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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
不変の秋と意志の断絶
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第53話:『夜明けの決意』

 石畳の上に、ヴィルヘルムが力なく横たわっていた。


 喉元に突きつけられた細剣を引いたセレスは、もはや彼を敵としてさえ見ていなかった。

 彼女の視線はすでに、血に染まって倒れているルトガーへと向けられている。


「……ひ、退け! ヴィルヘルム様を連れて行くんだ!」


 残された防衛兵たちが、震える手でヴィルヘルムの身体を担ぎ上げた。


 一人が本部へ悲鳴のような報告を飛ばしながら、這いずるように広場から逃げ去っていく。

 誇り高き「秩序の番人」たちが無様に敗走する様を、セレスは追うことなく見送った。


 セレスはすぐさま表情を「家主」の慈愛へと戻し、ルトガーの元へ駆け寄る。


「ルトガー! しっかりなさい!」


 広場の家々の陰から、事の成り行きを呆然と見ていた市民たちが、おそるおそる顔を出した。セレスは彼ら一人一人の目を見据え、凛とした声で告げる。


「皆さん、もう安全です。怯える必要はありません。……それよりも、この方を助けるのを手伝ってください! 水はもうありませんが、酒か、清潔な布ならあるはずです。急いで!」


 その毅然とした態度に打たれた数人の若者が、我に返って駆け寄った。

 水が貴重品となったこの森で、消毒のための蒸留酒と古布を抱えて家々から飛び出してくる。

 経緯はどうあれ、彼がみなの命を守ってくれたことを重々理解していたからだ。


「ルトガーさん! ルトガーさんッ!」


 その時、広場の入り口からアイリスとエリンが駆け込んできた。  

 血まみれのルトガーの姿を見た瞬間、エリンの顔から血の気が失せる。


 彼女は震える足で彼の傍らに膝をつき、その胸元が微かに上下しているのを見て、ようやく絞り出すような安堵の吐息を漏らした。


「……生きてる。よかった……よかった……」

「エリンさん、まずは彼を安静な場所へ。傷が深いです」


 アイリスの杖が、周囲の混乱と安堵の混ざり合った空気を鋭敏に捉えていた。

 背後では、一人の老人が自分の家の扉を大きく開け放ち、手招きしている。


「こっちだ、わしの家へ運ぶがいい! 蓄えの強い酒がある、消毒の代わりになるはずだ。早く!」


 その声に導かれ、市民たちがルトガーの巨体を抱え起こす。  

 アイリスは老人の存在を感じ取り、杖を握り直した。


「……また、あなたに甘えることになってしまいましたね」

「気にするな。今は一刻を争う。さあ、中へ!」


 ルトガーは老人の家の中へと運び込まれた。

 彼らが束の間の休息を得た、あの静かな居間だ。

 外はすっかり日が落ち、空は濃い藍色に染まろうとしている。


 沈黙の森を包む夜は、かつてないほどに深く、冷たい。


 ルトガーに応急処置を施した後、エリンは窓の外、防衛軍が去っていった方向をじっと見つめていた。その横顔には、昼間までの幼さは微塵もなかった。


「……今日はもう、防衛軍の奴らは出てこないよ」


 エリンがぽつりと呟いた。

 その確信に満ちた、どこか諦念を含んだ声に、アイリスは静かに尋ねる。


「どうして、そう言い切れるのですか? 彼らはまだ、壁の向こうに大勢いるはずなのに」


 エリンは振り返らず、自分の胸元――あの煤けた獅子の紋章――を強く握りしめた。


「……ベアトリーチェが止めたはずだから。彼女があの紋章を見てしまった以上、アドラー軍は『確認』のために動きを止める。彼らにとって、あの獅子はただの敵じゃない。……消したはずの、自分たちの罪そのものだから」


 エリンの瞳から、一筋の涙が溢れた。  

 アイリスはその心音に耳を澄ませる。

 そこには、誇りよりも、隠し続けてきた秘密が暴かれたことへの、深い悲しみと覚悟が入り混じっていた。


 遠くに月が小さく照らす頃。

 家の居間には、安物のランプの灯りが心細く揺れていた。

 ルトガーは奥の寝床で泥のような眠りについている。


 セレスが甲斐甲斐しく看病を続ける中、アイリスとエリンは窓際で、夜の帳が下りた「沈黙の森」を眺めていた。

 この家の主は、どこまでも優しいのか。夜眠る間は近隣の家に身を寄せてくれていた。


「……沈黙の森は、かつて王家が『最後の砦』として選んだ場所だった」


 エリンが静かに語り始めた。


「私が生まれた頃には、この国はもう今の形……アドラーの『不変』に飲み込まれた後だった。でも、お父様もお母様も、ずっと私に聞かせてくれた。ゼニトの本当の姿を。壁ができる前、この国には正しい季節の巡りがあったことを」


