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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
黄金の搾取と禁忌の天秤
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第18話:『対価と天秤』

 女が放つ冷ややかな笑い声は、周囲の喧騒を凍りつかせるような鋭さを持っていた。 アイリスは杖を握る手に力を込め、相手の鼓動の「色」を読もうとした。


 しかし、鑑定士を名乗る女の鼓動は驚くほど一定で、欲望にまみれたこの街の住人たちとは一線を画している。


 女の視線が、アイリスの動かない瞳を執拗に舐めるように這った。

 焦点の合わない、澄んだ銀色の瞳。

 音と振動を正確に捉える、巡礼者にしては鋭敏すぎる五感。


(……間違いないわね。この娘、霧の向こうから来た「盲目の不死者」だわ)


 鑑定士は、アイリスが「死を知らない国」エヴァリアの人間であることを直感的に見抜いた。だが、それを口に出して指摘することはしない。

 フェルゼンにおいて、相手の素性は価値を測るための材料に過ぎず、安易に明かすのは三流のすることだからだ。


「さて、銀髪の旅人さん。こんな不潔な街に、一体何を求めてやってきたのかしら? 解毒剤? それとも、誰かの寿命の買い取りでも希望する?」


 アイリスは、エンド・ロアを去る際にベネディクトが遺した言葉を反芻した。 『あなたの探す「生と死の答え」、その断片が、かの地の古い図書館に……』


「……『図書館』を探しています。あそこに行けば、私が探している答えがあるかもしれないと……そう、ある方に教わりました」


「図書館……?」 鑑定士は意外そうに眉を上げた。ベネディクトの名も、その祈祷師のような教えも彼女は知らない。だが、その単語はこの街においてある種の「価値」を持っていた。


「あそこはね、今はただのアーカイブじゃないの。街を牛耳るギルドが『生存のための特許』を独占するために、重い鎖をかけているわ。入り口を見つけるだけでも一苦労よ」


 女は扇をパチンと閉じると、商人の顔になってアイリスへ掌を向けた。


「さて。情報の開示には『対価』が必要よ。ここはフェルゼン。何事も等価交換が原則だわ。金貨十枚……いえ、あなたのその『虚無』の気配に免じて、金貨五枚でいいわ。払いなさい」


 アイリスは立ち尽くした。

 エヴァリアにおいて、金貨という概念はあっても、それは儀式的な価値を持つものでしかなかった。


 再生の理に守られた閉鎖環境であった故郷では、他者と「命の糧」を奪い合うための通貨など、商人を除いて、特に彼女の一族はその「特別」もあり、必要なかったのだ。


「……金貨、ですか。あいにく、私は持ち合わせていません」


「無一文? くふふ、冗談でしょう。この街に丸腰で入ってくるなんて、死にに来たも同然よ」


 鑑定士の女は、つまらなそうに溜息をつくと、アイリスが背負っている『始祖の剣』に視線を移した。


「払えないなら、その背中の獲物を置きなさい。見たこともない銀の意匠……。骨董品としての価値も含めれば、図書館の場所どころか、一生遊んで暮らせるだけの金を工面してあげられるわよ。その『杖』も合わせてね」


「それは、できません」


 アイリスの声に、初めて毅然とした拒絶が混じった。


「これは、私が私であるための……そして、私の一族が繋いできた誇りです。売ることは、魂を売ることと同じです」


「魂なんて、フェルゼンじゃパンの欠片にもならないわよ」


 女が背を向けようとしたその時、アイリスは外套の内側に手を入れ使い古された革の旅袋をまさぐった。指先の繊細な感覚だけで、無数にある旅道具の中から、ある「塊」を選び出す。


 彼女が取り出したのは、掌に乗るほどの小さな、半透明の石だった。

 アイリスが旅のお供として、そして唯一の「消耗品」としてエヴァリアから持ってきたもの。


 それは、深い霧の中で月の光を浴びて固まったとされる「月雫の凝縮ルナ・ドロップ」――エヴァリアの特定地域でしか採れない、超高密度の滋養を含んだ薬石だった。


「……これは、私の故郷にあるものです。金貨の代わりには、なりませんか?」


 鑑定士の女が、訝しげにその石を受け取った。

 指先で触れた瞬間、女の瞳が大きく見開かれる。

 石からは、この街の澱んだ空気とは一切無縁の、清冽で圧倒的な「生命力」の波動が放たれていた。ルナ・ドロップは決して傷を癒す薬石では無い。


 エヴァリアにおいて、体は再生しても「精神の摩耗」は免れないため、心の澱みを払い、深く良質な眠りにつくために服用されます。いわば「魂の休息を助ける薬石」だ。


 彼女もエンドロアを離れてから数日の旅路で、「眠れない夜にひとかじりする」程度の、日常に溶け込んだ安らぎの道具に過ぎないものだ。


(……この純度。間違いない。エヴァリアの深部でしか採れない霊石……!)


