第15話:『黄昏の共鳴』
瓦解した「エヴァリアの凪」の残骸が、虚無の余波として広場に漂っていた。
「……これが、死の、質量か」
セヴェルスが、膝をついたまま呻いた。
盲目の瞳から一筋の血が伝い、石畳の泥と混ざり合う。
始祖の剣によって世界の膜を剥ぎ取られた彼にとって、エンド・ロアの重苦しい空気は、肺を焼く毒煙に等しかった。
これまで外套が防いでいた外界の「終わりの予感」が、鋭利な情報の礫となって彼の脳髄を蹂躙している。 同行していた二人の執行官もまた、武器を支えに辛うじて形を保っているが、その呼吸は浅く、魂の芯が折れたような空虚な気配を漂わせていた。
アイリスは始祖の剣を正眼に構えたまま、動けない。
切り捨てることは容易だった。
今のセヴェルスに、彼女の「虚無」を阻む術はない。
だが、その動揺し、震える師の姿の中に、アイリスは初めて「人間」としての彼を見出していた。
エヴァリアの理という絶対的な盾を失い、ただの脆弱な生命として外界に晒されたセヴェルス。その姿は、地下にいた怪物とも、そして死を求めて彷徨うこの街の人々とも、本質的には何も変わらないように思えた。
そんな時だった、聖堂の尖塔から鳴り響く鐘の音が、空気を一変させた。
それはベネディクトが鳴らす穏やかな葬礼の音ではない。鋭く、威圧的で、異端を告発するような断絶の響き。
「……不浄の者どもを囲め! 聖域を汚す災厄を、この街から排除せよ!」
街の外れや聖堂の影から、甲冑の擦れる重々しい音が近づいてくる。
現れたのは、教会の「秩序」を物理的に守護する私兵団だった。
彼らは異郷の地から現れた、見たこともない白銀の装束を纏う盲目の剣士たちを、聖地を侵しに来た魔物の類だと誤認していた。
事態はさらに混迷を極める。 鐘の音と戦いの余波、そして地下から溢れ出した怪物の死の残響に当てられたのか、避難していた人々が狂乱し始めたのだ。
「死を……死をくれ! あの白い剣士たちが連れてきた『終わり』を、私にも!」 「司祭様、離してください! 私はもう、これ以上生きていたくないんだ!」
死を渇望する群衆が、自らの命を投げ出すように広場へ雪崩れ込む。
鎮めようとする修道士たちの叫びと、絶望に悶える人々の呻き。
エンド・ロアという街そのものが、アイリスが持ち込んだ「虚無」という猛毒によって、高熱を出してうなされているようだった。
「……アイリス。逃げろ。今の我々に、彼らを止める力はない」
セヴェルスが掠れた声で言った。だが、私兵団の切っ先は、すでに動けない執行官たちの喉元に迫っている。 私兵団にとって、理屈は不要だった。
ただ「奇妙な武器を持ち、混乱を引き起こした部外者」こそが、排除すべき悪であった。
アイリスは、迷わなかった。
彼女は流れるような所作で、手にしていた始祖の剣を銀の鞘へと収めた。
「アイリス……? 何をする。その剣を収めれば、貴様も死ぬぞ」
セヴェルスが驚愕に声を震わせる。 アイリスは答えず、鞘に収めた剣を「鉄の杖」として握り直した。
彼女はもはや、誰も斬るつもりはなかった。
エヴァリアの理を終わらせるための刃は、今はこの混乱を鎮めるための「盾」として振るわれるべきだと、彼女の直感が告げていた。
私兵団の槍が繰り出される。
アイリスは視覚なき感覚を極限まで研ぎ澄ませ、鋼の杖でその穂先を的確に弾き飛ばした。 キン、と硬質な音が響く。 一人、また一人と襲いかかる兵士たちを、彼女は傷つけることなく、ただその勢いを利用して受け流していく。
その動きは、先ほどまでの死闘とは異なり、どこか巡礼者の舞のように静謐で、慈悲に満ちていた。
セヴェルスは、戦いの中に響く「殺意のない剣戟音」を聞き取り、疑問を感じた。 私兵団の確かな制圧に似た殺意に対し、まだ剣を抜かないのかと。
彼らが教え込んできた剣は、対象を制圧し、再生の理の中に封じ込めるためのもの。あるいはアイリスが手にした始祖の剣は存在そのものを消滅させるためのものだ。 だが、今のアイリスが振るっているのは、そのどちらでもない。
相手を拒絶せず、されど飲み込まれもしない、奇妙に澄んだ「対話」の旋律。
しかし、アイリスの身体は限界に達していた。
怪物との死闘、セヴェルスたちとの極限の合戦。
蓄積された疲労と、肩口から流れる血が、彼女の意識をじわじわと削っていく。
兵士たちの包囲が狭まり、鋼の杖を振るう腕に鈍い痛みが走ったその時――。
「そこまでです! 武器を収めなさい!」
広場を裂くような、凛烈な一喝が響き渡った。
聖堂の重い扉の前、その中心に司祭ベネディクトが立っていた。彼の傍らには、数人の高位司祭たちが困惑した面持ちで控えている。
「ベネディクト司祭! しかし、この者たちは……!」
私兵団の長が反論しようとしたが、ベネディクトはそれを手で制し、まっすぐにアイリスへと歩み寄った。
アイリスは杖を突き、荒い呼吸を整えながら彼を待った。彼女の左手には、先ほど拾い上げたロザリオが、今も血と泥にまみれて握られている。
ベネディクトはそのロザリオを一瞥し、私兵団へ向けて静かに告げた。
「彼女の手にあるものを見なさい。それは、我が教会の者が最期に託した祈りの形です。これを守り抜いた彼女が、どうして敵であるはずがありましょうか」
私兵団の兵士たちが、毒気を抜かれたように顔を見合わせた。
アイリスの纏う気配は、確かに魔物のそれではない。深い疲労と傷を負いながらも、その佇まいには、ある種の聖性さえ漂っていた。 「……武器を収めろ」 長の号令と共に、広場に満ちていた殺気が潮が引くように消えていった。
アイリスは安堵に膝をつきそうになるのを、精神力だけで踏みとどまった。 隣で横たわるセヴェルスが、信じられないものを見るような気配を、彼女に向けていた。
「……アイリス。お前、は……」
「先生。世界は、エヴァリアよりもずっと、複雑な音で満ちています」
アイリスの声は、今にも消えそうなほど細かった。
空には、どんよりとした雲の切れ間から、エンド・ロアの薄暗い黄昏が差し込み始めていた。
意識の底に沈んでいたアイリスを引き戻したのは、爆音のような静寂ではなく、微かな薪の爆ぜる音と、鼻腔をくすぐる乾燥した薬草の匂いだった。
(……ここは……?)
