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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
不変の秋と意志の断絶
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第56話:『あなたにしか開けない扉』

 白亜の回廊を、二つの影が流星のごとく駆け抜けていた。

 静止した都に、けたたましい警笛が鳴り響く。

 カウス・アドラーが誇る防衛軍は、すでに不法な侵入者二人の存在を補足し、全区画の封鎖を開始していた。


「アイリス、右の曲がり角に三人! 銃を構えてるわ!」

「はい!!」


 エリンが叫ぶと同時に、アイリスは一歩も速度を緩めずに踏み込んだ。  

 視界を持たぬ彼女にとって、エリンの「目」は闇を照らす灯火であり、エリンにとってはアイリスが放つ「鼓動」の安定感こそが唯一の道標だった。

 二人は、言葉以上の信頼という糸で結ばれ、幾多の死線を潜り抜けていく。


 曲がり角。待ち構えていた兵士たちが、引き金に指をかけた瞬間――アイリスの身体が、物理法則を無視したかのような鋭さで低く沈んだ。


 パァンッ! と乾いた銃声が響く。

 だが、放たれた弾丸がアイリスの眉間を貫くことはなかった。

 彼女の右手に握られた「始祖の剣」が、月光を反射するような銀の軌跡を描き、飛来する鉛の礫を空中で一刀両断に叩き落としたのだ。


「な……弾丸を、斬った……!?」


 驚愕に染まる兵士たちの懐へ、アイリスは音もなく滑り込んだ。

 左手に握られた黒い鉄の杖が、迷いなく振るわれる。急所を的確に、だが致命傷にならない程度の加減で打ち据える。

 アイリスの戦いは、命を奪うことではなく、道を拓くことに特化していた。

 死のない国において、不必要な欠損はただの残酷でしかないことを、彼女は旅を通じて学んでいた。


「先へ進みましょう。本部の鼓動が、すぐそこまで聞こえています」


 無力化された兵士たちを背に、二人はついに、都の中央にそびえ立つ一際巨大な塔――「時計塔」を兼ねたアドラー閣下の本拠地を視界に捉えた。


 しかし、その重厚な鉄門の前に、一つの巨大な気配が立ち塞がっていた。  

 静止した空気の中で、その男だけが圧倒的な質量の殺気を放っている。


「アイリス、気をつけて! あの人はヴィルヘルム……。ベアトリーチェと並んで、防衛軍最強と謳われる男よ。手加減なんて、あいつの辞書にはないわ!」


「ええ……。気配だけでわかります。冷たく、研ぎ澄まされた重い鋼のような意志ですね」


 アイリスは足を止め、エリンのいる方へ視線を送った。


「エリンさん、作戦を変更します。私が彼を引き付けます。その隙に、あなたは中へ」

「そんなの無理だよ! あいつだけじゃない、周りにだっているんだよ!?」  


 エリンの言う通り、ヴィルヘルムの背後には数十人の精鋭兵士たちが銃を構え、黒い銃口を二人に向けている。


「すぐに追いつきます。……信じてください」


 アイリスの静かな、けれど有無を言わせぬ響きに、エリンは唇を噛んで頷いた。


 アイリスが一歩、前に出る。

 

 その瞬間、銃を構えた兵士たちに対し、ヴィルヘルムが大きな手で制止の合図を送った。


「閣下が仰っていた、銀髪の『不純物』か。……なるほど、噂に違わぬ立ち居振る舞いだ。そして……本当に、その瞳には光が宿っていないのだな」


 ヴィルヘルムの声は、地下墓地の底から響くような重低音だった。  

 アイリスは優雅に、一族の礼に則って剣を正した。


「視るべきものは、光の中にだけあるわけではありません。私はエヴァリアの守護、その理を断つ一族の末裔。目に映る『偽りの不変』など、私には必要のないものです」


「エヴァリア…なるほど、どうりで」


 その言葉に、ヴィルヘルムの頬が微かに歪んだ。

 それは、戦士としての敬意と、隠しきれない高揚。


「一族の誇り、か。……カウス閣下はこの国の安定のために個の誇りを捨てろと説くが、貴様のような女を前にすると、眠っていた血が騒ぐ」


 ヴィルヘルムは背負っていた巨大な大剣を、片手で軽々と抜き放った。


「貴様ら、手を出すな。この女の『誇り』は、俺が正面から叩き折る」

「……。光栄です」


 ジリ、と。 石畳を擦るわずかな音が、爆発寸前の緊張感を描き出す。

 

