第65話:『古の塔』
蹄の音が、夜の大地を無慈悲に叩き続ける。
アイリスとヨハネ、そして白銀の騎士団は、テラ・リュミエールを立ってから一度も休息を取らなかった。
馬が泡を吹き、乗り手の意識が朦朧とする過酷な行軍。
しかし、アイリスの背負う「始祖の剣」が放つ冷徹な熱が、彼女に眠りさえも許さなかった。
時間がどれほど経過したのか。
太陽が何度昇り、月が何度沈んだのか。
もはやアイリスの感覚から「日常の時間」は消え去っていた。
ただ一つ、北へ、北へと進むにつれ、大気に混じる「気配」が変質していくことだけが、彼女に距離を自覚させていた。
「……止まってください」
アイリスの掠れた声が、風を切り裂いた。
ヨハネが手綱を引き、後続の騎士団も一斉に足を止める。
そこは、かつて彼女が「外の世界」へと足を踏み出すために通り抜けた、エヴァリアの国境だった。
だが、今のそこにあるのは、彼女の記憶にある静謐な聖域ではなかった。
本来、エヴァリアを包む霧は、夜露のように清涼で、女神の吐息のように柔らかなはずだった。
しかし、今彼女の鼻腔を突くのは、重く、粘りつくような死の臭気――鉄錆と、焼けた肉、そして放置された汚物の混ざり合った、悍ましい「不純物」の塊だった。
「……う、あぁ……っ」
不意に、アイリスを激しい吐き気が襲った。
彼女は馬の首にしがみつき、込み上げる胃液を堪えて喉を鳴らす。
視覚を排した彼女にとって、香りと音こそが世界のすべてだ。
その世界が、今、修復不能なまでに冒涜されている。
女神の加護の中、幻想的なまでに美しく、完璧な凪を保っていた故郷。
その気高き静寂は、無秩序な暴力によって引き裂かれ、見るも無残な廃墟へと変貌していた。
「アイリス殿、大丈夫ですか!」
「……来ないでください。……大丈夫、です。ただ……あまりに、故郷の香りが変わりすぎていて……」
アイリスは震える足で地面に降り立った。
ヨハネと騎士たちも、沈痛な面持ちでそれに続く。
ここから先は、エヴァリアが誇る「幻惑の霧」の本領だ。
いかに加護が揺らいでいるとはいえ、馬を深入りさせれば、混乱して落馬や遭難を招くことは目に見えていた。
「これは……ひどいな」
ヨハネの傍らに立つ騎士の一人が、思わず声を漏らした。
霧の入り口付近。そこには既に、凄惨な「死の境界」が形成されていた。
地面を埋め尽くしているのは、メンデスが金で買い集めたであろう傭兵や、野心に駆られたはぐれ騎士たちの死骸だ。
彼らの死体は、エヴァリアの剣士たちに抵抗された末に力尽きたのか、あるいは同士討ちの結果なのか、無惨に泥を舐めている。
だが、アイリスの足を止めさせたのは、それら侵略者の死骸ではなかった。
(……若い、鼓動の跡)
アイリスは、泥にまみれた一本の杖に触れた。
それは見習いの若き剣士が使う、まだ手垢もついていない新しい杖だった。
そのすぐ隣には、本来なら数百年を生きるはずだった、エヴァリアの若者の「抜け殻」が転がっている。
通常、この国で死ぬことはない。
だが、二週間にわたる執拗な破壊と「再生の限界」を超えた損傷は、女神の加護さえも摩耗させ、彼らをただの肉の塊へと変えてしまったのだ。
つまり正しくは、死にきれない塊に。
「ヨハネ殿。……死が、堆積しています。この国に、あってはならなかったはずのものが」
アイリスの声は、もはや震えていなかった。
吐き気は消え、代わりに底冷えするような静かな怒りが、彼女の芯を貫いていた。
見えずとも分かる。森の奥から響いてくるのは、かつての穏やかな森のざわめきではない。
