第16話:『夜明けの道標』
エヴァリアの民であれば誰しもが、幼い頃に子守唄のように聞かされる神話がある。
――太古の昔、エヴァリアは今のような霧の国ではなく、常に「終わり」の恐怖に晒された脆弱な地であったという。 人々は病に伏し、老いに怯え、愛する者が土に還るたびに狂乱し、絶望に身を焼いた。
その悲鳴があまりに大きく、天にまで届いた時、夜の帳から「月の女神」が舞い降りた。女神は人々の願いに応えて、二度と恐怖を絶望を見なくて良い様に、瞳をやさしく閉じて、永遠を与えてくれた――と
ベネディクトの家の中に灯された微かな灯火が、パチパチとはぜる音を立てている。 セヴェルスから語られた父の真意を聞き終えたアイリスは、その衝撃に揺れながらも、自らの内側に溜まった重い沈黙を見つめていた。
ふと思い出したエヴァリアのおはなし。
だがきっと、もっとその祝福には確かな呪いがあったのではないだろうかと。今の彼女なら想像ができる。
願いとは因果であり。
対価であり。
だからこそ縋り付くものではあってならない。
胸の奥でそっと灯して、現実から目を逸らしては決していけないのだ。
――『其れほどまでに死が恐ろしいのなら、私がその運命を断ち切りましょう』――
女神は慈悲深く微笑み、大地に再生の雫を零した。傷は塞がり、病は癒え、命は永劫に繰り返される環の中に固定された。 だが、神の奇跡には常に等価の代償が伴う。
『ただし、その代わりに貴方たちの瞳を貰い受けます。狂気も、腐敗も、終わらぬ生の果てに訪れる醜悪な変質も――その眼で見ることがないように』
エヴァリアの民は「視力」を失い、代わりに「永遠」を手に入れた。 盲目であることは、女神が与えた最後の慈悲だった。自分たちがもはや人間ではなく、終わることのない自動人形のように再生し続ける存在へと変わってしまった現実を見ずに済むように。そうして彼らは、死を知らない世界で、永遠の凪を享受することになったのだ。
以来、エヴァリアには平和が訪れた。他国はエヴァリアの噂を聞きつけ、軍を派遣してきた歴史もあった。だが国は戦火に巻き込まれることはなかった。
まず。国境は「霧の壁」と呼ばれる白銀の迷宮に包まれている。ここは、足を踏み入れた者の距離感や方向感覚だけでなく、「自分が誰であるか」という感覚さえも霧散させる場所であり、故に視覚に頼らないエヴァリアの国民でしか歩みを進めることしかできない。限られた貿易は、霧の境で行われるものだ。
そして何よりも「不死の加護」は、エヴァリアで生を受けたもの以外にはもたらされない。魅力的な言葉と祝福も、やがて呪いと再生される肉体の前で、不気味がり近寄るものは次第にいなくなった。
禁忌の域だと、または伝承でしか聞かない様な国となってしまった。
それは皮肉にもエヴァリアにとっては永遠の平和の約束だった。
(……けれど、その瞳の奥で、私たちは本当は何を求めていたの?)
