第64話:『つなぐ未来』
月光が、どこまでも続く街道を淡く照らしていた。
ガタゴトと規則正しく揺れる荷馬車の荷台。
アイリスは、香辛料の袋と柔らかな布束の隙間に身を預け、浅いまどろみの中にいた。食堂で食べたシチューの温かさが、まだ身体の芯に微かに残っている。
胃の腑が満たされ、血が緩やかに巡る感覚。
それはエヴァリアでは決して味わうことのなかった、泥臭くも愛おしい「生」の充足だった。
(……このまま、穏やかな時間が続けばいいのに)
そんな、旅人らしい感傷が脳裏をよぎった瞬間だった。
アイリスの意識を包んでいた柔らかな微睡みが、鋭利な刃物で引き裂かれる。
「――っ!?」
彼女は弾かれたように上身を起こした。
隣で同じように仮眠を取っていたボルクが、その急激な動きに目を擦りながら声をかける。
「どうした、アイリスさん。悪い夢でも見たか?」
アイリスは答えない。いや、答える余裕がなかった。
彼女の全神経は今、テラ・リュミエールの穏やかな夜風が運んでくる「音」の層を、必死に選り分けていた。
視覚を持たない彼女にとって、世界は常に多重的な響きで構成されている。
草木が夜風にそよぐ摩擦音、遠くの森で夜鳥が羽ばたく気配、街道の土が馬の蹄に踏みしだかれる重厚な振動。
それらは本来、調和のとれた「夜の調べ」として彼女の耳に届くはずのものだ。
だが、今。その調和の中に、悍ましい「不純物」が混じっていた。
それは耳で拾う物理的な音ではなかった。
もっと深い場所――一族の血、そして膝元に置かれた「始祖の剣」が、何かに共鳴して激しく震えているのだ。
(……悲鳴?)
数十か数百キロか先。霧に閉ざされた故郷エヴァリア。
そこから届くのは、肉体を失った霊魂が上げる断末魔のような、凄烈なまでの不協和音だった。
エヴァリアを包んでいた数千年の「凪」が、今、決定的に破られている。
アイリスの感覚を支配していた、故郷との細い、けれど絶対的だった加護の繋がりが、引きちぎられた楽器の弦のように鋭い痛みを持って跳ねた。
一族の血が、警鐘を鳴らしている。
父の鼓動、セヴェルス殿の足音、カインの気配――それらすべてが、鉄錆と血の匂いが混じり合った濁流に呑み込まれ、消えようとしている。
「アイリスさん? 顔色が真っ青だぜ、おい」
ボルクの心配そうな声が遠く聞こえる。
アイリスは震える指先で、始祖の剣の柄を強く握りしめた。
剣は、氷のように冷たく、かつてないほどに重く脈動していた。
「……何かが、起きています」
「何かって……何がだよ」
「分かりません。でも、私の知っているエヴァリアが……今、終わろうとしています」
アイリスの言葉は、確信に満ちていた。
彼女が旅に出てまで探し求めていた「終わり」の正体。
それが今、彼女の不在を突くように、最悪の形で故郷を蹂躙している。
アイリスは暗闇の中、見えぬ瞳を空へと向けた。
そこには、ただ冷徹な月光だけが降り注いでいた。
数日後。馬車は予定よりも早く、交易国家テラ・リュミエールの巨大な外門へと辿り着いた。
この国は本来、朝一番の開門と共に、商人の活気と喧騒が溢れ出す「富の象徴」のような場所だ。
ボルクもそれを楽しみに、鞭を振るって馬を急がせていた。
だが。城門が見える距離に近づくにつれ、御者台に座るボルクの背中が、目に見えて強張っていくのをアイリスは感じ取った。
「……おかしいな。なんだ、この静けさは」
ボルクの呟きは、アイリスが先ほどから感じていた違和感と同じものだった。
交易路を埋め尽くしているはずの馬車の列がない。
代わりに視界を埋めているのは、武装を整えた兵士たちの不規則な足音と、物々しく警戒を強める門番たちの殺気立った声だ。
門の前に立ち往生している数少ない商人たちは、怯えたように肩を寄せ合い、ヒソヒソと噂話を交わしている。
アイリスは馬車の荷台から身を乗り出した。
彼女の感覚が捉えたのは、この街に流れる「時間」が、既に数日前から狂い始めているという事実だった。
「ボルクさん、街の空気が……焦げ付いています」
「ああ、こりゃあ尋常じゃねえ。……おい! 門番の旦那、一体何があったんだ!交易路に賊でも出たのか?」
ボルクが顔なじみの兵士に叫ぶ。
兵士は苦り切った表情で、ボルクの馬車を路肩に寄せるよう手で合図した。
「ボルク、お前……しばらく外を廻ってたから知らないのか。もう二週間近くなると思うぞ。北の『エヴァリア』から血塗れの伝令が飛び込んできて、この街はひっくり返ったんだ」
その言葉に、アイリスの心臓が大きく跳ねた。
「伝令……?」
「ああ。高名な司祭ベネディクト様の署名が入った援軍要請だ。あの霧の国が、得体の知れない大軍に襲撃されているとな。我が国の王も、最初は半信半疑だったが、あのベネディクト様の名が出てちゃあ無視できねえ。既に、第一陣の騎士団が発った後だよ」
アイリスは、馬車から静かに降り立った。
彼女の耳は、門の脇に控えている一団の気配を捉えていた。
テラ・リュミエールの兵士たちとは異なる、静謐で、どこか宗教的な厳格さを纏った響き。
その中の一人が発する気配は、かつてエンド・ロアで出会ったあの老司祭――ベネディクトのそれに酷く似ていた。
