第52話:『煤けた紋章』
その瞬間、ベアトリーチェの時間は止まった。
エリンの胸元で揺れる、黒ずんだ獅子の紋章。
それは、アドラー防衛軍の教本において「旧時代の腐敗とともに完全に根絶された」と記されている、かつてのゼニト王家の証だった。
「……王家は、滅んだはずだ。カウス閣下は、そうおっしゃった……」
鋼鉄のように強固だった彼女の信仰に、目に見えるほどの亀裂が走る。
槍を握る指先から力が抜け、完璧だった構えに、致命的な空白が生じた。
アイリスはその「隙」を逃さなかった。
肩の傷から流れる血が視界《感覚》を削っていたが、外套の中で触れたロザリオの冷たさが、彼女に最後の一撃を振るう勇気を与える。
「――はぁぁッ!」
アイリスは残された全神経を、その細い腕に集中させた。
始祖の剣が、重厚な槍の柄を、物理的な質量を超えた「断絶の理」で打ち払う。
金属がひしゃげる凄まじい衝撃音が遺跡に反響し、ベアトリーチェの得物は無残に石畳へと弾き飛ばされた。
「……くっ」
無防備になったベアトリーチェの胴を、アイリスは剣の腹で強かに打つ。
衝撃に焼かれ、膝をつくベアトリーチェ。
アイリスもまた、その一撃に全てを使い果たし、激しく肩で息をしながら剣を杖代わりにしてようやく立っていた。
数秒の、濃密な沈黙。
ベアトリーチェは倒れ伏しはしなかった。
屈強な精神と肉体が、意識の喪失を拒んでいる。
しかし、その瞳からは先ほどまでの峻烈な光が消え、深い混沌が渦巻いていた。
「……早く、行け」
ベアトリーチェが、絞り出すような声で言った。
その言葉は、軍人としての命令ではなく、一人の女としての、迷いそのものだった。
「アイリス、急ごう!」
エリンが再びアイリスの手を強く引く。
戸惑い、振り返ろうとするアイリスを急かし、二人は砂塵の舞う遺跡の奥へと姿を消した。
一人残されたベアトリーチェは、冷たい床に座り込んだまま震える手で自身の胸元に刻まれた防衛軍の紋章に触れた。
(……私は、何を信じてきた)
煤けた紋章の残像が、網膜に焼き付いて離れない。
かつて、国境沿いの荒野で飢えていた少女だった頃。
彼女の村を焼き、両親を奪ったのは、無秩序に暴走する「変化」を望む反乱軍だった。
逃げ惑う彼女を救い上げたのは、若き日のカウス・アドラーだ。
彼は血の海の中で、まるで彫像のように静かに立っていた。
『安心しろ。愚かな王家は自滅した。彼らが守れなかったこの国は、私が不変の理で固定してやろう』
カウスが語った「王家の最期」は、あまりにも無惨で、救いようのないものだった。 民を見捨て、権力争いの果てに血筋は途絶えた――。
その言葉を信じたからこそ、彼女は「不変」という冷徹な秩序こそが、唯一の正義だと確信した。
弱者が淘汰されず、昨日と同じ今日が約束される世界。
それを守るためなら、自分を殺し鉄の駒になることなど容易かった。
だが、今、目の前に現れたあの少女は。
「沈黙の森」に生きる者たちは。
(……もし、あの紋章が本物なら。閣下が『根絶した』と言った光が、まだ生きていたのだとしたら)
カウスが彼女に与えた救済は、真実を塗り潰した上の「偽りの安寧」だったのではないか。信仰の根幹に走った亀裂は、かつて両親を失った夜以上の冷たさで、彼女の心臓を締め付けていた。
「……閣下。あなたは、何を隠されたのです」
動かなくなった槍を横目に、彼女は自分の存在意義が音を立てて崩れていくのを感じていた。
砂塵が舞う遺跡の回廊を、二人の足音が急き立てるように響く。
エリンに手を引かれながら、アイリスは自らの内側に沈殿する違和感を拭えずにいた。
(……どうして?)
