第51話:『鎮魂歌のように』
遺跡の入り口に、冷徹な秩序の音が満ちていた。
「汚染源――アイリス。無駄な抵抗はやめ、大人しく投降せよ。閣下は貴殿との対話を望んでいる。殺すような真似はせぬ、安心しろ」
ベアトリーチェの声は、岩壁に反射して鋭く響く。
アイリスはエリンの制止を静かに振り切り、外套の下に隠した三つの「想い出」を一度だけ指先で確かめてから、光の差し込む外へと一歩を踏み出した。
「エリンさん、ここで待っていてください」
「でも……」
「これは、私が向き合わなければならない影です」
外に出たアイリスを、四人の兵士とベアトリーチェの槍が取り囲む。
アイリスは視覚を持たぬ瞳を真っ直ぐに彼女へと向けた。研ぎ澄まされた感覚が、ベアトリーチェの鼓動を捉える。
それは、冷酷な殺人鬼の乱れた波形ではない。
むしろ、あまりにも律儀で、一つの揺らぎも許さぬほどに鍛え上げられた、悲しいまでに純粋な秩序の拍動だった。
「……あなたの心音は、とても澄んでいます。冷酷でも、残忍でもない。けれど、だからこそ、その言葉を信じることはできません」
アイリスは鉄の杖を構え、三つの問いを投げかけた。
「教えてください。なぜ防衛軍は、これほどの武力で壁を守るのですか。なぜ沈黙の森の人々を閉じ込め、水さえ奪って苦しめるのですか。……そして、もし私が大人しく捕まったなら、あなたはあの壁を壊し、この国をもう一度、一つの国として解放してくれますか?」
ベアトリーチェは、迷いのない声で答えた。
「第一の問い。壁は不変の象徴だ。カウス閣下は、変化という病から人々を守るために、あの理を築かれた。第二の問い。管理されぬ生は、いずれ崩壊と腐敗を招く。この森に留まる者たちは、その恩恵を自ら拒んだのだ。故に、秩序の代償を支払うのは当然のこと。……そして最後の問いだが。それは約束できぬ。私は法を守る者であり、法を壊す者ではない」
「……そうですか。ならば、私もまた、私の信じる『終わり』のために進むしかありません」
二人の間に流れる空気が、一瞬で殺気に塗り替えられた。
「……捕らえよ。四肢を削いでも構わん、命だけは繋ぎ止めろ」
ベアトリーチェの号令と共に、三人の兵士が抜刀し、アイリスへと肉薄する。
アイリスは始祖の剣を抜いた。
キィィィン、という、あのエヴァリアの霧さえも切り裂くような高潔な金属音が響く。
一閃。踏み込んできた兵士の剣筋を最小限の動きで見切り、その腕の神経だけを正確に断つ。殺しはしない。ただ、戦う意志を物理的に切断する
――それはかつて「作業」と呼んだものとは違う、慈悲に基づいた「断絶の作法」だった。
「その剣、一体……。やはり……。」
二人、三人。瞬く間に戦闘不能に陥る兵士たち。
その背後から、最後の一人が銃口を向けた。乾いた放銃音。
だが、アイリスは音の軌道を先読みし、吸い込まれるように剣の腹で弾丸を弾き飛ばした。
そのまま地を這うような足取りで距離を詰め、銃を持った兵士の喉元に峰を当て、意識を刈り取る。
「……目が見えぬというのは、偽りか。あるいは、それ以上の『眼』を持っているというのか」
ベアトリーチェの瞳に、初めて感嘆の色が混じった。
彼女は背負っていた重厚な槍を手に取り、ゆっくりと構える。
その拍動が、一騎打ちの熱を帯びて激しく打ち鳴らされた。
「認めよう。貴殿は単なる汚染源ではない。……一人の戦士として、我が槍を以て応えよう」
空気が凍りついた。
ベアトリーチェの槍が、銀の閃光となってアイリスの喉元を突く。
アイリスはわずかに首を傾け、それを紙一重でかわすと、始祖の剣を振り抜いた。
――キィン、と。
金属が触れ合うたびに、遺跡の壁に火花が散り、その「音」が周囲に反響する。
(……何、この音は)
ベアトリーチェは、合わせる刃から伝わる異様な感触に、言い知れぬ寒気を覚えた。
それは単なる鋼の鳴き声ではない。
エヴァリアの霧の奥で囁かれる断絶の予感。
エンド・ロアの救済の声。
フェルゼンの路地裏で響いた少年の「ありがとう」という震え。
カナンリスの祝祭を断ち切った、命をあるべき場所へ還すための祈り。
死神の鎌のように容赦はないが、そこには悍ましさなど微塵もなかった。
ただ、あまりにも透明で、あまりにも重い「終わり」の気配。
「貴様の剣には、何が入っている……!?」
ベアトリーチェの怒号と共に、槍の連撃がアイリスを襲う。