「……『死とは、場所を移すこと』。貴方は、その言葉の意味を知っていますか」
アイリスがその青年に向かって静かに問いかける。
白銀の甲冑を纏った青年は、驚いたように顔を上げた。
その聖句は、彼が師から授かった最も大切な教えだったからだ。
「貴女は……。その言葉を、どこで」
「エンド・ロアで、貴方の師に教わりました。私はアイリス。エヴァリアの守護者です」
青年は痛みを堪えるように顔を歪め、胸元で聖印を刻んだ。
「……私はヨハネ。ベネディクト師に仕える者です。アイリス殿、貴女を探していました。……ですが、遅すぎた。既にテラ・リュミエールの軍が発っておよそ二週間。エヴァリアからは一人の生還者も、一報もまだ戻っていないのです」
ヨハネの言葉に、隣にいたボルクが息を呑んだ。
事態は既に、救出から「絶望の確認」へとフェーズを移そうとしていた。
「師は、あの中に救済があると信じて突入されました。ですが、カイン殿が届けた書状には……あそこにあるのは『終われない地獄』だと記されていた。二週間の間、彼らがどのような目に遭っているのか……想像するだけで、神への信仰が揺らぎそうです」
その言葉が、アイリスの思考を真っ白に染め上げた。
例え二週間という月日は、エヴァリアの住人にとっては瞬きのような、取るに足らない時間のはずだった。
だが、今のエヴァリアにおける二週間は、文字通り一分一秒が「終わりなき処刑」に等しい。加護による再生が、苦痛を永続させるための装置に成り果てている。
その現実が、彼女の鋭すぎる想像力を介して、逃れようのない津波のように押し寄せた。
「アイリス殿!?」
ヨハネの叫びが遠のく。
アイリスの膝から力が抜け、感覚が急速に暗転していく。
彼女の脳裏には、父の血塗れの背中や、恐怖に歪んだ見習いたちの顔が、見たこともないはずの光景として焼き付いていた。
一族の血が、故郷の断末魔を増幅して彼女に叩きつけていたのだ。
宿場町ナハトで得た「温かなシチュー」の記憶さえも、今は冷たい泥のように彼女を底へと引きずり込んでいく。
あまりの絶望の密度に、アイリスの精神は自らを保護するために意識を断絶させようとしていた。
――その時だった。
背負った「始祖の剣」が、突如として火を吹くような熱を放った。
それは温もりではない。
脳髄を直接突き刺すような、烈火のごとき「冷酷な叱咤」だった。
(……まだだ)
剣の柄から伝わる、意思を持ったかのような脈動。
それはアイリスに、かつて自身がエヴァリアで初めて「終わらせてしまった」あの瞬間の感触を思い出させた。
あの時の、刃が虚無を断ち切ったときの、あの絶対的な「責任」の重みを。
「……っ!」
アイリスは、自分の唇を強く噛み切った。口内に広がる血の味が、意識を現世へと繋ぎ止める。
背中の剣が、まるで「お前が始めた物語を、お前が投げ出すのか」と問いかけているようだった。
意識を失って逃げることは許されない。
この剣を抜き、あの停滞した楽園に真の夜を届けるまで、彼女には倒れる権利すらなかった。
「アイリス殿、しっかりしてください! 貴女の弟君――カイン殿は、生きておられます!」
ヨハネがその肩を支え、必死に声を張り上げた。
その名に、アイリスの肩が小さく震える。
「カインが……?」
「はい。彼はあの地獄から、血塗れの書状を抱えて一人で飛び出してきたのです。我々が街道で倒れている彼を見つけ、手当てを施しました。今、彼は我が教団の救護室に収容されています。……彼は死んでいません。容態は未だ安定せず、深い眠りの中にありますが、彼は命を繋いだのです」
ヨハネの言葉に、アイリスは天を仰いだ。
意識の端で、遠く離れた救護室に横たわる、弱々しくも懸命に脈打つカインの気配を、一族の血が微かに捉えたような気がした。
彼が繋いだのは、単なる援軍への書状ではない。エヴァリアの「未来」そのものだ。
「カインが……命を削って、ここまで繋いでくれたのですね……」
立ち上がった彼女の姿からは、先ほどまでの「揺らぎ」は消え去っていた。
代わりに立ち昇るのは、一族の罪を背負い、神の理すら断絶せんとする、冷徹な執行官の気配。
「ヨハネ殿。司祭様は、エヴァリアを『救う』ために行かれましたね。ですが、私は違います。私は、あの国を終わらせるために帰ります。父が、カインが、民が……再生の牢獄で叫んでいる。その声を止めることができるのは、この剣だけです」
アイリスは、返り血で汚れた自身の杖(剣)を、力強く握りしめた。
「ボルクさん……本当に、ありがとうございました」
アイリスは一度だけ、呆然と立ち尽くすボルクの方向へ深く頭を下げた。
そして次の瞬間には、ヨハネが用意した馬の背へと鮮やかに飛び乗っていた。
「我々もお供します」
ヨハネが剣を掲げると、背後に控えていた騎士たちも呼応する様に馬にまたがる。
「行きましょう。カインが守った命を、無駄にはさせません」
白銀の騎士団と、黒き杖の剣士。
先頭を走る二騎の影は、月光を切り裂きながら、赤黒い霧が渦巻く地平へと向けて、雷鳴のごとく駆け出した。




