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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
神殺しの月光と夜明けの理
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第60話:『明日へと繋ぐ剣』

「不変」の監獄と呼ばれた都、ゼニト。

 アイリスがそこを去る時、背後に響いていたのは、かつての停滞した静寂ではなく、再生へと向かう人々の確かな生活の音だった。


 カウスが敷いた「永遠の秩序」は崩れ、都は今、冬の芽吹きのような、痛みを伴う生気を取り戻しつつある。


 アイリスは、エヴァリアへと帰還を目指し。

 荒野と森と。街道を一人歩んでいた。


 杖が石畳を叩く規則的な音が、冷え切った朝の空気に吸い込まれていく。


 数多の「終わり」を吸い込み、重厚な意思を宿した『始祖の剣』が、背中で静かな威圧感を放っていた。


 しばらく歩いたところで、アイリスの足が止まった。

 前方の街道。風が運んでくるのは、鋼の冷たさと、微塵の揺らぎもない「覚悟」の気配。


「……待っていたぞ、アイリス」


 重厚な声が響く。そこに立っていたのは、ヴィルヘルムだった。

 

 かつてカウスに仕え、ゼニトの守護を一身に担っていた将。

 カウスが倒れ、亡国の将となった彼は、今や軍隊を率いる指揮官ではなく、ただ一人の「騎士」としてそこにいた。


 その手に握られているのは、秩序のもと、法剣として振られだが、戦場を潜り抜けてきた無骨な剛剣。彼はそれを静かに、しかし迷いなくアイリスへと向けた。


「我が主カウス、そして我らが築き上げた黄金の理想を終わらせたのは貴様だ。……恨みはないと言えば嘘になる。だが、それ以上に私は、貴様という存在に自分自身の決着をつけねばならぬ」


 ヴィルヘルムが踏み出した一歩。

 その振動が、アイリスの足裏を通じて彼の「心」を伝えてくる。  


 アイリスは、彼の中に燃え上がるような殺気ではなく、静かな「けじめ」を読み取った。守るべき国を失い、それでもなお騎士として在り続けようとする男が、自らの魂に区切りをつけるための儀式。

 それがこの決闘の意味なのだと。


 アイリスは静かに、背の始祖の剣の柄に指をかけた。

 鞘から滑り出た銀の刀身が、朝日を浴びて黒ずんだ月光のような輝きを放つ。

 その瞬間、周囲の風のざわめきが消え、絶対的な静寂が二人を包み込んだ。


「……ヴィルヘルム。私は、この剣であなたを『斬る』ことはできません。この剣は、命を奪うための牙ではなく、終わりを与える…理を正すためのものだから」


 アイリスの声は凪いでいた。

 ベネディクトから教わった「死は場所を移すこと」という教え、そしてカナンリスで見た「循環」の光景。

 それらを経て、彼女にとっての剣は、もはや憎しみや争いの道具ではなかった。


「構わん」


 ヴィルヘルムは不敵に、どこか晴れやかに笑い、剣を正眼に構えた。


「殺す必要などない。私はただ、この一撃に己が騎士として生きた証を込め、貴様に叩きつけたいだけだ。……行くぞ、アイリス!」


 石畳が悲鳴を上げ、火花が朝の光を打ち消す。  


 ヴィルヘルムの振るう剛剣は、重さそのものが鋭利な意志となってアイリスに降り注いでいた。アイリスは背から引き抜いた『始祖の剣』を、その重厚な刀身で激流のような連撃を受け流す。


 剣が交わるたび、アイリスの四感には「鋼の感触」以上のものが流れ込んできた。

 それは、ヴィルヘルムという男の人生が積み上げてきた、分厚い記憶の断層だった。


(……聞こえる。この人の剣には、守り抜こうとした『盾』の響きがある)


