第66話:『神殺し』
塔の内部は、外の喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。
だがそれは、かつての清らかな静謐ではない。
重く、冷たく、肺にこびりつくような「停滞」の極致。
アイリスは、一段、また一段と石段を上がっていく。
壁には一族の歴史を刻んだ浮彫があり、代々の守護者たちが守り続けてきた「女神の加護」の重みがそこには宿っていたはずだった。
しかし、今のアイリスに伝わってくるのは、それらすべての価値が瓦解し、ただの石塊へと成り果てた虚無の感触だけだ。
やがて、彼女は最深部へと続く大扉の前に辿り着いた。
女神の像が鎮座し、エヴァリアの理を象徴する聖域。
その神聖なる入り口に、不釣合いな「肉の塊」が転がっていた。
「……は、はは……。ようやく、来たか……。エヴァリアの、呪われた、死神め……」
湿った、死の香りを孕んだ声。そこにいたのはメンデスだった。
かつて黄金を纏い、欲望の頂点にいたはずの男。
だが今の彼に、その面影はない。
その体は、まるで獣に乱暴に食い散らかされたかのように、無惨な斬痕で埋め尽くされていた。
まるで女神の加護によって塞がろうとする傷口を、さらに深い絶望が穿ったような、悍ましい損傷。
「メンデス……。貴方が、すべてを」
アイリスは冷徹な気配を放ちながら、その「惨骸」を見下ろした。
彼女の掌にある始祖の剣が、元凶の気配を捉えて鋭く鳴動する。
そして強烈な自責が胸を抉る。
「ああ、そうだ……。フェルゼンで、貴様に辱められたあの日から、俺はこの瞬間のためだけに生きてきた……。貴様の愛する故郷が、悲鳴を上げ、腐り落ち、ただの肉の掃き溜めになる様をな……! 最高だったぞ……、この国の民が、死ねない苦しみにのたうち回る様は……!」
メンデスは口から溢れる血をそのままに、狂気混じりの愉悦を浮かべた。
自らの死を目前にしながらも、復讐という毒が彼を突き動かしている。
「だが、教えてやる……。アイリス、貴様が信じてきたこの『楽園』の、本当の姿を……。女神の加護だと? 笑わせるな……。これはただの、呪いだ。太古の昔、死を恐れた貴様ら一族の祖が、この土地に縛り付けた……」
メンデスの言葉が続く。エヴァリアの「真実」。
それが女神の慈悲などではなく、何らかの歪んだ契約や代償の上に成り立っているという、おぞましき神話の解体。
だが、アイリスはその饒舌な狂気を、これ以上聞き続けるつもりはなかった。
「……もう、十分です」
刹那、抜剣の音さえ聞こえなかった。
アイリスが始祖の剣を一閃させると、メンデスの声は断たれた。
死を拒むこの国において、彼女の剣だけがもたらす「絶対的な無」。
メンデスの欲望に満ちた瞳から光が消え、彼の歪な野望は、その肉体と共に永遠の静寂へと沈んだ。元凶を屠った。
だが、アイリスの胸にあるのは勝利の悦びではなく、さらに深い淵へと引きずり込まれるような予感だけだった。
メンデスの死体を踏み越え、アイリスは重い石の扉を押し開いた。
そこは、エヴァリアの信仰の頂点――女神の聖域。
本来なら、そこには神秘的な光が満ち、透明な大気が漂っているはずだった。
だが、そこに広がっていたのは、想像を絶する「終焉」の光景だった。
床を埋め尽くしているのは、絢爛な衣装を纏ったままの、エヴァリアの王や上級貴族たちの死体だ。彼らは賊の手にかかったのではない。
その配置、その傷跡は、まるで何か大きな存在に「捧げられた」かのように、あるいは何かを恐れて自ら命を絶ったかのように、中心に向かって折り重なっている。
アイリスの鋭敏すぎる感覚が、その死体の山の奥、祭壇の前に鎮座する「一つの気配」を捉えた。
それは、彼女が世界で最もよく知る、重厚で、峻厳で、けれど誰よりも孤独だった鼓動。
「……ち、父上……?」
アイリスの声が、震えた。
その場所にいたのは、エヴァリアの守護者の長。
彼女の父だった。
しかし、その気配は、彼女の知る父のものではなかった。
血の匂いと、女神の加護が凝縮しすぎて腐敗したような、濃厚な「生」の澱み。
その中心に座る父は、背を向けたまま、何事かを呟きながら、自らの手で「国の神秘」を握り潰していた。
肉体はメンデスの賊や軍との戦いでの傷がまだ目立っている。
アイリスの旅の果て、辿り着いた答え。
その最前線に立っていたのは、メンデスという外敵ではなく、彼女が信じていた「一族の長」その人だったのだ。
「……ああ、帰ったか。アイリス」
ゆっくりと、父が振り向く。
アイリスはその気配に息を呑んだ。
父の背後にある女神の祭壇からは、眩いほどの光が溢れている。
だがそれは救いの光ではない。
密度を増しすぎた「再生の理」が、周囲の空間そのものを歪ませているのだ。
「父上、これは……一体、何をしたのですか」