 エリンは胸元の紋章を愛おしそうに撫で、アイリスに向き直った。


「アイリス。話したよね、私の見たい『未来』のこと。……あれは、単なる夢じゃない。私の未来は、この国が再び呼吸を始める『夜明け』そのものなんだ」


 アイリスは黙って耳を澄ませる。エリンの心音は、震えながらも、一本の細い光のように真っ直ぐに伸びていた。


「アドラー閣下は、王家を根絶したと言って、歴史を書き換えた。でも、血筋は絶えていなかった。……もし、私がここで死ねば、ゼニトの誇りも、かつての輝きも、本当に跡形もなく消える。この国は、散ることさえ許されない『永遠の秋』のまま、ただ腐り落ちるのを待つだけの枯れ葉になってしまう」



「……報告は以上です。汚染源――アイリス、および同行者を逃しました」


 ベアトリーチェは、カウス・アドラーの背中に向けて深く頭を下げていた。


「二度も逃したことになるな、ベアトリーチェ。……ヴィルヘルムまで、あの家の女主人に追い払われたというのか」


 カウスの静かな声が執務室に響く。

 ベアトリーチェは意を決して、遺跡で見たものを口にした。


「閣下……。逃走中の少女が『ゼニト王家』の紋章を所持していました。あれは、根絶されたはずでは……」


 背を向けたカウスの眉が、一瞬だけ不自然に跳ね上がる。だが、彼は振り返ることなく冷徹に言い捨てた。


「馬鹿げたことを。王家は二十年前、自らの失策によって滅びた。その紋章は、反乱分子が捏造した偽物に過ぎん。……惑わされるな、ベアトリーチェ」


 カウスの巧みな拒絶に、ベアトリーチェはそれ以上言葉を重ねることができなかった。しかし、彼女の内に芽生えた疑念の霧は、決して晴れることはなかった。


「……ベアトリーチェ。明朝、再び汚染源――アイリスの捕獲に向かえ。今度こそ失敗は許されん」


 その背中に向け、ベアトリーチェは「御意」と短く応じ、重い足取りで執務室を後にした。彼女の姿が見えなくなると、カウスは壁の影に控えていた別の私兵を呼び寄せた。


「……紋章を持っているという少女を捕らえろ。それは『歴史の汚染』だ。生かして連れてくるのが望ましいが、抵抗するようなら殺しても構わん。ベアトリーチェには悟られるな」


 冷酷な密命が、闇に溶けていく。



 翌朝、老人の家の窓から差し込む冬の光が、ルトガーの顔を照らした。


「……すまん。結局、一番いいところで役に立たずじまいだ」


 ルトガーはまだ顔色こそ悪いものの、なんとか上半身を起こせる程度には回復していた。


「無理をしないでください。あなたの戦いのおかげで、私たちは今ここにいます」


 アイリスもまた、肩の痛みが和らいでいるのを感じていた。

 一晩の休息が、彼女の生身の身体に奇跡的な回復をもたらしていた。


 その時、エリンがアイリスの前に立ち、まっすぐに向き直った。


「アイリス。お願い……一緒に壁まで来てほしい。カウス・アドラーのいる場所へ」


 エリンの声は震えていた。


「私には、戦う力なんて何もない。剣も振れないし、魔法も銃も使えない。……でも、このまま終わらせたくないの」


 悲観的になりそうな自分を奮い立たせる、少女の小さな、けれど確かな勇気。

 アイリスは視覚を持たぬ瞳を彼女へと向け、静かに微笑んだ。


「……行きましょう。あなたの見たい夜明けのために」


「アイリス様、エリン。私はここに残って、この大きな子供の面倒を見ています」


 セレスが、ルトガーの額に濡れた布を置きながら、茶目っ気たっぷりに言った。


「男の人たちは休んでいる時が一番手がかかりますから。でも、女性はいつだって、倒れた人を支えながらでも明日の準備ができるくらい、強いものですしね」


 しかし、老人が厳しい表情で口を開く。


「だが、表の通りを進めば、壁に近づく前に防衛軍の射程に入るだろう。奴らは今朝から殺気立っている」  


 老人は壁の方角を指差し、妙案を口にした。


「街の井戸を使うのはどうだ。水が止められているのは、皮肉にも我々にとって好都合かもしれん。地下の干上がった用水路を伝えば、壁の向こう側……中央区の地下まで繋がっているはずだ」


 老人は少し申し訳なさそうに、アイリスとエリンを見やった。


「いじらしい少女と、可憐な盲目の女性を、泥まみれの汚い場所に案内するのは気が引けるが……」


 すると、セレスがくすりと笑って答えた。


「あら、構いませんわ。泥なんて、夜明け前の暗闇と同じ。洗えば落ちるものです。それよりも、綺麗に飾り立てられた『偽りの秩序』の中にいるより、ずっと清々しいはずですわ」


「えっと……。セレス……。貴方が言う?」

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