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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
神殺しの月光と夜明けの理
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第62話:『赤い霧』

 エヴァリアを包む霧は、もはや静謐な安らぎのベールではなかった。  

 それは、外の世界から持ち込まれた火薬と松明の熱に焼かれ、鉄錆と血の匂いを孕んだ、悍ましき不協和音の器へと成り果てていた。


「止まらないで! 聖域まであと少しだ、耳を澄ませて、前の人の肩に触れて!」


 カインの声が、混迷を極める都の広場に響く。

 地下聖域へと続く巨大な回廊。


 そこは今、パニックに陥った民が押し寄せる濁流と化していた。

 視覚を持たぬ彼らにとって、これまでは「静寂」こそが地図であり、指標であった。


 しかし今、都を埋め尽くしているのは、どこから飛んでくるかも分からぬ罵声と、肉を焼く火の粉の爆ぜる音。


 そして何より、足裏を伝って絶え間なく響く無秩序な震動だ。


 恐怖は、鋭すぎる感覚を狂わせていく。

 ある者は過呼吸に陥り、ある者は「音」の暴力に耐えかねて耳を塞ぎ、その場に頽れた。


 彼らにとって、この騒乱は世界そのものが崩壊していく音に等しかった。


「カイン様! 東の居住区から火の手が! あちらの民の誘導が間に合いません!」


 声を上げたのは、まだ一族の試練も終えていない若い女性の剣士見習いだった。


 彼女の手にある杖は、震えを隠しきれずに石床を叩いている。


 カインは、懐にある援軍要請の書状――エヴァリアの存亡を賭けた、血の滲むような交渉の結晶――を強く握りしめた。


(一刻も早く、この書状を外へ送り出さねばならない。だが、目の前の民を捨てて行けるか……!)


 その逡巡を切り裂くように、街の境界を越えた侵略者の影が、霧の中から現れた。


 メンデスが放った分隊。

 彼らは、手にした松明で盲目の民の衣服を焼き、その反応を楽しげに観察していた。


「ひゃはは! 見てろよ、こいつら、斬っても斬ってもすぐに盛り上がってきやがるぜ!」

「本当だ。おい、この女の腕、今度は何秒で繋がるか賭けようぜ」


 下卑た笑い声と共に、無抵抗な老人に刃が振り下ろされる。  


 悲鳴が上がり、肉が裂ける。

 女神の加護は、確かに即座に傷を塞ごうとした。


 しかし、再生しようとする肉体を、再び、そして執拗に刻む。


 死なぬがゆえに、終わらぬ苦痛。

 加護という名の祝福は、今や「無限に弄び得る肉体」という名の呪いへと反転していた。


「やめろ……やめろぉぉぉ!」


 見習いの若者たちが、堪らず剣を抜き放つ。


 まだ「生を留める作法」の途上にある少年少女たちが、命を刈り取ることを生業とするプロの傭兵たちに、震える手で立ち向かわねばならない。


 エヴァリアの静寂は、無垢な若者たちの悲鳴によって塗り潰されていった。


 一方、国境の森。

 そこはもはや、この世の光景ではなかった。  


 霧と血が混ざり合い、幻想的なまでの「薄紅色の深淵」が広がっている。


 一族の長――アイリスの父の剣は、もはや銀の残像となって空間を支配していた。


 杖を捨て、本来の「死を司る技術」を解放した彼の周囲には、五体満足な敵兵は一人として存在しない。しかし、敵の密度は増す一方だった。


 父の傍らで剣を振るうセヴェルスもまた、その「理」の変容を肌で感じ取っていた。


(……摩擦が、重い)


