が、持ち主の覚悟に呼応し、これまで以上の「真なる虚無」を吹き出させた。


「――響け」


 アイリスが放ったのは、一族の誰にも成し得ない「不協和の一閃」だった。

 それは物理的な剣筋を越え、セヴェルスたちが纏っていた白銀の外套、すなわち「エヴァリアの凪」という結界の膜を、内側から食い破る断絶の波動。


 バキィィィィィィィィン……!


 空間そのものが割れるような、悍ましい音が広場に響き渡った。 次の瞬間、セヴェルスと二人の執行官を、エンド・ロアの「真実」が容赦なく襲った。


「ぐっ……!? なんだ、この……毒のような感覚は!」


 執行官たちが、その場に膝をついた。

 これまで外套によって遮断されていた外の世界の理――腐敗した空気の匂い、重く粘りつくような重力、そして何より数多の人間が吐き出す「死の予感」という名の膨大な情動。それらが、エヴァリアという無菌室で育った彼らの鋭敏すぎる感覚に、ダイレクトに叩き込まれたのだ。


 彼らにとって、それは単なる雑音ではない。 「命には終わりがある」という耐え難い恐怖と、「再生が追いつかないほどの不浄な生」が、津波となって彼らの脳髄を蹂躙した。


 完璧だった三位一体の連携が、見るも無惨に瓦解する。


 セヴェルスという最高峰の剣士でさえ初めて直面する「自らの消滅の予感」に、その強靭な精神を圧し折られようとしていた。


「……これが、外の世界、なのか。これほどまでに……重く、穢れているというのか……」


 セヴェルスは、盲目の瞳から血の涙を流しながら、呻くように言った。

 彼が見ていたのは、常に管理された永遠。

 だが今、アイリスの剣によって世界の境界を暴かれた彼は、初めて「自分もまた、いつか朽ち果てて消えるだけの存在である」という残酷な、しかし普遍的な事実に直面させられたのだ。


 アイリスは、肩で息をしながらも、始祖の剣を構え直した。

 彼女の掌には、先ほどよりもずっと確かな「重み」が残っている。それは自分を殺そうとした師への怒りではなく、共にこの世界の重圧を背負って生きていかねばならないという、哀切なまでの連帯感だった。


「先生。これが、私が見た景色です。重くて、苦しくて……でも、確かに生きている音がする景色です」


 アイリスの声は、混乱に沈む広場の中で、ただ一筋の清流のように凛と響いていた。 執行官たちは動けない。外界の情報の奔流に、魂が麻痺し、再構築を拒んでいる。


 その時、聖堂の最上階から、ベネディクトの穏やかな鐘とは違う、より高圧的で冷徹な「教会の鐘」が鳴り響いた。 エンド・ロアという街の「秩序」を司る別の影が、この異端の剣士たちの争いを、もはや看過できなくなったかのように動き出したのだ。

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