先ほどまで、ベアトリーチェの鼓動は鉄のように硬く、揺らぎのない秩序に満ちていた。
だというのに、エリンが飛び出した瞬間、彼女の音は悲鳴を上げるように乱れ、そして止まった。
視覚を持たぬアイリスには、エリンの胸元に揺れる古い紋章は見えていない。
ただ、ベアトリーチェの精神を根底から砕いた何かが、隣を走る少女から放たれたことだけを、肌で感じていた。
「……エリンさん」 「アイリス、喋っちゃダメ。今は少しでも遠くへ!」
エリンの声は、先ほどまでの怯えた少女のものではなかった。
どこか覚悟を決めたような、低く、重い響き。
アイリスが「視る」彼女の心音は、今や迷路のように複雑に入り組み、巨大な沈黙を抱えている。
エリンは何も語らない。ベアトリーチェをあれほどまでに動揺させた理由も、自分が何者なのかも。
けれど、その握りしめられた掌からは、決してアイリスを裏切るような「濁った気配」は微塵も感じられなかった。
(彼女は、嘘を吐いているわけじゃない。ただ……自分でもまだ、言葉にできない重いものを背負おうとしている)
アイリスは、あえて問いかけるのを止めた。
今の自分にできるのは、その沈黙を尊重することだけだ。
ベネディクトが言ったように、命にはそれぞれ、語られるべき「時」があるのだから。
「……あそこだよ」
不意に、エリンが足を止めた。崩落した石材の隙間から、風の通り道が見える。
その先からは、硝煙の匂いと、激しくぶつかり合う鉄の音が流れてきていた。
「この先を抜ければ、広場に出られる。そこにルトガーがいるはず。……彼と合流できれば、きっと逃げ切れるから」
エリンの瞳に、決然とした光が宿る。
アイリスは深く頷き、再び剣を杖として握り直した。
広場は、二人の男が放つ濃密な殺気によって、物理的な温度さえも変質していた。
ルトガーの銃声が空気を引き裂き、ヴィルヘルムの法礼剣がその火花を斬り裂く。
ルトガーは、どこかで叩き込まれた実戦術を、この森での数年間でより洗練させていた。
銃身を盾にし、死角から剣を滑り込ませる変幻自在の機動。
対するヴィルヘルムは、アドラーの「静止した秩序」を体現するかのような、精密機械のごとき剣筋でそれら全てを弾き返す。
銃を捨て、剣を強く握り直すと、二人は撃ち合いを始める。
終わる気配のない火花。均衡は、永遠に続くかと思われた。
だが、ヴィルヘルムの剣は、ルトガーが予想していた以上に「重かった」。
それは物理的な重さではなく、一つの迷いもなく法に殉じようとする狂気的なまでの純粋さの重みだった。
「……気づいているか、ルトガー。貴様の剣には『執着』が混じっている」
火花が散る至近距離で、ヴィルヘルムの冷徹な声がルトガーの鼓動を刺す。
「森を守るのではない。貴様はこの廃墟に逃げ込むことで、かつて俺たちが見捨てた真実から目を逸らしているだけだ。……違うか?」
その一言が、ルトガーの内に潜んでいたわずかな『怯え』を暴き出した。
一瞬。ほんの一瞬、ルトガーの剣が僅かに揺らぐ。
ヴィルヘルムはその刹那を、獲物を狙う鷹のように逃さなかった。
法礼剣が銀の閃光となり、ルトガーの胸元を斜めに切り払う。
「ガッ……!」
鮮血が石畳を叩き、ルトガーの巨躯が崩れ落ちた。
激しい痛みと衝撃が身体を走る。
しかし、ルトガーは屈しなかった。
倒れ伏したまま、強烈な芯の強さと凄まじい目力で、見下ろすヴィルヘルムを睨みつける。
その瞳は、敗北者のそれではなく、誇りを捨てぬ獣の輝きを失っていなかった。
「……殺せ。この森の中で、守るべきもののために戦って死ぬ。……それ以上に、俺にふさわしい最期なんてない」
ルトガーは肩で激しく息をしながら、吐き捨てるように言った。
ヴィルヘルムは応えない。ただ、任務を完遂するための冷徹な機械へと戻り、処刑の一振りを振り上げた。
アドラーの法が、反逆者の命を刈り取ろうとしたその瞬間――。
――キィィィィンッ!
高らかに響き渡ったのは、法礼剣の重厚な音を軽やかに弾き飛ばす、鋭い金属音だった。
「なっ……!?」
ヴィルヘルムの視界に飛び込んできたのは、一筋の銀光。
細剣の切っ先を突きつけ、静かに。
しかし圧倒的な威圧感を放ちながら立つ一人の女性――セレスの姿だった。
「……お前は」
「もう良いでしょう。剣を収め、下がりなさい。これ以上の狼藉は、この私が許しません」
セレスの声には、もはやスープを配っていた時の温もりは微塵もなかった。
それは、何かを守ろうとする強力な意志と慈悲の、峻烈な警告。
ヴィルヘルムは一瞬、彼女の放つ異様な気魄に気圧され、たじろいだ。
だが、彼はアドラーの忠実な騎士。己の迷いを強引に振り払うと、再び殺気を膨らませてセレスへ斬りかかった。
「秩序を乱す者は、誰であろうと排除する……!」
だが、その突撃は空を斬った。
セレスは踊るような軽やかな身のこなしでヴィルヘルムの剣をいなすと、彼の力の流れをそのまま利用して、死角へと滑り込む。
「……浅い」
セレスの細剣が、雷光のような速さでヴィルヘルムの喉元へ突き出された。
回避は不可能。ヴィルヘルムは、自分の首筋に冷たい刃が触れる感覚と共にそのまま石畳へと押し倒された。
見上げる視界。
そこには、夕闇を背負い、可憐でありながらも逆らうことを許さぬ威風堂々としたセレスの姿があった。
「……この森は、あなたたちが踏み荒らして良い場所ではないのです」




