第17話:『黄金の喧騒』
エンド・ロアを離れ、慣れないながらも
アイリスは外の世界の空気に、冒険に慣れてきた。
繊細に確かに辿りながら杖を突き、香りを嗅いで音を聞く。
自らを餌と認識し襲いかかる獣。魔物の類。
仕留めたそれらを、生きるために丁寧に頂くこともあった。
生臭いと感じた時は、工夫を凝らした。時として我慢し飲み込むこともあった。
荒れた場所を歩く際は、いつも以上に息が切れて疲れが早く訪れる。
そんな時は研ぎ澄まされた感覚を活かし、安全な場所で腰を下ろした。
盲目であること、視界がないこと。
それが特異であることは十分に理解している。
エヴァリアで生きている以上、それが不便として働いた試しが、覚えている限りはない。その感情は女神の祝福に対する冒涜だからだ。
しかし外の世界を歩いてみれば、どんなふうに世界が彩られているのか。
気になる時がたまに訪れる。エンドロアで出会った人たちは、どんな景色を見てきたのだろう。
美しい銀髪が、頬をあやし。
アイリスは装飾の施された布伝えに自らの瞳をやさしく撫でた。
けれど、自らの生まれと。この自らの目も。恨む様な感情はやはり無い。
「私は私。生きているんだから」と
北へと続く街道を歩むこと数日。
アイリスの足裏に届く土の感触が、湿った泥から乾いた硬い石へと変わっていった。
空気の震えが、今までとは明らかに違う。
遠くから聞こえてくるのは、数千、数万という人々の足音、荷馬車の車輪が軋む音、そして空気を切り裂くような怒号と笑い声。それは、音の濁流だった。
「……これが、フェルゼン」
アイリスは足を止め、風に乗って流れてくる匂いに顔を顰めた。
焼けた肉の香ばしさ、芳醇な酒の香り、それらに混じって、濃厚な汗の臭いと——何よりも強く鼻を突く強烈な薬草と消毒液の鋭い異臭。
交易都市フェルゼン。 地理的に「死の吹き溜まり」エンド・ロアや、霧に閉ざされた「不死の国」エヴァリアをも繋ぐ交通の要所でありながら、その周辺は魔物が跋扈する魔の森や、触れるだけで肉を腐らせる疫病が頻発する危険地帯に囲まれていると言われている。
ここは、地獄のただ中に浮かぶ、生存という名の黄金の島だ。
旅人は、この先の死地を「生きて通過するために」必ずこの街に立ち寄り、自らの命を繋ぐための対価を支払う。かつて歴史上、何度も疫病と魔物の襲撃によって壊滅しかけたこの街は、そのたびに呪詛のように一つの教訓を刻み込んできた。
――『生存こそが唯一の勝利であり、生き残った者だけが全てを継ぐ』。
「おい、どけ! 死にてえのか!」
背後から突き飛ばされそうになり、アイリスは無意識に身を翻した。 鋼の杖が石畳を叩き、澄んだ音を鳴らす。
「……すみません」 「謝る暇があったら動け! フェルゼンじゃあ、立ち止まってる奴から死んでいくんだよ!」
去っていく男の鼓動は、異常なほどに速かった。
それは恐怖ではなく、生き急ぐ者の熱量だ。
アイリスは杖を頼りに、街の心臓部である市場へと足を踏み入れた。
そこは、エヴァリアの「凪」とは真逆の極致だった。 「さあ、買った買った! 瘴気除けの護衛符だ! これがないと次の森で肺が腐るぞ!」 「解毒薬の特効薬だ! 生きているうちに買え、死んでからじゃ金は使えねえぞ!」
飛び交う声はどれも、剥き出しの生存本能に満ちている。
この街で最も高価に取引されるのは、宝石でも絹織物でもない。「命に関わるもの」だ。 一本の治癒薬、たった一枚の護衛符が、ここでは金貨の山と等価で引き換えられる。
アイリスの鋭敏な聴覚は、その喧騒の裏側に潜む「歪み」を捉えていた。
市場のあちこちで、人々が互いの「寿命」や「健康」を値踏みするかのような、湿った視線のやり取り。
あるいは、あまりにも生の執着が強すぎて、逆に死の影が色濃く張り付いた者たちの、不規則な呼吸。
(……みんな、あんなに必死に、生に縋り付いている)
エヴァリアでは、生は当たり前に与えられる空気のようなものだった。
だがここでは、生は奪い合い、買い叩き、守り抜かなければならない「商品」なのだ。
アイリスは、ベネディクトが言っていた「古い図書館」の気配を探そうとしたが、あまりの情報量の多さに感覚が飽和しそうになる。人々の欲望という名の「雑音」が、彼女の視界(感覚)を白く塗り潰していく。
その時だった。
「……おが、……な。……そこの、銀髪の巡礼者」
人混みの隙間から、周囲の熱狂とは切り離された、氷のように冷たく、それでいて不思議に透き通った声が届いた。 アイリスは反射的にその方向へ耳を澄ませる。
喧騒のただ中に、ぽっかりと空いた「無音の空間」がある。 そこには、きらびやかな装飾を身に纏いながらも、心臓の鼓動が驚くほどに緩やかな——まるで時間が止まっているかのような人物が座っていた。
「……あなたが背負っているもの。……いいえ、その『虚無』。この街の生気には、少しばかり刺激が強すぎるわね」
アイリスは、無意識に始祖の剣の柄を握りしめた。
フェルゼンの暴力的なまでの喧騒の中で、その声だけが一点の曇りもなく鼓膜を叩いた。自分の本質、そして始祖の剣が孕む「断絶」の気配を、初対面で言い当てられた感覚に背筋が凍る。
アイリスの脳裏に、エンド・ロアで出会った司祭ベネディクトの姿が過ぎった。彼もまた、その静かな言葉で彼女の迷いを見抜いていた。
「……あなたも、ベネディクト様と同じ……司祭、なのですか?」
問いかけながら、アイリスは相手の「波」を捉えようとした。
だが、返ってきたのは、渇いた砂が流れるような、空虚でいて艶やかな笑い声だった。
「司祭? くふふっ……。私が、あの古臭い祈祷師どもと同じに見えるのかしら?」
その人物は、贅沢な椅子に深く身を沈めたまま、扇を揺らした。その動きから漂うのは、聖職者の慈悲ではなく、剥き出しの「価値」を測る者の冷徹さだった。
「あいにく、私は神に祈るほど暇ではないの。祈っても腹は膨らまないし、寿命は一秒も伸びないでしょう? ここはフェルゼン。神よりも金、祈りよりも解毒薬。それがこの街の聖典よ」
アイリスは戸惑いと共に、相手の鼓動を慎重に探る。それは驚くほどに緩やかで、この狂騒の街にありながら、まるで凪の湖のように冷え切っていた。
「私はただの、命の鑑定士。……あるいは、これから死ぬ予定の者たちの、聞き届け役かしら。ねえ、銀髪の巡礼者。その剣を背負って、あなたは何を買いに来たの?」
その人物が小さく動くたびに、高価な香油の香りと共に、微かな「終わりの予感」が漂った。 ベネディクトが言っていた、安易には辿り着けない「答えの断片」。 その入り口が、この黄金の喧騒の裏側に、口を開けて待っていた。