 白亜の都の最深部で、静寂と秩序を象徴する法剣と、それを終わらせるための銀の刃が、今まさに激突の時を迎えようとしていた。


 大理石の床を蹴る音が、雷鳴のように回廊に響き渡った。

 ヴィルヘルムの放つ一撃一撃は、重戦車が通り過ぎた後のような破壊の爪痕を石畳に刻んでいく。

 アイリスはそれらを「始祖の剣」で受け流し、あるいは「鉄の杖」で軌道を逸らし、驚異的な反応速度で立ち回っていた。


 ――ガギィィィンッ!


 火花が散り、金属の擦れる嫌な音が耳を打つ。

 アイリスの腕には、ヴィルヘルムの豪腕がもたらす痺れるような震動が蓄積していた。


(強い……。少しの慢心も、少しの淀みもない。このままでは、隙を作るどころか防戦一方で終わってしまう……!)


 アイリスは戦いながら、背後数メートルの位置で息を潜めるエリンの鼓動を常に捉えていた。

 小刻みに震えながらも、アイリスの背中を信じて飛び出す機会を待つその音。

 だが、事態はアイリスの計算を越えた速度で悪化した。


「見つけたぞ! 逃がさん!」


 広場の外縁、別の回廊から駆け付けた防衛兵の声が響いた。


「しまった!」 アイリスの心臓が跳ねた。

 

 その一瞬の動揺――「音」の揺らぎを、ヴィルヘルムという熟練の武人が見逃すはずもなかった。


「戦いの最中に余所見とは、底が見えたな!」


 ヴィルヘルムの法剣が、アイリスの防御を強引にこじ開けるようにして連撃を叩き込む。アイリスは後退しながら必死に剣を合わせるが、足元の重心が乱れる。


 一方、エリンの元へは数人の兵士が銃を構えて殺到していた。


「殺してかまわん!! 歴史の塵を片付けろ!!」


 ヴィルヘルムの冷徹な号令が飛ぶ。


「「はっ!!」」  


 兵士たちの指が引き金にかかる。


「ダメです……っ!」


 アイリスが叫んだ瞬間、彼女の手の中で「始祖の剣」が異様なまでの熱を帯びた。  


 ――キィィィィィン……ッ!


 耳を劈くような高周波の音が響いたかと思うと、次の瞬間、世界から一切の音が消失した。

 噴水の水飛沫の音も、兵士たちの怒号も、風のざわめきさえも。

 まるで巨大な真空の穴にすべてが飲み込まれたかのような、絶対的な、そして死の予感に満ちた静寂。


 アイリスの剣から放たれた銀色の淡い光が、理不尽な「終焉」の気配としてその場を支配した。


「……っ!?」


 ヴィルヘルムは、振り下ろそうとした巨剣を止めた。

 いや、止まったのだ。

 本能が、これ以上踏み込めば「己という存在が根元から断たれる」と絶叫していた。


 銃を構えた兵士たちも、幽霊でも見たかのような顔で硬直している。

 彼らの肌には、これまで経験したことのない、魂が凍り付くような未知の恐怖が這い回っていた。


 その、時を止めたかのような静寂を、凛とした女性の声が切り裂いた。


「――そこまでだ!」


 回廊の入り口に、新たな軍勢が現れた。

 

 先頭に立つのは、ベアトリーチェの右腕として常に冷静沈着な働きを見せていた副官、カサンドラ・ヴォルフレッドだった。

 

