第54話:『隠すべき真実』
井戸の底は、生暖かい泥とカビの匂いが混じり合う、濃密な閉鎖空間だった。
老人に導かれ、アイリスとエリンは梯子を伝って地下用水路へと降り立った。
かつて豊かな水を湛えていたであろうその場所は、今や喉を枯らした巨獣の体内のように虚ろに乾ききっている。
視界を持たぬアイリスにとって、そこは反響の迷宮だった。
「……聞こえます。かつて、ここを流れていた水たちの記憶が」
湿り気を失った壁に杖が触れるたび、微かな振動がアイリスに「音」として伝わる。それは奔流の轟きではなく、今は亡き豊穣への遠い溜息。
「アイリス、大丈夫? 足元、左側に大きな石があるから気をつけて」
エリンはアイリスの手を離さず、けれど歩幅を合わせるように何度も振り返り、彼女の安全を確かめる。その気遣いは、単なる保護ではなく、共に歩む対等な旅人としての敬意に満ちていた。
一方、地上――老人の家の前では、激しい衝撃音が静寂を打ち破っていた。
「また来たぞ! 防衛軍だ!」
住民の一人が必死に扉を叩き、警告を飛ばす。
負傷したルトガーが身をよじって立ち上がろうとするが、それを制するように、セレスが静かに立ち上がった。
「ルトガー、あなたは休んでいて。……後のことは、私に任せて」
セレスは細剣を手に、冷たい風の吹き込む表へと歩み出た。
広場に降り立っていたのは、軍を率いるベアトリーチェだった。
その立ち姿は相変わらず凛烈で、秩序の化身そのものであったが、その瞳の奥には、昨日見た紋章が残した「迷い」の滓が、消し去れぬ影となって揺らめいている。
「汚染源――アイリスの行方を教えろ。匿う者は、この森の存続に関わらず厳罰に処す」
ベアトリーチェの警告に、誰も答えない。
沈黙の森は、その名の通り固い拒絶を貫く。
その沈黙を切り裂くように、セレスがゆっくりと進み出た。
「なぜ、そこまでしてあの子を探そうとするのかしら」
セレスの声は、澄んだ鈴の音のように響いた。
ベアトリーチェは槍を向け、感情を殺して答える。
「閣下の命令だ。彼女はこの国の安定を乱す不純物であり、排除すべき病だからだ」
「安定? それとも『死』かしら」
セレスが返す刀で、ベアトリーチェの核心を突く。
「動かないことが安定だというなら、墓場こそが最も安定した場所でしょうね。あなたは、生きて脈打つものを恐れているだけではないの? カウスが恐れているのと同じように」
「……黙れ」
「答えられないのね。あなたが守ろうとしている法は、命を育むためのものではなく、命を縛り付けるための鎖。そんなもので、本当に人を救えると思っているの?」
セレスの正論は、ベアトリーチェが昨晩から抱え続けていた「綻び」に、容赦なく楔を打ち込んだ。
ベアトリーチェは自身の動揺を振り払うように、激しく槍を突き出した。
「能書きはいい! 貴殿もまた、秩序の敵であるならば――我が槍を以て断罪するのみ!」
激突。銀の槍と細剣が交差し、広場に火花が舞い踊る。
広場を包む空気は、二人の女が放つ殺気によって鋭く研ぎ澄まされていた。
ベアトリーチェの槍が、重戦車のごとき質量と速度でセレスの喉元を突く。
銀の閃光が空気を切り裂く音は、あたかも雷鳴のように周囲の石壁を震わせた。
対するセレスは、それを一歩も引かずに迎え撃つ。
――キィィィンッ!
細剣の銀身が槍の穂先を斜めに受け流し、火花が二人の間に散る。
セレスの動きは、アイリスが体現する「断絶の作法」とは明らかに異質だった。
アイリスの剣が命を還すべき場所へ送るための「祈り」であるとするならば、セレスの剣技は見る者を魅了し、圧倒する「舞踏」の様だった。
爪先立ちで石畳を滑り、重力さえも味方につけたような流麗なステップ。
翻るスカートの裾が、死の舞踏の軌跡を描く。
ベアトリーチェの無骨で機能美に溢れた軍事技術に対し、セレスのそれは、かつて華やかな宮廷で貴族たちが競い合った剣術の極致――失われたはずの王家の薫りを感じさせるものだった。
「……何者だ、貴殿は」
ベアトリーチェが呻くように問い、槍の石突きで地面を叩いて再び跳躍した。
重厚な連撃。槍を旋回させ、遠心力を乗せたなぎ払いがセレスの逃げ場を奪う。
だが、セレスはその嵐の目へと自ら飛び込み、槍の柄を細剣の鍔で受け流しながら、至近距離でベアトリーチェと視線を交錯させた。
「私はただの、料理を愛する家主に過ぎませんわ。……もっとも、招かれざる客を追い出す作法だけは、少しばかり嗜んでおりますけれど」
二人の戦いは、もはや「水と油」だった。
剛を以て柔を砕こうとするベアトリーチェと、柔を以て剛をいなすセレス。
槍の重みが細剣を押し潰そうとするたび、セレスは柳のように身体をしならせ、その力を円の動きで虚空へと逃がしていく。
まるで、荒れ狂う暴風雨の中を、一枚の蝶が羽根さえ濡らさずに舞い続けているような光景だった。
ベアトリーチェの焦燥が、槍の風切り音に混じり始める。
彼女は防衛軍最強の騎士として、あらゆる戦場を生き抜いてきた。
他国による軍の侵攻。魔物や獣の群れ。
ゼニトに興味を持ち訪れる不埒な不審者や賊。秩序の敵を討つことに、かつて迷いなど微塵もなかった。
しかし、今の彼女はどうだ。
槍を突き出すたび、脳裏にあの「煤けた紋章」がフラッシュバックする。
エリンの瞳、アイリスの言葉、そして目の前で「本物の品格」を漂わせるこの女性。
――ガツッ!