アイリスは、包帯が巻かれた自分の手を、もう一方の手でそっと包み込んだ。
外の世界の理に触れ、傷を手当され、眠りにつく。そんな当たり前の行為の中に、エヴァリアが失った「生の実感」が宿っていることを、彼女は知ってしまった。
目を閉じれば、エヴァリアで過ごした幼い日々が、鮮やかな音と匂いと共に蘇る。
厳格だが、時折その掌から微かな迷いの熱を感じさせた父。
自分を妹のように、あるいは超えるべき壁として競い合った従兄のカイン。
そして、常に一歩後ろから、規律の化身のように自分を導いてくれたセヴェルス。
月影の森で、幾千回、幾万回と繰り返した素振り。
木刀が空を切る音だけが、自分の存在を証明するすべてだった。
あの日々、アイリスにとって世界はエヴァリアという箱庭で完結していた。
けれど、セヴェルスが時折見せた、剣を収める際のわずかな「溜息」の意味を、今のアイリスなら理解できる。彼もまた、終わりのない正解のない円環の中で、無意識に「出口」を探していたのではないか。
なぜ彼が執行官となったのか、その真意を探ろうと。
確かめようとするのは、きっと彼にとっての冒涜になるだろう。
「……セヴェルス先生」
アイリスは、震える声を抑え、しかしはっきりと顔を上げた。
暗闇に佇む師の気配に向かって、彼女は自らの魂を言葉に乗せる。
「私は……旅を続けます。このままエヴァリアに戻り、何事もなかったかのように凪の中に沈むことは、もうできません。この剣が私に見せた『終わり』の景色……それが、本当に女神の呪いなのか、それとも私たちが忘れてしまった本当の救いなのか、それを確かめたいのです」
沈黙が部屋を満たす。薪のはぜる音だけが、二人の間の緊張を刻んでいる。
セヴェルスは動かない。
だが、アイリスには分かった。
彼は今、自らの内に流れ込んだ「外の世界の毒(死の予感)」と格闘しながら、教え子の言葉を、その「芯」にある響きを、真っ直ぐに聞き取ろうとしているのだ。
アイリスの言葉には、一片の濁りもなかった。 それは誰かを裏切るための嘘ではなく、自分自身として生きるための、切実な祈りだった。
「……そうか」
長い沈黙の果てに、セヴェルスは短く応えた。
その声から、先ほどまでの鋭利な殺意は消え、どこか遠い場所を見つめるような、乾いた響きが混じっていた。
「父上には私から伝えておこう。……他の者たちにも、お前を仕留め損ね、我らもまた深手を負ったと、うまく答えておく。嘘にはなるが、この様相を見れば納得するだろう。執行官としての誇りを捨ててでも、そうせざるを得まい」
セヴェルスは自らの剣の柄を、強く握りしめた。
「我々が触れてしまった、あの不浄な『死』の感覚……。あれを一族に持ち帰るわけにはいかない。それはエヴァリアの理と平和を根底から壊す、あまりに強烈な毒だ。……他の二人の執行官にも、口を噤むよう命じよう。彼らもまた、あの絶望を知ってしまった以上、そうせざるを得ないはずだ」
セヴェルスはゆっくりと立ち上がり、アイリスのそばを通って窓の方へと歩を進めた。
「お前がいつか、本当の答えを見つけて戻ってきたその時までだ、アイリス。……その剣が、我ら一族を、そしてこの動かない国を、どこへ導くのか。……私は見届けてやろう」
窓の外では、エンド・ロアの深い霧が、月の光を浴びて幽かに揺れていた。 それは故郷の霧とは違う、不確かで、しかし無限の可能性を秘めた外の世界の気配。
アイリスは、初めて自分を信じてくれた「師」の背中に向かって、深く、深く頭を下げた。
意識が微かな微睡から浮上したとき、部屋を支配していた冷徹な「規律」の気配は、霧が晴れるように消えていた。
アイリスは上体を起こし、周囲の気配を探る。セヴェルス、そして意識を失っていた二人の執行官たちの振動は、もうこの家にはない。ただ、窓から差し込む朝の光が、埃の舞う室内に柔らかな温もりを落としているだけだった。
「……行かれたのですね、先生」
呟きは、薪の燃え尽きた灰のような静かさで空気に溶けた。
彼らが何も告げずに去ったのは、それがエヴァリアの剣士としての、あるいは師としての最後の「情」だったのかもしれない。