 彼女が率いる小隊は、迷いなくエリンを囲んでいた兵士たちを突き飛ばし、あるいは武器を叩き落として無力化していく。


「カサンドラ……貴様。何の真似だ」


 ようやく「音」を取り戻した空間で、ヴィルヘルムが地を這うような声で問う。


「これは謀反か? それとも、貴様の独断か」


 カサンドラは表情一つ変えず。

 ただ静かに、けれど鋼のように固い決意を込めて答えた。


「――ベアトリーチェ様の命令だ。これ以上の『無意味な沈黙』は、騎士の誉れを汚す。我らは、自分たちの王が誰であるかを、今一度思い出すことにした」


 その言葉と共に、カサンドラはエリンの前に膝をついた。

 それは、カウス・アドラーが築き上げた偽りの秩序に対する、最も残酷で美しい宣戦布告だった。


「ベアトリーチェが……? 馬鹿な」


 ヴィルヘルムは低く唸った。

 しかし、その動揺を打ち消すように、カサンドラの隊列の向こう側から、もう一つの足音が近づいてきた。

 それは、戦場の喧騒にはおよそ不釣り合いな、凛として清廉な響き。


「――そこまでになさい、ヴィルヘルム。あなたのその頑なな忠誠は、もはや守るべき価値を失っていますわ」


 兵士たちが割れるように道を開ける。

 そこへ現れたのは、傷ついた二の腕を白布で固く縛り、平時と変わらぬ優雅な笑みを湛えたセレスだった。


「気に食わねえその面。また貴様か」


 ヴィルヘルムの視線が鋭くなる。

 それに対し、セレスはわざとらしく溜息をついてみせた。


「あら、ご挨拶ですこと。カウス閣下が作り上げたこの『箱庭』も、少々綻びが目立ち始めています。変化を恐れるあまり、理の糸を締め上げすぎたのですよ。……ねえ、ヴィルヘルム。あなた、こないだお相手した時よりも、少しばかり剣筋が鈍っているのではないかしら? 安定という名の『停滞』に、既に心まで腐ってしまったのかしらね」


 セレスは細剣を抜き放ち、優雅に切っ先をヴィルヘルムへ向けた。


「私に負けて地面を舐めたあの時の屈辱を、まさかもうお忘れではありませんわよね?」


「貴様……ッ!」


 ヴィルヘルムの額に青筋が浮かぶ。

 彼の標的は、完全にアイリスからセレスへと移り変わった。

 彼にとって、セレスは単なる侵入者ではなく、己の武人としての誇りに土をつけた「因縁の敵」だった。


「アイリス様、()()()()。ここは私たちが引き受けますわ」


 セレスは背後を振り返らずに告げた。


「カウス・アドラーの元へ。この国の時計の針を、あなたのその剣で再び動かしてきてくださいませ」


「……感謝します、セレスさん」


 アイリスは短く答え、杖を突いてエリンの元へ歩み寄った。

 カサンドラがエリンの肩をやさしく叩き、促す。


「カサンドラさん……セレス……」


 エリンは戸惑い、一瞬足を止めた。

 だが、アイリスの背中から伝わってくる「迷いのない鼓動」と、カサンドラたちが放つ「覚悟の静寂」を感じ取り、力強く頷いた。


「わかった……行こう、アイリス!」


 二人は再び駆け出した。本部の最深部へ。

 「行かせるか!」と叫んで銃を構える防衛兵たちの前に、カサンドラ率いる小隊が鉄壁の陣を敷く。


「我らを通したければ、全員斬り伏せてからにするがいい!」


 カサンドラの激が飛び、裏切り者と正規軍が入り乱れる乱戦が始まった。


 背後で響く、ヴィルヘルムの咆哮とセレスの細剣が奏でる旋律。

 そして、カサンドラたちが命を懸けて作り出した「道」。

 アイリスは、掌に伝わる始祖の剣の熱を強く感じていた。

 自分はもう、一人で旅をしているのではない。

 多くの者の願いが、この一本の銀の刃に宿っている。


 階段を駆け上がり、ついに現れた最後の重厚な扉。

 その向こう側には、この国に「終わらない秋」をもたらした男、カウス・アドラーが待っている。


「……着きましたね」


 アイリスが静かに呟く。

 エリンは、震える手で扉の取っ手に手をかけた。

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