 女はそれを太陽にかざし、その奥に眠る永遠の凪を透かし見た。

 アイリスが「エヴァリアの剣士」であることを、鑑定士はこの時、確信した。


「……いいわ。面白いものを見せてもらった。これで、あなたを『墓場の入り口』まで連れて行く理由ができたわ」


 鑑定士は石を素早く懐に隠すと、アイリスの手を引くようにして歩き出した。

 しかし、その足取りは決して優しくはなかった。


「ただし、忘れないで。その石一粒で買えるのは、入り口までの通行料だけ。中へ入るには、また別の『命』が必要になるわよ」


 鑑定士の女――名を「シビュラ」と名乗ったその女は、市場の喧騒を縫うように歩き出した。 アイリスは杖で石畳を叩きその反響で前方の障害物を避けながら、シビュラの纏う沈着な鼓動を追う。


「ねえ、銀髪の旅人さん。あなたはあんな石をちょっとしたお薬程度に思っているようだけど、この街じゃあれは劇薬よ。死に瀕した大富豪なら、自分の城と引き換えにしてでも欲しがるでしょうね」


 シビュラは振り返らずに告げる。

 その声には、嘲笑と、わずかな忠告が混じっていた。


「ここでは、安らぎさえもが商品になる。あなたの故郷がどれほど豊かな凪に満ちていたかは知らないけれど、その無垢さは、ここでは獲物の匂いとしてしか機能しないわ」


「……豊かな、凪」


 アイリスはその言葉を咀嚼する。

 エヴァリアでの日々。誰もが視力を失い、しかし誰もが死の恐怖から解放されていた世界。そこでは「ルナ・ドロップ」は、ただ心地よい眠りを誘うための夜の静寂の一部だった。


 だが、このフェルゼンという街では、その一粒が「死」を押し返すための物理的な盾として、ぎらついた欲望の対象になる。


「着いたわよ。……ここがフェルゼンの『肺』、そして『記憶の墓場』への入り口よ」


 シビュラが足を止めたのは、街の北側にそびえる巨大な石造りの塔の麓だった。


 そこは市場の熱狂とは一線を画した、重々しい沈黙が支配する場所。周囲にはフルプレートの鎧に身を包んだ衛兵たちが立ち並び、槍の石突きが地面を打つ硬い音がアイリスの耳に届く。


「図書館、ですか?」


「正確には、その『地下書庫』への検問所よ。この上階は、街を支配する商工ギルドの議事堂。彼らにとって、古い知識は自分たちの『延命特許』を脅かす毒でもある。だから、許可なき者は一文字も読むことは許されない」


 一人の衛兵が、抜く手も見せず槍を交差させ、アイリスたちの進路を阻んだ。 「鑑定士シビュラか。……連れは誰だ。許可証はあるのか」


「この娘が今日の『鑑定品』よ。中にある古い記録と、彼女の背負っているものの価値を照らし合わせる必要があるの。通行料は既に支払わせたわ」


 シビュラが懐から先ほどのルナ・ドロップを、ほんの一瞬だけ取り出してみせた。 衛兵の鼓動が、一瞬で跳ね上がるのをアイリスは聞き逃さなかった。驚愕、そして剥き出しの強欲。槍の先が微かに震え、重い鉄の扉が軋んだ音を立てて開いていく。


「……通れ。だが、奥の『番人』が通すかどうかは別問題だぞ」


 地下へと続く階段は、冷たく湿った空気に満ちていた。 一段降りるごとに、街の喧騒が遠ざかり、代わりに「紙とインクの腐敗した匂い」が濃くなっていく。それは、何千年もかけて積み上げられた、死者たちの言葉の重みだった。


 階段の最下層。そこには、巨大な天秤を模した青銅の門が立ち塞がっていた。 門の前には、痩せ細り、全身に文字が書き込まれた布を纏った老人が、椅子に深く腰掛けていた。


「……新しい命の気配がするな」


 老人の声は、枯れ葉が擦れるようなカサついた音だった。 彼は視力を失っているアイリスを、自分と同じ「闇を見る者」として認識したのか、低く笑った。


「旅人よ。この書庫は、生きた言葉を求める場所ではない。ここにあるのは、死者たちが残した『終わりの残滓』だ。それを覗き見たいというのなら、お前の命の重さを、この天秤に示さねばならぬ」


「命の、重さ……?」


 アイリスは戸惑い、シビュラを振り返ろうとした。だが、鑑定士は既に数歩下がり、興味深げに事の成り行きを眺めているだけだった。


「その背中の銀の剣。それが、お前の命そのものか。あるいは、その胸に秘めた『答え』が、死者たちの言葉よりも重いものか。……証明してみせよ」


 老人が手をかざすと、青銅の天秤がひとりでに動き出し、アイリスの方へと傾いた。 アイリスは、自分がエヴァリアを飛び出し、エンド・ロアで死を看取り、そして今ここに立っている理由を自問する。


(私の命の重さ……。それは、私が背負ってきた『終わり』の記憶。そして、これから見つけるはずの『救い』の形……)


 彼女は、杖を突き出し、ゆっくりと天秤へと近づいた。

 アイリスは静かに、しかし力強く、自らの魂の質量を、その見えない天秤に乗せようとしていた。

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