執拗な火薬の爆ぜる音、異国の言葉による罵声、そして、何度も何度も「再生」を繰り返した果てに、心が壊れてしまった同胞たちの、音にならない嗚咽だ。
かつて自分が「終わらせてしまった」あの一閃。
あの時は、それが罪だと、恐ろしい逸脱だと思っていた。
だが、今、目の前に広がるこの光景は、どうだ。女神の加護が、死ねぬ肉体が、これほどまでに残酷な「拷問」の苗床にされている。
「行きましょう。……ここから先は、私の戦いです」
アイリスは始祖の剣を握り直し、霧の深淵へと足を踏み出した。白銀の騎士団もまた、抜剣し、その後ろ姿を追う。
幻想の国エヴァリア。
その最後の幕を引くために、守護者アイリスは、血と泥に汚れた聖域へと帰還した。
深い霧を切り裂きながら進むほどに、音と気配は「かつての日常」を無慈避に解体していった。 アイリスが歩き慣れたはずの市場の通り。
そこは今、粘りつくような血の池と、硝煙の臭いに支配されていた。足元には、逃げ遅れた民たちが受けたであろう「実験」のような惨殺死体が転がっている。斬り刻まれ、繋ぎ合わされ、再生の理を弄ばれた果ての、肉の塊。
不意に、アイリスの足が止まった。
指先が、路傍に倒れた一人の女性の気配を捉える。
「……マ、マーサさん?」
それは、あの旅立ちの夜、アイリスに優しい言葉をかけてくれた、顔馴染みの商人だった。
ああ、そうだアイリス。
明日はぜひ店に来ておくれよ。あんたがまだ小さい頃に好きだった、あの甘いセレナハーブが入ってくるんだ
明日もまた、待っているからね
彼女の温かな声、カゴから香る果実の匂い。
そのすべてが、今は冷たい沈黙の中に沈んでいる。
決意を固め、覚悟を抱いて帰郷したはずだった。
だが、親しき者の死という「確定した不在」は、アイリスの胸を抉り、混沌とした悲しみが彼女の理性を蝕もうとする。
その通りの真ん中で、一人の男がかろうじて立っていた。
ボロボロになった外套をまとい、折れた剣を杖代わりに、執念だけでその場に留まっている気配。
「……セヴェルス……先生」
アイリスがその名を呼ぶと、男の肩が微かに揺れた。
彼はゆっくりと、見えない瞳でアイリスの方を振り向き、安堵したように口角を上げた。
「……強くなったな、アイリス。その気配……迷いがない」
セヴェルスはそれだけを言うと、糸が切れたようにその場に膝を突いた。
アイリスは駆け寄り、彼の身体を支える。
「セヴェルス先生、しっかりしてください! 父上は!? 他の方々は!?」
「……テラ・リュミエールの援軍と、あの司祭の軍勢が来てくれた。彼らのおかげで、街の掃討は何とかなったが……。援軍は今、別の場所でメンデスの残党を追撃している。……メンデス本人は、一族の秘密が眠る『古の塔』……上級貴族たちが逃げ込んだ先へ向かったようだ」
セヴェルスは途切れ途切れの声で続ける。
「司祭様と小隊は、生き残った民を連れて避難場所へ……。その後のことは、分からない。長殿の行方も……私には……」
セヴェルスは力なく笑い、アイリスの頬に手を伸ばそうとして、その途中で力が尽き、手が泥の上に落ちた。
「すまない……アイリス。お前の帰る場所を、守りきれなかった……」
再生すら追いつかないほどにズタズタに引き裂かれた肉体。
セヴェルスはそのまま意識を失い、深い静寂に沈んでいった。
「セヴェルス殿! ヨハネ殿、お願いします!」
アイリスの叫びに応じ、ヨハネが即座に指示を飛ばす。
「騎士団の二名、至急この者の治療を!命の灯火を絶やすな!」
治療が始まる中、アイリスは立ち上がった。