一瞬、ベアトリーチェの踏み込みが僅かに乱れた。
セレスはその空白を見逃さず、細剣の切っ先を槍の隙間に潜り込ませる。
だが、刺しはしなかった。
セレスの刃は、ベアトリーチェの肩をかすめ、彼女の意識を現実へと引き戻すように優しく「触れた」だけだった。
「……震えていますね」
セレスの囁きが、剣戟の騒音を通り抜けてベアトリーチェの耳に届く。
それは挑発でも嘲笑でもなかった。
凍てつく寒さの中で震える子供に、そっと毛布を掛けるような、あまりにも慈悲深い「寄り添い」の音。
「あなたの槍には、これまでのような冷徹な秩序の音がありません。その響きは、何かを壊したくないと願う、悲しい優しさの音……。ベアトリーチェさん。あなたは、本当は何を怖がっているの?」
「黙れ、黙れ……ッ!」
ベアトリーチェは叫び、怒りに任せて槍を振り下ろした。
力任せの一撃は石畳を粉砕し、瓦礫を跳ね上げた。
しかし、その一撃に込められた「覇気」は、昨日までの彼女のそれとは比べ物にならないほどに弱々しかった。
秩序という鎧の下で、彼女の心は急速に体温を失い始めていた。
セレスは、悲しみさえ感じさせるほど静かな瞳でそれを見つめ、再び優美な構えをとった。
彼女の細剣は、逃げ場を失った騎士の心を解き放つための、銀の鍵のように輝いていた。
「無理に振り払うことはありませんわ。迷うということは、あなたがまだ『人間』として生きている証拠なのですから。……さあ、ダンスを続けましょう。あなたの本当の心が、その槍の先からこぼれ落ちるまで」
広場に再び、金属が歌うような美しい旋律が響き始める。
それは戦いという名の、魂の救済だった。
だが、「迷い」を指摘されたことが、逆にベアトリーチェの奥底に眠っていた「狂信」に火をつけた。
彼女は喉を震わせて獣のような咆哮を上げ、それまでの理論的な動きを捨てて、命を削るような猛撃へと転じた。
「……貴殿に、何がわかる! 閣下が築かれたこの平穏が、どれほどの血と涙の上に成り立つ不変の救いか!」
槍が唸りを上げ、空気が爆ぜる。
セレスは一変した彼女の覇気に顔色を変え、優雅な舞を捨てて徹底した防戦と回避に回った。
ベアトリーチェの突きはもはや点ではなく、面となってセレスの退路を削り取っていく。
「変化は毒だ! 自由は腐敗を招く! かつてのゼニトがそうであったように! 閣下はこの国の『終わり』を固定することで、我らを永遠の苦痛から解放してくださったのだ! 私の信じる未来は、この静止した美しき世界にある!」
激越な叫びと共に放たれた刺突。セレスは紙一重で首を逸らしたが、槍の穂先が彼女の二の腕を深く掠めた。
「くっ……!」
鮮血が舞い、セレスの白い肌を赤く染める。
ベアトリーチェはその一瞬の怯みを見逃さず、獲物を屠る必殺のなぎ払いを繰り出した。
だが、セレスの瞳は死に瀕してもなお、静水の如く澄み渡っていた。
セレスは掠められた腕の痛みさえ加速の糧にし、槍の回転軸の内側へと、吸い込まれるような速度で踏み込んだ。
「――それがあなたの『信じるもの』だというなら。私は、私の『愛したもの』のために、それを断ち切りましょう」
キィィィィィンッ!
細剣が槍の柄を滑り、火花がベアトリーチェの顔を照らす。セレスは渾身の力を込め、円の軌道で槍を大きく跳ね上げた。空中に投げ出される銀の槍。
無防備になったベアトリーチェの右肩――槍を操る要の部位を、セレスの細剣が正確無比に貫いた。
「が、はっ……!」
肩を貫通した衝撃に、ベアトリーチェの膝が石畳を叩く。
激しい失血と疲労が彼女の意識を奪いにかかる。
セレスは荒く息を乱しながら剣を引き抜き、よろめく身体を支えようと自身の肩を抱いた。
その際、激しい戦いで引き裂かれた衣服の襟元からあるものが遠く差し込む太陽の光の下、ベアトリーチェの視界に飛び込んできた。
それは、エリンが持っていたものよりも一回り大きく、より繊細な装飾が施された「沈黙の獅子」の銀製紋章。
そこに交差する『剣』は、王家へ仇なす者を討つ誓いを意味する。
ベアトリーチェは、それを見つめたまま、言葉を失った。
エリンの持つそれが「偽物」である可能性に縋っていた彼女の心は、目の前の強者がまとう本物の風格と、その胸元で汚れ欠けながらも輝く王家の証によって、完全に粉砕された。
「……ああ、やはり……そう、だったのですね……」
ベアトリーチェの声は、もはや枯れ果てていた。
彼女は何かを確信し、同時に全てを諦めたように、悲しくも穏やかな表情で静かに瞳を閉じた。
カウス・アドラーが塗り潰したはずの、守るべき「真実」がここにある。
その事実に打ちのめされ、彼女は意識の闇へと沈んでいった。
広場に、再び静寂が戻る。
セレスは負傷した腕を抑えながら、地下へと続く井戸の方向を見つめた。
「……アイリス様、エリン。どうか、無事で……」