アイリスは肩の負傷が焼けるように疼くのを、奥歯を噛み締めて耐えた。
生身の身体は、以前のように瞬時に癒えることはない。
流れる血が体温を奪い、意識の端を白く霞ませる。
それでも、アイリスの感覚はかつてないほどに冴え渡っていた。
「……あなたの音、震えています」
剣戟の合間、アイリスは静かに告げた。
「その秩序は、とても美しい。でも、その奥に……今の答えが本当に正しいのか、自分に問いかけ続けている『迷い』が聞こえる」
「黙れッ!」
感情を秩序で塗りつぶすように、ベアトリーチェの突きが鋭さを増した。
彼女は一騎当千の強者。一瞬の隙も与えず、アイリスの体力を確実に削り取っていく。
アイリスは、肩の激痛と失血による眩暈に膝が折れそうになるのを、精神の力だけで繋ぎ止めていた。
だが、力の差は歴然だった。ベアトリーチェの重い一撃を剣で受け止めた瞬間、アイリスの身体が石畳に叩きつけられた。
「これで……終わりだ」
膝をついたアイリスの眉間に、無慈悲な槍の穂先が迫る。
アイリスは咄嗟に剣を交差させ、死力を尽くして槍を押し返した。
金属同士が軋みを上げ、火花が二人の顔を照らし出す。
力の拮抗は、負傷したアイリスにとって絶望的な消耗を強いた。
「待って! やめて!」
その時、遺跡の影から小さな人影が飛び出した。エリンだった。
エリンはアイリスを庇うように両手を広げ、ベアトリーチェの前に立ち塞がる。
「どけ、娘。汚染源を匿う者は――」
ベアトリーチェがエリンを排除しようと横目を向けた、その刹那。
エリンの細い首筋で揺れる、あるものがベアトリーチェの目を釘付けにした。
それは、煤に汚れ、光を失った古い金属のペンダント。
だが、その表面に刻まれているのは、アドラー家がこの地を支配する以前、古の記録にのみ残る聖域の守護者――ゼニト王家の「沈黙の獅子」の紋章だった。
「……まさか」
ベアトリーチェの槍を握る手が、初めて目に見えて震えた。
法を守る彼女にとって、それは決して存在してはならない「過去」を見るかの様に。
*
一方。広場は、硝煙と鉄の匂いに支配されていた。
「ガッ、……あ……ッ!」
防衛兵の一人が、喉を強打されて崩れ落ちる。
ルトガーの動きには、無駄が一切なかった。
腰の銃で牽制し、接近した敵には剣の柄や脚を叩き込む。
その手業は、一分の狂いもない軍事技術の極致だった。
「ふん、どうしたルトガー。この森の安寧に埋もれて、腕が鈍ったか? 貴様の力など、とうに死んだと思っていたが」
包囲網の外で、ヴィルヘルムが冷淡に言い放つ。
だが、ルトガーはそれに応じる言葉を持たない。
ただ、嵐のような速度で兵士たちの死角を突き、一人、また一人と無力化していく。
その沈黙は、雄弁な否定だった。自分はまだ、何も捨ててはいないという無言の意思。
やがて、立っている兵士が数えるほどになった時、ヴィルヘルムがゆっくりと前に出た。
「もうよい、下がっていろ。貴様らではこの『亡霊』の相手は務まらん」
ヴィルヘルムが手で制すると、残った兵士たちは一斉に距離を取った。
二人の間に、奇妙な静寂が訪れる。それは、まるでかつて同じ旗の下で、同じ戦場を駆けた者同士にしか流れない。
あるいは幼い頃から切磋して育ってきた様に、濃密で毒のような空気だった。
「なぜお前は戦う、ルトガー。この朽ち果てた森に、一体何の価値がある? 貴様ほどの男が、墓守の真似事とは滑稽だ」
ヴィルヘルムが法礼剣を抜き、その切っ先をルトガーの喉元へ向ける。
ルトガーは、短く吐き捨てた。
「……価値など、お前が決めることじゃない。俺が守っているのは、この国が捨てた『残骸』じゃない。ここで今日を生き、明日を待つ人間たちの時間だ。……そして、俺自身の未来でもある」
「未来、だと? この砂に埋もれゆく場所にか」
ヴィルヘルムの唇が、わずかに歪んだ。
それは嘲笑ではなく、理解しがたいものへの微かな戸惑いのようにも見えた。
「……そうか。ならば、その未来ごと、ここで管理の下に置いてやろう」
刹那、二人の距離がゼロになった。
ヴィルヘルムの精密な刺突を、ルトガーが銃身で受け流し、至近距離から銃口を向ける。それをヴィルヘルムは紙一重でかわし、剣を翻してルトガーの脇腹を狙う。
火花が飛び散り、石畳が砕ける。
二人の戦いは、もはや言葉を介さぬ対話だった。
広場に響く金属音は、かつての友を断ち切るための、悲しい鎮魂歌のようであった。