 ヴィルヘルムは、名もなき辺境の没落騎士の家に生まれた。

 飢えと争いが絶えない外の世界で、彼はただ「奪われない場所」を求めていた。

 若き日の彼がカウスに出会い、その軍門に下ったのは、ゼニトが掲げる「不変の秩序」に救いを見たからだ。 彼はカウスの右腕として、数多の戦場を駆けた。  


 ある時はゼニトの静寂を狙う他国の遠征軍を、鉄壁の防衛陣で退けた。

 またある時は、理を外れた魔物の群れが街を襲った際、たった一人で門前に立ち、朝露が乾くまで剣を振り続けて守り抜いた。  


 彼にとって、ゼニトの「停滞」は「安寧」そのものだった。

 変化しないことは、失わないこと。

 終わらないことは、愛するものが消えないこと。

 その「不変」を維持することこそが、彼の剣の核であり、唯一無二の信念だった。


「貴様には分からぬだろう、アイリス! 終わりがあるからこそ美しいなどという言葉は、持てる者の傲慢に過ぎん! 私は、終わらせぬために血を流してきたのだ!」


 叫びと共に放たれた横一閃が、アイリスの頬をかすめる。  

 ヴィルヘルムの剣筋には、主の自害という受け入れがたい現実への困惑と、それを導いたアイリスへの、憎しみとは異なる「問い」が宿っていた。


 だが、その一撃を受け止めた始祖の剣が、ヴィルヘルムの内にあった「揺らぎ」を鏡のように映し出した。


 ゼニトの理が解かれたあの日。ヴィルヘルムは見てしまったのだ。

 不変の法から解き放たれ、老いや衰えという「不都合な真実」を突きつけられながらも、どこか晴れやかな顔で明日を語り始めた民たちの姿を。  


 彼が信じた「不変の安寧」は、実は人々の魂を剥製にしていたのではないか。


 主は、そのことに気づいたからこそ、自ら幕を引いたのではないか。その疑念が、錆びた棘のように彼の心に刺さっていた。


 そして今、再びアイリスの剣に触れ、彼は愕然とする。  


 始祖の剣から伝わってくるのは、冷酷な破壊の意志ではない。

 それは、アイリスが旅の中で拾い集めてきた、無数の「正しく終わった命」の温もりだった。


 ヴィルヘルムの剛剣が、わずかに震える。  


 彼の信念――「終わらせないための剣」が、アイリスの「終わらせることで明日へ繋ぐ剣」の前に、その輪郭を崩し始めていた。


 アイリスは、彼の震えを逃さなかった。

 彼女は剣を低く構え、静寂を纏った一歩を踏み出す。


「ヴィルヘルム。あなたの剣が守ってきたものは、決して間違いではありません。でも、カウス閣下は……あなたの剣が守るその先にある『枯れることの自由』を、最後に愛されたのだと思います」


 銀髪が風に舞い、始祖の剣の刃紋が月光のような冴えを見せる。

 そして均衡が、臨界点に達した。


 ヴィルヘルムの放った、これ以上ないほどに真っ直ぐな一撃。

 それは彼がこれまでの人生で守り続けてきた「不変」の重みそのものだった。

 

 アイリスはそれを受け止めるのではなく、自らその重みの中心へと踏み込んだ。 

 

 始祖の剣の切っ先が、わずかに月光を撥ねる。

 刹那。銀の閃光が、ヴィルヘルムの剛剣の「理」を撫でた。  

 それは破壊ではなく、解放だった。

 剛剣が保っていた力のベクトルが、アイリスの剣が触れた瞬間に霧散し、行き場を失った衝撃がヴィルヘルムの掌を弾く。


 金属音が、一度だけ高く響いた。

 ヴィルヘルムの手から離れた剛剣は、回転しながら石畳に突き刺さり、空しく震えている。アイリスの剣先は、彼の喉元でピタリと止まっていた。


 そこには殺気もなく、ただ「決着」という事実だけが、冷徹な静寂として横たわっていた。


「……見事だ」


 ヴィルヘルムは、しばらくの間、突き出された刃を見つめたまま立ち尽くしていた。荒い呼吸が次第に整い、彼の肩から力が抜けていく。


 主カウスを失い、行き場を失っていた彼の魂が、ようやく現在の土の上に、自分の足で降り立った瞬間だった。


「アイリス。貴様の剣から、閣下がなぜ最後にあのような選択をされたのか、その一端を教えられた気がする。……不変とは、守ることではなく、ただ止まっていただけだったのかもしれんな」


 ヴィルヘルムは深く、一度だけ頭を下げた。

 それは敗北の礼ではなく、新たな視点を与えられたことへの、武人としての敬意だった。


「私はまだ、強くなれる。……閣下の騎士としてではなく、この理が戻りつつある世界を歩む、一人の男として。剣の腕も、そしてこの心の在り方もだ」


 突き刺さった剛剣を引き抜くと、彼はそれを迷いなく腰に帯びた。

 その背中は、もはや亡国の将の悲哀を纏っていない。  

 彼は振り返ることなく、ゼニトの方向へと歩み出した。

 その足取りは、石畳を力強く踏み締め、確かな未来を見据えているようだった。


 アイリスは、独り残された街道で、手の中の始祖の剣をじっと見つめた。  

 断絶を重ねるたびに増していく、この剣の重み。

 それは旅の中で触れてきた「終わり」たちの記憶であり、彼女が背負うべき世界の理そのものだ。


(……行きましょう)


 カチン、と乾いた音を立てて、剣を背中の鞘に収める。

 ここから故郷エヴァリアまでは、まだ長い道のりが続く。

 荒野を越え、深い森を抜け、かつての自分を形作っていたあの澱んだ霧の中に辿り着くまでにはどのくらいかかるかは分からない。


 それでも見えないこの瞳と、背中の始祖の剣が示し導いてくれる。


 杖が石を叩く規則的な音が、朝の空気の中に溶けていく。  

 アイリスは再び、一歩を踏み出した。

 すべての始まりであり、そして今や彼女が「終わらせるべき場所」となった、あの静寂の国を目指して。

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