第59話:『口封じと神隠し』
「――ねえ、お願い。私をこの国に入れてくれないかしら?」
深紅の髪を揺らすシビュラは、ルナストーンをしまいこむと、交渉というよりは先ず少し甘えた声で頼んだ。カインは即座に重厚な杖を構え、その先端を彼女の胸元へと向けた。
「……正気か。どこの誰かは知らんが、エヴァリアは異邦人を歓迎しない。数少なく交易を許している国でさえ、国からの厳格な許可と契約を得て、この境界線で荷を下ろすのが絶対の掟だ。商人たちは、この石の境から先へは決して足を踏み入れることはない」
シビュラはくすくすと喉を鳴らし、霧に濡れた指先で唇をなぞった。
「あら、鉄の掟ね。でも、そんなに硬いことを言わなくてもいいじゃない」
「お前が入ったところで、エヴァリアの国民は一瞬で気づくぞ」
カインの声は冷徹だ。
「我らは視力を失う代わりに、音や心音、そして他者のわずかな『存在の揺らぎ』さえも敏感に聞き分ける。お前のような異物の鼓動は、この国ではあまりに騒がしすぎる」
「それは困ったわね。でも、耳が良いなら私の『鑑定』の結果もよく聞こえるはずよ」
シビュラはカインの殺気を意に介さず、フェルゼンの図書館で目にした、失われた一族の歴史を語り始めた。
「フェルゼンの最下層にある地下書庫……そこには、この世界から消し去られたはずの記録がいくつか残っていたわ。あなたたちの『剣士の一族』についてね。カイン、と言ったかしら? あなたたちは女神の祝福を守る守護者だと教わってきたのでしょうけれど……記録には別の名前で記されていたわ」
シビュラの瞳が、霧の中で妖しく光る。
「……『死をもたらす一族』。それがあなたたちの真の名前よ。終わることのない命に、終わるべき場所を与えるための、美しくも残酷な刃の技術。あなたたちが学んできた剣の作法は、再生を守るためのものではなく、本来は再生を止めるためのものだったのよ」
カインの心臓が大きく跳ねた。
信じられない、と言い切るような声が漏れる。
「……馬鹿げている。我らの一族が、死を司る忌むべき存在だっただと? そんな断片的な記録を信じろというのか」
「まあ、あくまで断片だから。このシビュラ様の目を通しても、完全に裏が取れたわけじゃないわ。ただ……少なくともあの娘、アイリスの一族が、そうであったことくらいしか分からないけれど」
シビュラはわざとらしく肩をすくめた。
「でも、絶対にあり得ないとは言い切れないでしょ? 彼女が放つ、あの『重い静寂』を知っているあなたなら」
カインは激しく動揺した。絶対にあり得ないと言い切りたい。
だが、かつてアイリスを見送った際、彼女の剣先から感じたあの「清冽な無」の感触。
それが女神の祝福とは正反対の質を持っていたことを、彼は本能で理解していた。
「シビュラと名乗ったか。……お前はわざわざ、それを私に教えに来たとでもいうのか。何をしにきた」
カインは杖を強く握り直した。その掌には、シビュラの言葉に呼応するかのような、不気味な熱が宿っている。
「たとえそれが真実であったとしても、それはエヴァリアの数千年の歴史を、女神への信仰を、そして我ら一族の誇りを侮辱することになる」
カインの放つ殺気が、物理的な圧力となって霧を押し広げる。
「これ以上、その口を閉じないというなら、この霧の一部にしてくれる」
「怖い、怖い。そういうわけじゃないわよ」
シビュラは両手を上げ、楽しげに笑った。
「私はただの鑑定士。真実には価値があるけれど、それをどう扱うかは持ち主次第。……歴史の一端を教えてあげた『対価』として、どう? せめてアイリスが戻ってくるまで、この霧の端っこで座らせてくれるくらい。悪い取引じゃないと思うけれど?」
「……ふん、対価、か」
カインは杖を構えたまま、シビュラの心音を測り続けた。そこにあるのは、死を目前にした者の怯えでも、狂信的な野心でもない。
ただ「真実」という商品を手にした商人の、余裕を含んだ静謐な拍動だけだ。
カインはゆっくりと杖を引き、その先端を地面に突いた。石床が低く響き、霧をわずかに震わせる。
「いいだろう。アイリスが戻るまでの間だけだ。だが、この境界線から一歩でも内側に足を踏み入れてみろ。その時は、お前の鼓動が止まる音を、誰よりも早く私が聞き届けてやる」