津波のように押し寄せる悲しみ。マーサの死。変わり果てた故郷。
それらすべてを、彼女は無理やりに心の奥底へと押し込めた。
今は泣く時ではない。感情を殺し、感覚を研ぎ澄ませる。
霧の向こう、エヴァリアの最深部。
一族の秘密と国の神秘が眠る場所。
かつては女神の祈りが満ちていたはずの「古の塔」から、これまで感じたこともないような、悍ましく、まがまがしい気配が立ち上っていた。
「……あそこに、すべてがいるのですね」
アイリスの瞳に、冷徹な月光のような鋭い光が宿る。
彼女は迷うことなく、禍根の源流である塔へと走り出しす。
アイリスは地を蹴った。
背後でヨハネがセヴェルスを介抱し、騎士たちに街の生存者捜索を命じる鋭い声が聞こえたが、それもすぐに霧の彼方へと遠のいていった。
目指すのは、エヴァリアの最深部にそびえる「古の塔」。
代々の長が女神の意思を聴き、この国の「不死の理」を管理してきた聖域。
かつてのアイリスにとって、そこは静謐な祈りに満ちた、畏敬すべき場所だった。
塔へと続く石畳の道。アイリスの足裏に伝わる感覚は、筆舌に尽くしがたい惨状を物語っていた。 転がっているのは、侵略者の無機質な鋼の匂いだけではない。
かつてこの道を共に歩んだであろう同胞たちの、無残に打ち捨てられた「肉」の感触だ。避ける間もなく、その気配を幾度も踏み越えていかねばならない。
(行かなければ……。私が、終わらせなければ)
喉の奥までせり上がる嘔吐感を、アイリスは鋼の意思で飲み下した。
感情を動かせば、この絶望の奔流に飲み込まれてしまう。
今はただ、自身の内側に宿る「断絶の感覚」だけを道標に、闇へと突き進む。
やがて、冷え切った大気が一段と重く、粘りつくような場所に辿り着いた。
古の塔。エヴァリアの信仰の源泉。
アイリスの記憶にある塔は、月の光を透かす白磁のように美しい場所だった。
しかし今、そこから放たれているのは、光を吸い込み、腐敗を撒き散らすような禍々しき澱みだ。女神の静寂は、何者かの醜悪な欲望によって完全に塗り潰されていた。
「……ようやく着いたわね、アイリス」
塔の入り口、暗がりに沈む影の中から、聞き覚えのある乾いた声が響いた。
シビュラだ。
フェルゼンで共に欲望の底を見届けた鑑定士。再会を喜ぶべき相手かもしれないが、今のアイリスにその余裕はない。
彼女の気配を感じ取っても、アイリスの心に再会の喜びや安堵が芽生えることはなかった。ただ、一人の「観察者」がそこにいるという事実だけを淡々と受け止める。
「シビュラ。……貴女は、ここで何を見ていたのですか」
アイリスの声は、感情を排した研磨された刃のように冷たかった。
シビュラは壁に背を預けたまま、アイリスの背負う「始祖の剣」が放つ異様な圧力を、愉しむように鑑定していた。
「見ていた? そうね……人間の欲望が、神の理をどれほど滑稽に解体していくか。その無様な芸術を眺めていたと言えるかしら」
シビュラは歩み寄り、アイリスの目の前で立ち止まった。
その視線は、アイリスの心の奥底にある「覚悟」を見透かしているかのようだった。
「アイリス。あの日、あなたは『答え』を探すために旅に出た。けれど……一つだけ警告してあげる」
シビュラの唇が、不吉な弧を描く。
「この扉の先で、あなたは本当の絶望を見るかもしれない。あなたが愛し、守ろうとしてきたものの正体が、これほどまでに醜く、救いのないものだったと思い知るかもしれない。……それでも、行くの?」
アイリスはシビュラの横をすり抜け、澱んだ気配が渦巻く塔の内部へと、迷うことなく足を踏み入れた。




