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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
神殺しの月光と夜明けの理
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第61話:『覚悟と生命』

 エヴァリアの境界線、霧の石碑。

 カインの耳を打つ不快な軍靴の轟音は、もはや幻聴ではなかった。

 鉄錆の匂いと、規律なき破壊の意志が混じり合った「音の奔流」が、聖域である霧の森を土足で蹂躙し始めている。


「本格的な口封じか、あるいは歴史から本当に消そうとしに来たのね」


 傍らで不敵に笑うシビュラの言葉が、カインの背筋を凍らせる。  


 この女を監視下に置くべきか、あるいはいっそのこと斬り伏せるべきか。

 逡巡は一瞬だった。霧モヤの向こうから聞こえるのは、エヴァリアの調和とは程遠い、剥き出しの強欲と殺意。

 カインは弾かれたように地を蹴り、自国の中心部へと向かって疾走した。


(伝えねばならぬ。この侵攻は、今までの愚かな賊とは違う……!)


 カインは霧の森を熟知している。

 だが、今の森は悲鳴を上げていた。

 外敵が放つ松明の熱、無造作に踏み荒らされる苔の湿り気の変化。

 カインは一族の屋敷、そして迎撃の拠点へと急いだ。


 エヴァリアは、数千年の間、戦争を知らなかった。


 確かに腹を空かせた魔物や、不埒な賊の出現は過去にもあったが、それはこの霧の森と一族により静かに淡々と虫を払うが如くに追い払われてきた事実もある。


 致命傷を負っても死なぬ肉体、女神に守られた停滞。

 国民の多くは、この軍靴の音が何を意味するのかすら理解できないだろう。


 戦う術を知るのは、代々剣を許されたアイリスとカインの一族のみ。


 それも、本来は「死」を与えるための技術であることを隠し、儀式としての「制止」を繰り返してきた者たちだ。


 国境付近の監視を担う『執行官』たちが、異変を察知して動き始めていた。


 リーダー格のセヴェルスを筆頭に、実戦に導入されたばかりの一族の若者たちが、かつてない殺気に当てられ、当惑しながらも剣を構えている。


「セヴェルス殿! 侵攻だ! 数を頼りにした軍勢が霧を抜けてくるぞ!」


 駆け込んだカインの声に、セヴェルスは表情を変えず、ただ霧の向こうから届く重厚な足音を、杖を通じて読み取っていた。そこへ、石畳を叩く重く、規則正しい杖の音が響く。


 一族の長――アイリスの父が、守護の剣を手に現れた。


「父上……! 貴方も出られるのですか」

「カイン、戻ったか。……案ずるな。この国は女神の加護の中にある。理の外にあるあの者たちがどれほど刃を振るおうと、民の命が容易く失われることはない」


 父の声は、凪いだ湖面のように冷徹だった。

 その言葉に、カインの強張っていた肩がわずかに緩む。だが、父は厳しい声音を崩さない。


「だが、加護による再生も無限ではない。肉体の修復が追いつかぬほどの損壊、あるいは心を折るほどの虐殺……それが続けば、不死の国はただの地獄と化す。だからこそ、お前は今すぐ母を連れ、民を地下の聖域へ避難させろ」


「ですが、俺もここで戦います! 一族の者として――」

「ならぬ。お前には他に成すべき役目がある」


 父の胸の奥から響く、凄烈なまでの鼓動。

 それはかつてカインが感じた、あの厳格な長の顔の裏に隠された、悲痛なまでの決意そのものだった。

 父は、この日が来ることを予期し、その重荷を一人で背負おうとしている。


「王族や貴族たちに至急この事態を伝えよ。奴らはこの国の理そのものを根絶やしにしに来た。そして、近隣のテラ・リュミエールなど、交易のある諸国へ援軍を要請するのだ。この国が堕ちれば、外の世界の『終わり』すらも歪められると説くがいい」


 父は静かに、守護の剣を引き抜いた。銀の刀身が、霧の微光を吸い込んで鈍く光る。


「行け。これは、お前にしかできぬ戦いだ」


 カインは歯を食いしばり、一族の長としての、そして父親としての重すぎる背中に一礼した。父はセヴェルスに向き直る。その構えは、逸脱者を留めるための「制止の剣」ではない。