「話が早くて助かるわ。エヴァリアの騎士様は、案外物分かりが良いのね」
シビュラは満足げに微笑むと、宣言通り、境界の石碑のすぐ側に腰を下ろした。
沈黙が再び二人を包む。
カインは彼女から意識を離さぬまま、シビュラが口にした言葉を反芻していた。
――『死をもたらす一族』。
幼い頃から、自分たちが振るう剣は「逸脱した生を正すための慈悲」であると教わってきた。
再生の理を逸脱した人間を制するために。
だが、アイリスが去る直前に見せたあの一閃。
そして、彼女が外の世界から持ち帰ろうとしている「終わりの予感」。
もしも、自分たちが守ってきた「凪」そのものが、女神の祝福ではなく、ただの「停滞」だったとしたら。
「……なぁ、シビュラと言ったか」
カインが不意に口を開いた。
「お前が見た記録には、その『死をもたらす一族』が、なぜその役割を隠し、女神の守護者と名乗るようになったのか……その理由は記されていなかったのか?」
シビュラは膝を抱え、霧の向こうを見つめたまま答えた。
「そこまでは分からなかったわ。記録は、まるで何者かが故意に引き裂いたみたいに、核心の部分で途切れていたの。でも、歴史っていうのは往々にして、都合の悪い部分から書き換えられるものよ。……あるいは、『死』という薬があまりに苦すぎて、誰かがその甘い『不死』という毒を選んだのかもね」
「……毒、か」
カインはその言葉を、苦い唾液とともに飲み込んだ。
数千年の安寧を支えてきた女神の加護が、実は精神を蝕み、歴史を凍結させるための「毒」であったという仮説。それは、この閉ざされた国に生きる彼にとって、世界の底が抜けるような恐怖を孕んでいた。
だが、その思索を深める時間は与えられなかった。
カインの耳が、大気を震わせる不協和音を捉えたからだ。
「――っ!?」
カインは弾かれたように立ち上がり、霧の向こう側、エヴァリアの外へと続く街道へ鋭い意識を向けた。
それは、エヴァリアの調和とは程遠い酷く不快な「音の奔流」だった。鉄錆の匂いを伴った鎧の擦れる音。規律のない、だが圧倒的な数で大地を削る無数の足音。荒々しい呼吸と、獣じみた怒声。
「賊、あるいはどこかの軍勢か……? いや、揃いもせん足音が、まるで一つの巨大な怪物のようになってこちらへ向かってきている」
カインの警告に、シビュラもまた霧を透かすように目を細めた。
彼女は鑑定士としての卓越した洞察力で、その「音」の正体を即座に弾き出す。
「……なるほど。本格的な口封じか、あるいは歴史から本当に消そうとしに来たのね」
シビュラの声から余裕が消え、代わりに冷ややかな嘲笑が混じった。
「あの一族が持つ『終わりの力』。それをこの世に生かしておけば、自分たちが築き上げた不変の富も、停滞した秩序も、すべて『死』という平等な終止符に晒される。……それが怖くてたまらない奴らが、金を出し合って軍隊を買い叩いたのよ。世界のためにという名目の正義の集いね」
その混成部隊の遥か後方。
贅を尽くした輿に座り、冷徹な瞳で霧の境界を見つめる一人の男がいた。
商工ギルドの執政官、メンデス。
彼はかつて、フェルゼンでアイリスに自らの「黄金の帝国」を、その価値観ごと破壊された。
だが、彼の真の恐れは私怨だけではない。
あの時、アイリスの剣に触れた瞬間に理解してしまったのだ。
あの一族を生かしておけば、世界の理が書き換えられてしまう。
命に「期限」という数字が書き込まれれば、自分が積み上げてきた無限の蓄財は、ただの屑鉄に成り下がる。
メンデスは、残された莫大な私財と権力のコネクションを使い、周囲の国の傭兵団、路地裏の賊、没落した騎士団までをも掻き集めた。
目的は一つ。 エヴァリアという「死の不在」を温床にする国ごと、その原因であるアイリスの一族を、歴史の闇へと葬り去ること。
「ふふ、来るわよ。鑑定するまでもない……これは『復讐』という名で着飾った、ただの強欲の塊ね」
シビュラが忌々しげに吐き捨てるのと同時に、霧の中から先陣の叫び声が響いた。
エヴァリアの静寂が、外の世界の濁流に飲み込まれようとしていた。