 剣を振るい、相手の急所を突くたびに。

 あるいは自らの肩を掠める刃を浴びるたびに。

 これまで空気のように当たり前に存在していた「再生」の理が、目に見えて軋み始めていた。


 数千年の安寧を支えてきた女神の加護。


 それが、あまりにも過密で、あまりにも濃密な「殺意」の連鎖によって、その処理能力の限界を超えようとしているのだ。


「ぐ、あぁ……!? 塞がらない……なぜだ……!」


 前線で戦っていた、一族の若き剣士二人が絶叫した。  


 一人の胸を貫いた刃。いつもなら一拍置いて塞がるはずの孔から、熱い鮮血が止まることなく溢れ出し、冷たい土を濡らしていく。  


 もう一人の若者は、斬り落とされた自らの指を見つめて呆然と立ち尽くしていた。 

 再生の火花は散るものの、指は肉に繋がることなく、ただ泥に汚れて転がっている。


 死が存在しないはずの国に、初めて「消失」の影が落ちた。  

 若者たちの顔に、これまで一度も経験したことのない感情が浮かぶ。  


 それは、痛みの先にある真の終わり――「自分が、自分として存在できなくなること」への、根源的な恐怖。


「父上……助けて、死にたくない……!」


 その懇願に近い叫びを聞きながら、父の剣は止まらなかった。  

 その背中に、かつて娘が見出した「冷徹な決意」が再び宿る。


「……嘆くな。これこそが、我らが数千年の停滞の末に、ようやく辿り着いた『真実の始まり』だ」


 父の鼓動は、狂おしいほどに激しく、そして凄烈に鳴り響いている。  


 若者たちが死への恐怖に震える中で長だけは、この崩壊そのものを一族が本来あるべき姿へと還るための「聖別」であるかのように受け入れていた。  


 彼は修羅と化し、再生の止まりかけた己の肉体を顧みず、血霧の向こうへとその身を投じていった。


 侵攻の遥か後方。贅を尽くした輿の上で、メンデスはクリスタルグラスを傾けていた。


 揺れる深紅のワイン越しに、炎上し、蹂躙されていくエヴァリアの都を眺める彼の瞳には、狂気と愉悦が宿っている。


「素晴らしい……。実に素晴らしい調べだと思わないか?」


 彼は独りごち、満足げに鼻を鳴らした。  


 フェルゼンでアイリスに自らの帝国を、黄金の矜持を粉々にされたあの日から、彼はこの瞬間だけを夢見て生きてきた。


 自分を辱めたあの女が愛した故郷。

 死も病も存在しないという、傲慢なまでに完璧な箱庭。

 それを自らの手で解体し、屑鉄と血の山に変えること。


 それこそが、彼にとって唯一の「再起」だった。


 そして伝承にしか聞かない、いわば神話や御伽噺の様な国を自らの手で歴史に終止符を打つ感覚。神に刃を向ける背徳感。


「この国を解体し、その神秘を我が手に収める。加護の源泉、再生の秘跡……。これらすべてを換金すれば、私は再び『黄金の王』として君臨できる。いや、それどころか、この摩訶不思議な理を基盤に、私が新たな『死なぬ国』の王として成り上がってやろう」


