第55話:『唯一の「真実」』
地下用水路の闇は、進むほどにその質を変えていった。
沈黙の森の直下に広がる道が、生命を拒絶するような乾いた砂とカビの匂いに満ちていたとするならば、今、アイリスの鼻腔をくすぐるのは、驚くほど澄明で、それでいて不自然なまでに無機質な水の飛沫の気配だった。
「アイリス……空気、変わったね。なんだか、冷たい」
エリンの声が、用水路の石壁に細かく反響する。
かつて泥にまみれていたはずの足裏の感触は、いつしか磨き抜かれた硬質な石の感触へと変わっていた。
そこにはゴミ一つ、歪み一つない。
ただ、冷徹な秩序だけが闇の中にまで浸透している。
「ええ。私たちは今、何か巨大な境界を越えました。……この先、反響が広くなっています」
アイリスは杖を突き、前方の空間が開けていることを察知した。
地上へと続く鉄の梯子を見つけるのは、そう難しくはなかった。
二人は息を潜め、一歩ずつ、静寂の都へと這い上がっていく。
梯子を登り切り、重い鉄格子の蓋を押し上げた瞬間――エリンは、その場に凍りついた。
「……何、これ……」
そこには、夢にさえ見たことのない、暴力的なまでの「豊穣」が広がっていた。
目の前に広がるのは、見上げるほど巨大な白亜の宮殿と、それを囲む幾何学的な庭園。
沈黙の森では一滴すら奪い合っていた水が、ここでは巨大な噴水となって空を舞い、鏡のように滑らかな水路を滔々と流れている。
街全体が純白の大理石で設えられ、街灯には魔導の光が灯り、夜という概念さえも排除しようとしているかのようだった。
しかし、エリンが真に息を呑んだのは、その美しさの先にある絶望的な光景だった。
「アイリス……見て。……いいえ、聞こえる? また……壁がある」
エリンの視線の先。この輝かしい「第一の区画」をさらに囲い込むように、もう一枚、沈黙の森で見たものより遥かに高く、無慈悲な石の壁がそびえ立っていた。
アイリスは杖を地面に突き、伝わってくる振動の反響を分析した。
「壁が……二重になっている、ということですか?」
「そう。私たちが今いるのは、森と本部の間にある『中庭』みたいな場所……。でも、おかしいわ。私はずっと森で生きてきたけれど、こんな二重構造の話なんて聞いたことがない」
アイリスの中で、一つの疑問が急速に膨れ上がった。
彼女が初めてこの国「ゼニト」に足を踏み入れた時の記憶。
あの時、アイリスは確かに、ルトガーとエリンに助けられ防衛軍の執拗な追跡を逃れ、巨大な石の壁を越えて沈黙の森に入ったはず。
「私がこの国に来た時、最初に感じた壁……あそこでベアトリーチェさんと戦い、あなたたちに救われた。あの壁は、一体どちらだったのでしょう」
「そんなの、決まってる。一番外側の、私たちが住んでいる森を囲う壁よ。あそこを越えたから、あなたは森に入ってきたんじゃない」
「いいえ、矛盾しています」
アイリスは静かに、けれど断固として告げた。
「私が越えたあの壁の向こうには、……荒れ果てた荒野の様な風しか感じませんでした。今のこの光景、この『水神殿』のような場所は、影も形もなかった。もしここが二重構造の内部なら、私は一度、この場所を通り過ぎていなければおかしい」
二人の間に、冷たい沈黙が流れる。
エリンは混乱し、自身の記憶を必死に手繰り寄せた。
だが、彼女の知る「外の世界」は、あの高い壁の向こうに広がる荒野だけであり、それが外の世界に繋がっていると思っていた。
そして壁のこちら側には常に「沈黙の森」しかなかったのだ。
では、アイリスが越えた「一つ目の壁」とは何だったのか。
そして、この「二つ目の壁」に守られた本部の光景は、いつから存在しているのか。
アイリスは杖の先端で、足元の大理石を強く叩いた。
「……。一つの仮説があります」
「仮説……?」
「この国を囲う壁は、物理的な距離で隔てられているのではないのかもしれません。……カウス・アドラーは、歴史だけでなく『空間そのもの』を書き換えている」
アイリスは、エンド・ロアやフェルゼンで触れてきた、権力者たちが用いる「秘匿」の術を思い起こしていた。
エンド・ロアでは死にきれないなり損ないを聖職者たちが結界という形で封印し「秘匿」していた。フェルゼンでは、ギルドの上層部。重鎮たちが二つの図書館を用途は変え、だが「秘匿」していた。
実は、このゼニトにおける「壁」とは、侵入者を防ぐための防壁であると同時に、『認識のフェイズ』を分ける巨大な魔導装置であったのではないか。と
アイリスが最初に越えた壁。それは「外の世界」から「アドラーが作り出した偽りの領域(森)」へと至るための門だった。
しかし、その時、アイリスの感覚は「森」しか捉えていなかった。
なぜなら、カウスの術式が、森を「ゼニトのすべて」であると認識させるように、空間の因果を歪めていたからだ。
だが、今、二人は「地下用水路」という、魔導の血脈が途絶えた物理的な最短距離を通ってここへ来た。
地上で壁を越えようとすれば、術式によって強制的に「森」へと視線を逸らされる。