「セヴェルス。霧は我らの目であり、奴らの墓標だ。我々にしかできぬ戦いをするぞ」


 カインは再び駆け出した。

 背後で、ついに霧の向こうから鉄の波頭がなだれ込んでくる衝撃音を聞きながら。

 カインが街へと駆け戻ったとき、エヴァリアはまだ、偽りの「凪」の中にあった。


 視覚を持たぬ民にとって、世界は常に平穏な音の積層でできている。

 遠くで響く噴水の飛沫、石畳を叩く誰かの杖の音、そして霧に溶ける穏やかな話し声。

 だが、その調和を乱す「不純物」が、足裏から伝わる振動として民の神経を逆撫でし始めていた。


 それは、統制された軍隊の規則正しい行進曲ではない。

 バラバラな歩幅、鉄と鉄がぶつかり合う無秩序な騒音、そして何より、エヴァリアの住人が決して発することのない、荒々しく下卑た「吐息」の群れ。


 メンデスが金で買い叩いた賊や傭兵たちの、欲望に任せた無秩序な足音が、まるで汚泥を撒き散らすように聖域へと流れ込んでいた。


「なんだ……この不快な音は」

「霧の向こうから、何かが……汚れたものが来ているのか?」


 広場に集っていた民が、次々に動きを止める。

 鋭すぎる聴覚は、数キロ先で霧が松明の火に焼かれる爆ぜる音や、森の動植物が蹂躙される悲鳴を克明に拾い上げていた。


 エヴァリアにとって、それは未知の天災が全方位から迫りくるような圧迫感だった。


 カインは混乱し始めた群衆を掻き分け、まずは一族の屋敷へと飛び込んだ。


「母上! 母上はどこだ!」


 奥座敷にいた母は、いつもと変わらぬ優雅な手つきで茶を淹れていた。

 彼女にとって、外の世界の騒音など、女神の加護が守るこの国では「不確かな幻」に過ぎないのだ。


「カイン、騒がしいですよ。異邦の賊が迷い込んだ程度のこと、お父様や執行官たちが静かに追い払ってくださるでしょう」


「違うんだ、母上! 今度はそんな生易しいものではない。奴らは、この国を――我らの一族を根絶やしにするつもりだ!」


「……馬鹿なことを。女神の祝福がある限り、我らは死なない。傷を負っても、また元通りになるのです。何を怯える必要があるというのです」


 母の言葉には、数千年続く「不変」への絶対的な盲信があった。

 エヴァリアの人々にとって「死」は存在しない概念であり、それゆえに「殺意」という重みもまた、理解の範疇を超えていた。  


 カインは、自身の胸を強く叩いて叫んだ。


「父上は、既に前線で剣を抜かれた! 杖を捨て、覚悟の鼓動を刻んでおられたんだ! あの父上が……再生の理さえ通用しない最悪の事態を、肌で感じ取っておられたんだぞ!」


 父の「死を覚悟した鼓動」という言葉に、母の手がわずかに震え、茶器が乾いた音を立てて畳に転がった。


(まさか……本当に……そんな、いや)


 一族の長が加護の限界を認めた。

 その事実は、母の「不変」という名の殻を、鋭く切り裂いた。


「……すぐに民を誘導しなさい。地下の聖域へ、女神の加護が最も濃く残る場所へ」


 母の指示を確認するや否や、カインは休む間もなく王宮へと向かった。  


 だが、そこでの光景はさらに絶望的だった。

 王族や貴族たちは、外から届く不協和音に耳を塞ぎ、顔を青くしながらも「無礼だ」「女神様に対する疑念か」「一族が解決すべき義務だ」と現実から目を逸らしていた。略奪も、虐殺も、彼らにとっては童話の中の出来事でしかなかった。


「黙って聞いていれば……!」


 カインの内で、何かが弾けた。

 シビュラから聞かされた『死をもたらす一族』という呪われた真実。そ

 れが今、カインの血を冷たく、そして鋭利に研ぎ澄ませていく。


「貴公らの耳は飾りか! 今、この瞬間も霧の向こうで何が起きているのか、その足裏に届く悲鳴が聞こえないのか!」


 カインから放たれた殺気は、物理的な圧力となって広間に満ちた。

 それは、逸脱者を制止する慈悲の剣ではない。

 シビュラの言う「死を司る一族」としての、剥き出しの牙。

 加護による安寧に浸りきっていた貴族たちは、カインが発した「本物の終わりの気配」に震え上がり、腰を抜かした。


「書状を書け! テラ・リュミエール、そして交易のある全ての近隣諸国へ援軍を乞うのだ! この国が堕ちれば、女神の加護は歪められ、外の世界へも災厄が広がるとな!」


 カインは半ば強制的に筆を握らせ、援軍要請の書状を用意させた。

 かつてアイリスがこの国に持ち込もうとした「変化」。


 それが今、血の匂いを伴った侵略という形で、エヴァリアの扉を粉々に砕こうとしている。


 その頃、国境の霧の森。

 父とセヴェルスら一族の剣士たちは、松明の火に照らされた無数の影――規律なきメンデス軍の先遣隊と対峙していた。

 霧は深く、視界は最悪。それは本来、盲目の彼らにとって圧倒的な有利を意味するはずだった。


「……左、三。右、二。さらに後方から十数人。足取りが重い、賊の類か」


 セヴェルスが呟くと同時に、父が音もなく踏み込んだ。

 見えないはずの剣先が、霧を裂き、賊の首筋や関節を的確に撫でていく。

 一族の剣は「殺さず、動けぬようにする」ための精密機械のような動きを見せる。

 

 だが、敵の数は想像を絶していた。一人が倒れても、その上を次の者が踏み越えてくる。


「死なねえ! 本当にこの国の奴らは、いくら斬っても死なねえぞ!」

「なら、動けなくなるまで刻んでやれ! 生きたままダルマにしてやるんだよ!」


 霧の向こうから響く、品性の欠片もない笑い声。再生する肉体。

 それは、外の世界の「悪意」にとって、どれほど弄んでも壊れない玩具と同義だった。

 女神の加護があるゆえに、エヴァリアの民は「終わること」すら許されず、永遠に苦痛を味わい続ける地獄へと引きずり込まれようとしていた。


 父の剣が、数で押す傭兵の連撃を受け止める。  

 加護による再生の隙すら与えぬ、容赦のない「物量」の暴力。  

 エヴァリアの霧が、ついに鉄と血の臭いに完全に染まろうとしていた。

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