第63話:『生きているということ』
「――いやあ、本当に助かったよ、アイリスさん。あんたがいなかったら、今頃俺は魔物の胃袋の中で、自分の金貨の数を数える羽目になっていたところだ」
快活な笑い声と共に、一人の男が歩み寄ってきた。
アイリスは、小さな宿場町の噴水広場にある石ベンチに腰を下ろし、膝の上に置いた「始祖の剣」の感触を確かめていた。
ここ、宿場町ナハトは、大国と交易路を結ぶ中継地点に過ぎない小さな街だが、レンガ造りの家々からは夕食の支度の匂いが漂い、子供たちの駆け回る足音が石畳を叩いている。
エヴァリアの冷たい静寂とは正反対の、命の熱が吹き溜まるような場所だった。
「気になさらないでください、ボルクさん。私も、この街へ向かう道を探していましたから」
アイリスは静かに微笑んだ。
彼女が助けた男、ボルクは、テラ・リュミエールの行商人だった。
数日前、街道で魔物に襲撃され、馬車の馬が恐怖で硬直して万事休すという場面にアイリスが通りがかり、鮮やかな一閃で魔物を「断絶」して救ったのだ。
ボルクはテラ・リュミエールの商人として、エヴァリアとの細い交易路を往復した経験があった。
だからこそ、彼女の持つ独特の重厚な杖――もとい剣と、何より彼女が纏う「視覚を必要としない完成された身のこなし」を見て、即座に彼女がエヴァリアの守護者の一族であることを悟った。
「しかし驚いたよ。エヴァリアの貴種が、一人でこんな辺境を旅しているなんてな。あの国は……ほら、言い方は悪いが、箱入りの楽園だろう?」
街へ向かう道中、アイリスはボルクに、自分が国を出た理由を淡々と話した。
故郷を覆う停滞と、自分が斬ってしまった「再生の放棄」。
自分は「生きているのか死んでいるのか」。
そして死も変化もないエヴァリアに、いつか訪れるであろう「終わり」の正体を知るために旅をしているのだと。
ボルクは鼻を鳴らし、「難しいことは分からんが、あんたの剣は優しかったよ」とだけ言って、彼女の事情を深く追求することはしなかった。
それが、外の世界で生きる人間の程よい距離感なのだろう。
「用事は済みましたか?」
アイリスが尋ねると、ボルクは満足げに、ずっしりと重そうな革袋を叩いて見せた。
「ああ、上出来だ。この街の連中は、テラ・リュミエールの香辛料をいつも心待ちにしていてね。さて、約束通り、あんたをテラ・リュミエールまで送らせてくれ。あんたみたいな腕利きの剣士が護衛してくれるなら、道中の安心料としては安すぎるくらいだ」
「……いえ、そんな。私はただ、自分の目的のために移動しているだけですから」
「固いこと言うなよ。エヴァリアの住人なら、外の世界の通貨なんて持っちゃいないだろう?もうわかっていると思うがここじゃあ、女神の加護じゃ腹は膨らまないんだ」
ボルクはいたずらっぽく笑い、広場の向こうにある小さな食堂を指差した。
「さっきの魔物退治の、これは本当のお礼だ。飯を奢らせてくれ。テラ・リュミエールへ向かう前に、この街で一番旨いシチューを食べていこうじゃないか。肉が柔らかくてな、噛むと『生きてる』って実感が湧く代物だぜ」
「……『生きている実感が湧く』、ですか。それは……ぜひ、甘えさせてください」
アイリスの口元に、自然と柔らかな笑みが浮かんだ。
エンド・ロアでベネディクトに教わった、救いとしての死。
フェルゼンで見た、欲望と引き換えの生。
それらを巡る思索の旅の中で、こうした名もなき商人の打算のない善意は、彼女の凍てついた心をわずかに解きほぐしてくれる。
案内された食堂は、お世辞にも立派とは言えなかったが、使い込まれた木の床には温もりがあり、何より煮込み料理の力強い香りが充満していた。
運ばれてきたシチューは、大振りに切られた獣肉と、その土地で採れたであろう根菜が琥珀色のスープにどっぷりと浸かっている。
アイリスが匙を運び、一口含んだ瞬間、舌の上で解ける肉の繊維と、野菜の野性味溢れる甘みが口いっぱいに広がった。
(……美味しい)
それは、エヴァリアで食していた、精進料理のように淡白で、ただ栄養を摂取するためのだけの食事とは根本から違っていた。
道中の旅では、自生する草を噛み、時には獲った獣を焼いただけの、味気ない食事で飢えを凌いできた。
生きることの過酷さを、一日、また一日と肌で感じ、心身ともに磨り減っていたアイリスにとって、丁寧に調理されたこの一皿は、文字通り五臓六腑に染み渡っていく。
咀嚼するたびに、血が巡り、指先にまで熱が宿る。
ボルクが言っていた「生きている実感」という言葉が、すとんと胸の内に落ちた。
カナンリスで食べた食事もやはり美味しかった。
誰かが時間をかけて想いを込めて作られた料理は、視覚はいらない。
口に運んだだけで既に暖かい。
「どうだい、エヴァリアの聖女様。外のメシも悪くないだろう?」
ボルクが豪快にパンを千切りながら尋ねる。アイリスは小さく頷き、口元を拭った。
「はい。生きるために命をいただくということが、これほど重く、温かいものだと改めて分かった様な気がします」
腹を満たし、少しばかり身体が軽くなったのを感じたアイリスは、ふと、心に決めていたことを口にした。
「ボルクさん。私……テラ・リュミエールへ着いたら、そこからエヴァリアへ帰ろうと思うんです」
その言葉に、ボルクは一瞬だけ匙を止めたが、すぐにまた食べ始めた。
「そうか。ようやく腹が決まったか。なら、なおさら一緒に帰ろう。俺たちの国なら、全員ってわけにゃいかないが、俺みたいに外の世界と交わってる連中なら、あんたが何を求めて旅をしてきたか、少しは理解してくれるはずだ」
ボルクは一度シチューを飲み込み、真面目な顔でアイリスを見つめた。
「ただ、覚悟はしておけよ。なんでエヴァリアの守護者が国を出て、何を拾って帰るのか……それは嫌でも聞かれることになる。あんたが持ち帰る『答え』が、あの国にとって薬になるか毒になるか、俺には分からんがな」
「……ええ、分かっています」
食事を終え、膨れた腹に宿る確かな生命の熱を感じながら、二人は食堂を出た。 夕闇が迫る中、ボルクの荷車がカタンと音を立てて待っていた。
アイリスは促されるままに、香辛料や布束が積まれた荷台の隅に腰を下ろす。
「よし、出発だ。夜通し走れば、明日の昼過ぎにはテラ・リュミエールの門が見えてくるぜ」
ボルクが御者台で鞭を鳴らすと、馬車はゆっくりと、揺れを伴いながら走り出した。
石畳を叩く規則正しい蹄の音。
頬を撫でる夜風。
アイリスは背後に遠ざかっていくナハトの街の灯りを感じながら、深く息を吐いた。
帰還への路。
それは同時に、彼女がこれまでに触れてきた「終わり」の数々を、故郷の「不変」へと突きつける戦いの始まりでもあった。




