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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
神殺しの月光と夜明けの理
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第67話:『オルフェウス・ルナリス・エヴァリア』

 古の塔の最深部、理が飽和したその空間で、世界は歪んだ光に塗り潰されていた。


 アイリスの前に立つのは、かつて父と呼ばれた男の肉体。


 しかし、そこから放たれるのは人間的な殺気ではなく、個の存在を許さぬほどに肥大化した「生の質量」であった。


『……死ハ、不浄ナリ。……生ハ、永遠ナリ……』


 父の喉を借りて響く、多重奏のような神の宣告。


 依代となった父の腕が、光の奔流と共に異形の大剣へと変質し、アイリスの頭上から振り下ろされる。それは物理的な破壊を目的とした一撃ではない。


 空気が爆ぜ、空間が軋むその衝撃波に触れただけで、周囲の石柱からは不自然な苔が猛烈な勢いで生い茂り、瞬く間に朽ちることさえ忘れ、肥大化していく。


「……くっ!」


 アイリスは始祖の剣を掲げ、その一撃を受け止めた。  

 刃が触れ合った瞬間、アイリスの右腕に凄まじい熱が流れ込む。


 それは「呪いの祝福」だ。女神の過剰な加護が、アイリスの細胞一つ一つを強制的に活性化させ、傷ついてもいない肉体を異常増殖させようと牙を剥く。


 血管が浮き上がり、指先が勝手に脈打つ。


 放っておけば、彼女の肉体は数秒のうちに意志を持たない肉の塊へと成り果てるだろう。


「……お断りします。私は、私のまま……この生を終えるためにここにいる!」


 アイリスは意識を自身の内側へと沈め、始祖の剣の真髄を呼び覚ます。  


 一族に伝わる「断絶」の理。


 それは、世界を繋ぎ止める因果さえも切り離す、無への回帰。


 彼女は自身の右腕に流れ込んだ過剰な「光」を、剣を介して物理的な重みごと一気に削ぎ落とした。剥ぎ取られた光の残滓が、塔の床で焼け付くような音を立てて消滅する。


 父の攻撃は止まらない。  


 剣が交わるたびに、エヴァリア全土から吸い上げられた「死を拒む意志」が、津波となってアイリスの精神を圧迫する。


 数千年の間、この国に積み重なってきた「終わることへの恐怖」。

 それが数万の亡者の嘆きとなって、アイリスの耳元で咆哮するのだ。


(戻れ……。不変の理の中へ。痛みも、喪失もない……永遠の凪の中へ……)


 誘惑に満ちた神の囁き。


 だが、アイリスの魂は揺るがなかった。


 彼女の脳裏にはこれまでの旅の景色が流れる様に甦ってくる。


 いつか消えてしまうからこそ愛おしい。

 いつか尽きるからこそ、その一瞬は輝く。


 彼女は旅で得た「限りある生」の記憶を盾に、神という名の絶対的な停滞に一歩も引かず、その猛攻を凌ぎ続けた。


 火花が散る。物理的な火花ではない、理と理がぶつかり合い、世界の色が反転するような神話的な光。


 十数合、あるいは数百合。


 時間の感覚が消失した攻防の中で、アイリスの剣が父の剣と深く噛み合った。


 刹那――刃の接触を介して、一筋の「記憶」がアイリスの意識に流れ込む。  


 それは、神の無機質なコーラスに押し潰されそうなほど微かな、一個の人間の魂の叫びだった。


(……済まない、母さん……アイリス。……カイン、セヴェルス。……私は、守りたかったのだ……)