父の周囲に転がっている貴族や王の死体。
それらからは、アイリスがかつて放ったあの一閃と同じ、「再生の放棄」の匂いが漂っていた。
父は自らの手で、同胞たちを「終わらせた」のだ。
「賊の暴力は、私にあることを教えた。……この国の『加護』とは、傷つく者がいる限り、無限に供給される呪いだ。民が刻まれれば刻まれるほど、国を満たす再生の力は強まり、逃げ場のない生を押し付ける」
父の瞳は、底知れない疲弊と狂気に沈んでいた。
「私は守護者の長として、民を、国を救おうとした。だが、外敵の殺意が加護を刺激し続け、もはやエヴァリアは肉体が腐り落ちることさえ許されない永劫の拷問部屋と化した。……だから、私は『器』となったのだ。もう民の悲鳴は、聞きたくないのだ」
父が祭壇に手を触れると、塔全体が鳴動した。
彼はエヴァリア全土に広がる女神の加護を、その身一つに無理やり「引き受けた」のだ。
民が死ねるように。再生という呪いから、彼らを解放するために。
しかし、人間の肉体には限界がある。
国全体の加護を一身に浴び続けた父の肉体は、内側から凄まじい速度で崩壊と再生を繰り返し、今や人としての形を保つことさえ奇跡に近い状態だった。
「王も、貴族も、私がその魂をあるべき場所へ送った。……アイリス、お前が旅で見た『終わり』こそが、今のこの国に必要な唯一の慈悲だったのだ」
父の手元には、砕かれた聖遺物が握られていた。
メンデスが「神秘を換金しよう」と目論んだ対象は、既に父の手によって破壊され、その膨大なエネルギーは父を異形の「不死の怪物」へと変えつつあった。
「私はこのまま、国中の加護を抱いて果てる。……だが、私の肉体が再生を続ける限り、この呪縛は解けない。お前が帰ってきたのは、運命なのだろうな」
父は、震える手で自身の腰にある剣を抜いた。
それは守護者としての矜持ではなく、一人の「死を願う父」としての、最期の願いだった。
「アイリス、お前のその『始祖の剣』で、私を、この国の呪いを断ち切れ。……それが、私からお前へ授ける、最後の儀式だ」
祭壇の光が逆巻き、父の肉体が異様に膨れ上がる。
国を救おうとした愛が、絶望によって反転し、世界を道連れにするような巨大な「生への執着」となってアイリスに牙を向く。
「……父上……っ」
アイリスは、始祖の剣を構えた。
メンデスという俗悪な悪は去った。
だが、その後に残されたのは、あまりにも哀しい「家族の決着」という、旅の最後にして最大の試練だった。
その時だった。アイリスの声に応えるように、父の肉体が不自然に跳ねた。
先ほどまで感じられていた「父としての絶望」が、急速に塗り潰されていく。
代わって塔を支配したのは、あまりにも純粋で、それゆえに慈悲の欠片もない「絶対的な光」だった。
「あ……が、ぁ……。アイリス、はや……く……」
父の口から漏れたのは、それが最期の言葉となった。
祭壇から溢れ出した女神の加護が、濁流となって父の五臓六腑へ、血管へと流れ込んでいく。
肉体が過剰な再生によって膨れ上がり、骨が軋む音が静寂を打つ。
女神――この国を数千年縛り続けてきた「不死の神」にとって、一族の長が抱いた「死への願い」は、自身の理に対する明白な反逆だった。
神は、反逆した父の意識を容赦なく押し潰し、その強靭な肉体を、暴走する加護を繋ぎ止めるための「生きた依代」へと作り替えたのだ。
「……父上を、放しなさい」
アイリスは、始祖の剣を正面上段に構えた。
だが、ゆっくりと顔を上げた「父」の瞳に、アイリスを愛した男の面影はもはやなかった。
白濁した瞳からは絶え間なく光の雫が溢れ、口元は神の理を代弁するかのような無機質な弧を描いている。
『……死ハ、許サレヌ』
父の喉を借りて響いたのは、この世のものとは思えぬ多重音だった。
父の右腕が、再生の熱によって異形の大剣へと変質していく。
それは敵を殺すための武器ではない。
触れたものに「終われない生」を強制的に流し込み、永遠の停滞へ引きずり込むための、呪いの触手だった。
『全テハ……光ノ中デ、永劫ニ……』
依代となった父の肉体が、物理的な質量を無視した速度でアイリスの懐へと踏み込んできた。
空気が爆ぜる。
アイリスは始祖の剣でそれを受け止めるが、伝わってきたのは「肉の重み」ではなく、世界そのものが押し寄せてくるような圧倒的な「生の圧力」だった。
「……おぞましい。これが、私たちが縋り続けてきた『加護』の正体ですか!」
アイリスは吐き捨て、力で押し返す。彼女が旅路で見てきた全ての「生」と「死」をそのすべてを「不変」の名の下に否定しようとする神の意志。
アイリスは、かつてないほど深く、自身の感覚を「無」へと沈めた。
対峙するのは、父の姿をした神。
エヴァリアの長い夜を終わらせるための、最後にして最も過酷な、神殺しの幕が上がった。