重い瞼を持ち上げる。視界は相変わらず闇に閉ざされているが、肌に触れる空気はエンド・ロアの湿った不浄ではなく、どこか清潔で温かな停滞を含んでいた。
身体を起こそうとして、肩と足に走る鈍痛に息を呑む。しかし、その痛みはどこか遠く、柔らかな膜に包まれているようだった。
「気がつきましたか。無理に動いてはいけません」
聞き慣れた穏やかな、しかし芯の通った声。ベネディクトだった。 彼の足音が近づき、アイリスの傍らで止まる。
「ここは、街が我ら聖職者に貸し与えている小さな家です。質素ですが、私の拠点であり、この街における家でもあります」
アイリスは自分の身体に触れ、驚きに指先を震わせた。
肩や足の深く裂けた傷口には、丁寧に包帯が巻かれている。
エヴァリアであれば、傷は放置していても「再生の理」が勝手に肉を繋ぎ合わせる。
だが、それは内側から沸き立つような熱を伴う強制的な修復だ。 今、彼女が感じているのは、何らかの治癒魔法による穏やかな施しと、外部から手当てされることで得られる「保護」の感覚だった。
(……これが、治療…)
外の世界の人間は、こうして傷を労り、身体の悲鳴に耳を傾け、休息を必要とする。
エヴァリアでは、痛みは耐えるべきものではなく、再生までの通過点に過ぎなかった。だが今、残る疲労感とともに感じるこの安らぎは、ずいぶんと身体を軽く、マシなものに思わせた。
しかし、その感慨に浸る間もなく、アイリスの鋭敏な感覚が部屋の隅にある「異質な静寂」を捉えた。
冷徹で、一点の曇りもない規律の音。 セヴェルス。
そして、その背後に横たわる、まだ深く沈んだままの二人の執行官の気配。
「……セヴェルス先生」
アイリスが声をかけると、闇の中から重苦しい衣擦れの音が返ってきた。
「……私も、意識を失いかけた。外界の理というものは、想像以上に重い毒だったようだ。……他の二人は、まだ目を覚まさぬ」
セヴェルスは、かつての威厳を辛うじて保とうとしているが、その声には隠しきれない疲弊が混じっている。 ベネディクトが、その会話に割って入るように優しく告げた。
「あなたをここまで運んでくれたのは、彼……セヴェルス殿ですよ。私兵団が引き上げた後、彼は動けない身体を叱咤して、あなたを抱え上げた」
アイリスは意外な事実に喉を詰まらせた。自分を連れ戻し、あるいは処罰するために追ってきた師が、死闘の末に自分を救った。
それは、一族の型には存在しない不条理な献身だった。
「私は少し、他の巡礼者や司祭たちの様子を見てきます。広場の混乱も完全には収まっていないようですから」
ベネディクトの足音が遠ざかり、重い木製の扉が閉まる。
部屋に残されたのは、アイリスと、深手を負った師、そして眠り続ける二人の同胞だけになった。 静寂が支配する室内で、セヴェルスが重い口を開いた。
「アイリス。お前がその『始祖の剣』を持ち出し、国を離れたあの日……。我らは皆、お前を叛逆者として追うべきだと憤った。……だが、父上だけは違った」
アイリスの背筋に、冷たい緊張が走った。
一族の長であり、常に「凪」の象徴であった厳格な父。
「父上は、お前を追う我らに、こう命じたのだ。『見守れ、そして彼女が何を見出したかを見極めよ』とな。……私はその言葉の真意を、単なる監視だと思っていた。今までもそうだったように。だが、今日、お前の剣に触れて理解した」
セヴェルスは、盲目の瞳をアイリスのいる方向へと向ける。その眼差しは、物理的な光を排しながらも、かつてないほど鋭く彼女を射抜いていた。
「父上はお前に、叛逆を望んだのではない。……絶滅に向かう我ら一族にとって、最後の『可能性』を託したのだ。私には到底分からない。それはきっとエヴァリアの国そのものの未来を思ってのことだろう……アイリス、お前がこの街で見た『終わり』こそが、父上が密かに待ち望んでいた、エヴァリアの救いなのかもしれぬ」
父が黙認したのは、裏切りを許したからではなく、一族が抱える「終われない絶望」に終止符を打つための、賭けだったのではないか。
セヴェルスが語るその言葉は、アイリスの胸の奥にある「家族」という名の記憶を、激しく揺さぶり始めた。