だが、地下という死角を突き、なんの因果かこの国の「理の外」から来たアイリスの力か、空間の歪みが一時的に無効化されたのだろう。と考えれば疑念は残るが着地はできる。
「つまり、森の住人たちが信じていた『唯一の壁』は、本部を隠すための巨大な幻灯だったということです。本物の『ゼニトの本部』は、その幻の裏側に、こうして平然と鎮座していた……」
エリンの身体が、怒りと恐怖で小さく震え始めた。
「じゃあ……森の枯れた景色も、水不足も……全部、この『お城』を維持するための、ただの隠れ蓑だったっていうの?」
「ええ。そしてカウスは、私のような侵入者がこの『隠された中層』に辿り着かないよう、常に森でベアトリーチェさんたち防衛軍に目を光らせていたのでしょう。……私たちは今、この国の心臓部、その最も深い嘘の中に立っています」
アイリスがそう結論づけた瞬間。
白亜の柱の影から、音もなく、数条の細い影が滑り出してきた。
カウス・アドラー直属、認識を歪められた空間を自在に渡る暗殺者――『影の番人』たち。
彼らはベアトリーチェのような騎士道など持ち合わせていない。
ただ、歴史の汚染である二人を、この贅沢な水の中に沈めるためだけに放たれた、無機質な牙だ
「いたぞ。あれが閣下が仰っていた子供か」
「銀髪の女。ベアトリーチェ殿はまたもや、しくじったらしい」
迫りくる刺客たちの気配は、通常の人間とは明らかに異なっていた。
彼らが動くたびに、周囲の空気がガラスを引っ掻くような不快なノイズを立てる。
それはカウスが施した「認識阻害」の術式そのものを纏って動いている証拠だった。普通の人間の目であれば、彼らの姿を捉えることすら叶わず、ただ「虚無に斬られる」ことになっただろう。
だが、アイリスは銀の杖を静かに構え、そのノイズの発生源を的確に補足していた。
「エリンさん、私の背中から離れないでください。……彼らは『見えない』のではなく、『存在を否定』されているだけです」
「アイリス……。あいつら、地面を蹴る音もしないよ……!」
エリンは恐怖に震えながらも、アイリスの衣の端を強く握りしめた。
その時、暗殺者の一人が虚空から染み出すように躍り出た。
手にした逆刃の短剣が、アイリスの喉元を正確に狙う。
アイリスは一歩も引かず、始祖の剣を鞘のまま突き出した。
――ガツッ!
硬質な衝撃音が白亜の回廊に響く。
「……やはり」
アイリスは確信した。
この地下用水路が認識阻害を免れていたのは、単に物理的な死角だったからではない。
ここは「水」という、この国における唯一の「真実」が流れる道だったからだ。
カウスがの沢な水神殿を維持するために独占した本物の水。
その源流へと続く道だけは、いかにカウスといえど「嘘」で塗り潰すことはできなかったのだ。
偽りの平穏を維持するための「代償」として、ここは真実が露出してしまっていた。
「嘘をつくために必要な『本物』が、あなたたちの命取りになったようですね」
アイリスが剣を解き放った。
「断絶の作法」――空間の歪みさえも「終わらせる」一閃が、暗闇を切り裂く。
認識阻害の術式を纏っていた暗殺者の身体が、アイリスの刃が触れた瞬間に「実体」として固定され、そのまま音もなく崩れ落ちた。
死のない国において、彼らはカウスに魂を縛られた人形に過ぎない。
だがアイリスの剣は、その呪縛さえも断ち切り、彼らに本来あるべき「無」を与えていく。
「なっ……バカな、閣下の『不可視の外套』が効かないだと!?」
動揺した刺客の声が漏れる。
「私には、最初から何も見えてはいません」
アイリスの声は冷徹なまでに静かだった。
「ですが、そこにある『理不尽な静寂』だけは、痛いほどに伝わってきます。あなたたちの存在は、この美しい庭園の中で唯一、ひどく濁った音を立てている」
残りの刺客たちが一斉に襲いかかる。
しかし、エリンを守りながら舞うアイリスの剣技は、もはや一つの儀式だった。
大理石の上で跳ねる水飛沫が、アイリスの剣筋に沿って銀色の軌跡を描く。
十数回の交錯の後、回廊には再び、人工的な噴水の音だけが残された。
刺客たちは皆、血を流すこともなく、ただそこに「最初からいなかった」かのように、静かに消滅していった。
エリンは呆然と、アイリスの背中を見つめていた。
「アイリス……すごい。でも、今のあいつら……消えちゃったよ。ルトガーや防衛軍の人たちとは、何かが違った」
「……彼らは、この国の『嘘』そのものだったのでしょう。嘘を断てば、何も残らないのは道理です」
アイリスは剣を鞘に納め、二枚目の、より巨大な「本物の壁」を見上げた。
「エリンさん。あそこに、カウス・アドラーがいるはずです。……そして、この国のすべての嘘の、その源流も」
エリンは頷き、震える拳を握りしめた。
「行こう。私の名前も、お父様たちが守りたかったものも……あの中にある気がする」
二人は、光り輝く静止した都を駆け抜ける。
贅沢な水の音が、彼女たちを嘲笑うように、あるいは導くように、どこまでも冷たく響き続けていた。