 肥大化した妄想は、彼を王座へと誘う。

 失われたプライドの穴を埋めるのは、さらなる強欲と支配の欲求だった。


 死なぬ生命などあり得ない。

 死なぬ生命などあってはならない。

 それは全ての始まりを否定する。

 それは全ての死と。全ての終わりの冒涜だ。

 永遠などあってはならない幻だ。


 その喧騒から少し離れた、小高い丘の上の大樹の陰。  


 シビュラは、いつの間にか安全な場所に身を隠し、膝を抱えて座っていた。  


 戦火の熱も、民の悲鳴も、彼女の鑑定士としての冷徹な観察眼を曇らせることはない。


「……醜いわね。強欲という名の飾りに、復讐という名の毒を混ぜた、最悪の贋作」


 シビュラはメンデスの輿を冷ややかに見つめ、それから視線を、激闘の続く霧の森へと向けた。彼女には見えていた。


 この惨劇の連鎖が、単なる一国の滅亡では終わらないことを。


 この地獄のような「終わり」の不協和音こそが、遠く離れた場所で真実の月光を浴びるアイリスへの、残酷な招待状であることを。


「アイリス。あなたがこの光景を『鑑定』したとき、あなたはどんな答えを出すのかしら……」


 シビュラの唇が、不吉に、けれどどこか愛おしげに弧を描いた。


 霧は赤く、夜は深い。


 エヴァリアの鼓動は、終わりなき苦痛の悲鳴へと変わり、加速していく。

 カインは、懐にある血塗られた援軍要請の書状を、指が白くなるほど強く握りしめた。


 背後からは、見習いの少女たちが賊の暴力に晒される悲鳴と、再生し続ける肉体が発する湿った音が聞こえてくる。


 足を止め、剣を抜いて戻りたいという衝動がカインを焼く。

 だが、今ここで自分が戻れば、エヴァリアは永遠に閉ざされたまま、この無秩序な地獄に飲み込まれる。


「……すまない。必ず、繋いでみせる」


 カインは前だけを見据え、一族随一の杖技を振るった。

 迫りくる傭兵の脛を砕き、視界を奪う霧を逆に利用して、包囲網の隙間を縫うように駆ける。


 傷を負いながらも賊軍の気配をなんとか感じ取り、それらの居ない霧の出口の気配。

 そこにはシビュラが立っていた。


「あら、意外と早かったわね。でも、その密書を届ける相手、外の世界に心当たりはあるのかしら?」


 嘲笑うような彼女の声に、カインは答えず、ただ霧を突き抜けた。  


 エヴァリアの外に出た瞬間、カインの身体を「重力」が襲った。

 女神の加護が薄れ、再生の熱に浮かされていた傷口が、外の世界の冷酷な乾燥に晒されて鋭い痛みを訴え始める。


 一族にとって、加護のない世界を走ることは、剥き出しの神経で荒野を往くような苦行だった。


 どれほど走っただろうか。


 肺が焼け、意識が白濁していく中、カインは街道に膝を突いた。  


 エヴァリアの外は、あまりにも音が遠くまで響く。

 盲目の彼にとって、遮る霧のないこの世界は、無限に広がる虚無のように感じられた。


(ここまでか……アイリス、父上……)


 カインが絶望に沈みかけたその時、大地の震動が彼の耳に届いた。  


 メンデス軍のあの不快な不協和音とは、対極にある音。


 規則正しく、重厚で、まるで教会の鐘の音を鉄の響きに変えたような――蹄の音。


 夜の帳を切り裂き、白銀の甲冑を纏った小一団が姿を現した。  


 彼らは松明を掲げていない。


 ただ、雲の切れ間から漏れる月光をその盾に反射させ、闇の中に自ら光を放つ道標のように進軍してくる。


 その中心に、馬を駆る銀の仮面をつけた一人の男がいた。


 司祭ベネディクトだった。


 彼に従うのは、各地で彼の慈悲に触れ、死の安らぎを説く彼を守護すると誓った数少ない「救済騎士」たちだ。


 彼はこの近くの街や村を廻っていた最中、本来あるべき「命の循環」を乱すような、暴力的な濁った殺意を敏感に感じ取り、ここまで足を運んでいた。


「……誰か倒れている。ヨハネ、様子を」


 ベネディクトの指示で、一番弟子の青年聖職者ヨハネが即座に馬を降り、カインの元へ駆け寄った。


 ヨハネはカインの傷口に手を当て、清潔な布で手際よく応急処置を施していく。


「司祭様、ひどい深手です。それにこの者……脈動が普通ではありません。まるで肉体が内側から燃えているような……」


「エヴァリアの民か。アイリス殿の故郷に、何かが起きたのだな」


 ベネディクトは馬から降り、カインの傍らに膝を突いた。


 カインは薄れゆく意識の中で、自分を介抱する温かな手と、ベネディクトの「夜明けの鐘」のように澄んだ響きの声を聞いた。


 カインは最後の手を伸ばし、血塗れの書状を差し出した。


「……これを、エヴァリアに、援軍を……!」


 ベネディクトは、震える手からその書状を受け取った。血に汚れ、乱れた筆致で記されたそれは、もはや一国の外交文書というより、魂の叫びだった。


「ヨハネ、この書状を受け取りなさい」


 ベネディクトは、傍らで手当てを終えたヨハネに書状を託した。その瞳には、慈悲深さの中に、命を弄ぶ賊軍に対する静かな怒りが宿っている。


「ここにはテラ・リュミエールを始めとする恐らくエヴァリアの交易諸国の名がある。お前はすぐに数騎を連れて走りなさい。この書状を各国の王に届け、『女神の加護が死を弄ぶ道具にされようとしている。命の安らぎを守るため、直ちに兵を出せ』と、私の名で伝えるのです」


「承知いたしました。司祭様、しかし貴方は……」


「私は、この若者の仲間を救いに行きます。死とは場所を移すこと……。だが、無理やり居場所を奪い、再生の苦しみに閉じ込めることは、やはり救済ではありません」


 ヨハネは深く頷くと、カインを安全な場所に運ぶよう他の騎士に命じ、自身は預かった書状を抱えて夜の闇へと馬を走らせた。


 ベネディクトは再び馬に跨り、赤く染まり始めた霧の森の方角を見つめる。


「行きましょう。向こうには、まだ正しい『安らぎ』を必要とする魂が溢れている」

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