言葉を交わせば、それは公的な「任務」となり、彼女を捕らえねばならなくなる。沈黙こそが、彼がアイリスに与えた自由の証明だった。
「目が覚めましたか」
扉の向こうから、ベネディクトが盆に乗せた白湯を運びながら声をかけてきた。 アイリスは丁寧に礼を述べ、懐からあの古びたロザリオを取り出した。
「ベネディクト様、これはお返しします。地下にいた……あの巡礼者の方の、大切なものですから」
だが、ベネディクトはそれを受け取ろうとはしなかった。彼はアイリスの指をそっと包み込み、ロザリオを彼女の掌へと押し戻した。
「いいえ、それはあなたが持っていてあげてください。アイリス、死というものは、ただの無ではありません。それは、誰かの記憶の中に場所を移すこと。あなたがその重みを握りしめている限り、あの男の物語は、まだ終わってはいないのです」
ベネディクトの声には、夜明けの鐘のような澄んだ響きがあった。
「あなたはこれから、さらに多くの『終わり』に触れるでしょう。それは時に、このエンド・ロア以上に残酷で、救いのないものかもしれません。ですが忘れないでください。痛みを感じるということは、あなたがまだ、正しく生きている証なのです」
ベネディクトは、アイリスの指先に次なる旅路の方向を指し示した。
「ここから北へ数日進めば、大河の畔に栄える交易都市『フェルゼン』が見えてくるはずです。そこはエンド・ロアのような吹き溜まりではなく、生気と欲望に満ちた、光の強い街。ですが、光が強ければ影もまた深い。あなたの探す『生と死の答え』、その断片が、かの地の古い図書館か、あるいは裏路地の喧騒に隠されているかもしれません」
アイリスは教えを乞う巡礼者のように深く頭を下げ、静かに家を出た。
表に出たエンド・ロアの空気は、相変わらず澱んでいた。 建物の隙間からは、絶望に身を焼かれる人々の耐え難いうめき声や、死を乞う悲鳴が聞こえてくる。初めてこの街を訪れたとき、それはただの「忌むべきノイズ」でしかなかった。
(……でも、今は違う)
耳を澄ませば、その悲鳴の底に、必死に空気を求める肺の動きや、激しく打ち鳴らされる心臓の鼓動が聞こえる。彼らは死を望んでいるのではない。
あまりに重すぎる「生」の質量に懸命に抗っているのだ。
ここにあるのは不浄な死ではなく、残酷なまでに純粋な生の残響だった。
街の巨大な正門へと続く坂道を登りきったところで、検視官の男が暇そうに鼻を鳴らした。 「……お嬢ちゃん、ようやく出発か。あんたの連れが、先で待ってるぜ」
「連れ……?」
アイリスが門をくぐると、街道の脇にある枯れた大樹の影に、一人の男が立っていた。 視えない瞳が、その馴染み深い、しかし以前よりもずっと「人間臭い」揺らぎを持った鼓動を捉える。
「……先生」
セヴェルスは腕を組んだまま、街道の先を見つめていた。
二人の執行官の気配はない。
「あやつらは先に戻らせた。……一族の恥辱をこれ以上晒すわけにもいかんからな」
セヴェルスの言葉は突き放すようだったが、その背中からはかつて道場でアイリスの成長を見守っていたときのような、静かな慈愛が漏れ出していた。
「アイリス。ここから先は、我らの剣も、一族の理も届かぬ場所だ。……行きなさい。お前の信じる『音』の鳴る方へ」
アイリスは、こみ上げる熱いものを飲み込み、真っ直ぐに師を見据えた。
「はい。いつか必ず、エヴァリアに『終わりの光』を持ち帰ります」
セヴェルスはそれには答えず、ただ一度だけ、短く頷いた。
アイリスが歩き出し、その背中が街道の霧に消えかかる頃、セヴェルスは独りごとのように、しかし確かな祈りを込めて呟いた。
「……さらばだ、アイリス。わが誇り高き弟子よ」
アイリスの足音は、もはや迷いを含んでいなかった。
背後に残るエンド・ロアの悲鳴も、遠ざかるエヴァリアの凪も、すべては彼女の奏でる新たな物語の序奏に過ぎない。
始祖の剣が、鞘の中で幽かに鳴った。
それは世界を断絶するための不協和音ではなく、未来という空白の楽譜に最初の一音を刻むような、清冽な産声だった。