 その瞬間に触れたのは、父としての、そして一人の守護者としての「長」の絶望だった。


 賊軍の蹂躙、同胞の悲鳴、そしてどれだけ肉を削がれても再生し、発狂していく民の姿。


 その地獄を目の当たりにした「父――オルフェウス・ルナリス・エヴァリア」は、戦いの中で悟ったのだ。メンデスという外敵を屠るだけでは、この地獄は終わらない。


 この国を包む「加護」そのものが、今の民にとって最大の暴力であると。


 父、オルフェウスは、血塗れの剣を握り、最深部へと駆け上がった。


 しかし、その奥の祭壇で、民の犠牲を顧みず「さらなる加護」を女神に祈り続けていた王族や貴族たちを目にした時、彼は決断した。


 不変を望む傲慢こそが、この地獄を繋ぎ止めている楔なのだと。


 オルフェウスは独り、一族の罪を背負うようにして、祈りを捧げる主君たちを斬り伏せた。


 それは王殺しという大罪であり、同時に、この国を数千年の停滞から解き放つための、凄絶な「愛」の行使であった。


 そして深部に現れたただ野望と復讐のための哀れな男を斬り払った。


「……父上!!《オルフェウス・ルナリス・エヴァリア》答えてください!貴方は、こんな『不変』のために、その手を血に染めたのですか!」


 アイリスの叫びが、神の無機質なコーラスに亀裂を走らせる。  


 伝わってくるのは、独りで血の海に立ち、女神に反逆した守護者の深い孤独。  


 彼は知っていた。

 神に逆らえば、その肉体は加護の暴走に呑み込まれることを。


 それでも彼は、民の悲鳴を止めるために、自らが呪いの「器」となる道を選んだのだ。


 アイリスの心から、迷いが消えた。

 対峙しているのは、神ではない。


 女神の牢獄に囚われ、今もなお独りで戦い続けている、誇り高き父だ。

 かつて、この剣は「終わらせるための牙」だと思っていた。


 だが、今は違う。


「……見えます。貴方が、どれほどの闇を独りで歩いてきたのか」


 アイリスは始祖の剣の柄を、祈るように強く握り直した。

 父を斬ることは、殺意ではない。


 それは、彼が捧げた自己犠牲という名の祈りを受け止め、その魂をあるべき夜へと導く、至上の「慈愛」だ。


「……お任せください。私の剣は、今この瞬間のために――月灯りに触れた剣として、闇を切り拓くためにありました」


 アイリスから放たれる気配が、一変した。

 冷徹な処刑人の響きは消え、そこにあるのは、すべてを優しく包み込み、そして解き放つ、夜明けの風のような澄んだ調和。


 彼女の覚悟が、神の理をも凌駕する「救済」へと昇華された瞬間だった。


 父、オルフェウス・ルナリス・エヴァリアの孤独は、アイリスが旅に出るずっと前から始まっていた。


 守護者の長として、誰よりも近くで女神の加護に触れ続けてきた彼は、一族の誰よりも早く気づいていたのだ。


 この美しき「不死の楽園」が、実は薄氷の上に成り立つ危うい均衡であることを。


 オルフェウスの脳裏に、数千年前の光景が神話的なヴィジョンとして浮かび上がる。


 かつての大戦、絶望的な飢饉と疫病がこの地を襲った際、先祖たちは神に救いを求めた。


 現れた女神は「不変」という名の慈悲を垂れた。


 それは、傷ついても死ぬことなく、永遠に同じ形を保ち続けるという呪いにも似た祝福。


 エヴァリアとは、女神という巨大な揺り籠に守られた、時間から切り離された「密室」だったのだ。


 だが、オルフェウスは蔵書の中で見つけた「点」と「点」を繋ぎ、その真実に戦慄した。女神の加護の源泉は、空の月ではない。


 この土地に溜まる「祈り」と「苦痛」のエネルギーだ。


 民が傷つき、再生を繰り返すたびに、女神の理はより強固になり、さらに深い霧を吐き出す。


 つまり、この国に生きる人々は、女神という名の巨大な生命体を維持するための「細胞」に過ぎなかった。


(この加護は、いつか食い破られる。外敵の暴力によって、再生のサイクルが限界を超えた時……エヴァリアは自重で崩壊するだろう)


 オルフェウスは、かつて宝物庫に眠る「始祖の剣」の前に立ち尽くした。  


 この剣は、女神の理の外側にある「無」から鋳造されたもの。

 これを抜けば、この停滞した神話を終わらせることができる。


 だが、それは数千年の信仰を裏切り、家族さえも「死」という未知の恐怖へ放り出すことを意味していた。


 父は迷い、一度は剣から手を離した。

 しかし、メンデス軍の蹂躙がその猶予を奪った。

 死ぬことのできない民が賊に刻まれ、肉の塊となってもなお、無理やり血管が繋がり、絶叫しながら脈動を続ける「再生の地獄」。その光景が決定打となった。


(アイリス……私は、お前にこの血塗られた道を歩ませたくはなかった。だが、お前が旅で持ち帰る『答え』だけが、私の犯した最後の大罪を救済へと変えられるのだ……)


 オルフェウスは独り、返り血を浴びながら王族たちの前に立った。


「祈りを止めよ。これ以上の加護は、民を腐らせるだけだ」


 だが、恐怖に支配された貴族たちは、さらなる不死を求めて祭壇に縋り付いた。


 その瞬間、オルフェウスは迷いを断ち、守護者の誇りである剣を、盲目的な信仰を掲げる主君たちへと向けた。


 アイリスの瞳から、《《生まれて初めて一筋の涙がこぼれ落ちる》》。  


 父が独りで抱え込み、誰にも言えずに摩耗させてきた数千年分の歴史の重み。


 それを今、彼女の剣が「慈愛」として昇華させる。


 依代となった父の肉体が、女神の意志に突き動かされ、最後にして最大の一撃を放とうと白銀の光を放つ。


 周囲の霧が収束し、純白の熱量となってアイリスを呑み込もうとする。


「エヴァリアの夜に、今こそ真実の眠りを」


 アイリスは、始祖の剣を正眼に構えた。


 彼女の全身を包む銀色の闘気が、月光と重なり、一つの巨大な「夜の意志」となる。刹那。


 放たれた一閃は、肉を斬る感触さえなかった。


 それはただ、父の肉体を縛り付けていた女神の契約という名の概念を、根底から切り離したのだ。


 カラン、という澄んだ音が響く。


 父を覆っていた異形の光が砕け散り、膨れ上がっていた肉体は、瞬く間に元の、少し背の丸くなった老いた守護者の姿へと戻っていった。


「……あ……」


 崩れ落ちる父の体を、アイリスは優しく抱きとめた。


 父の胸には、始祖の剣が深く突き刺さっている。


 だが、そこから流れる血は、もはや腐敗した光ではなく、温かな、人間の赤い血だった。


「……見事だ……アイリス……」


 オルフェウスの瞳に、柔らかな、人間の光が戻っていた。


「お前は……本当の、守護者になったのだな……」


 それと同時に、塔の屋根から差し込む光の色が変わった。  


 数千年の間、この国を支配してきた不自然な白い霧が、嘘のように薄れていく。  


 雲の合間から、初めて見る本物の月光が、静かに二人を照らし始めた。




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