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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
不変の秋と意志の断絶
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第50話:『いつか終わる自由』

 かつて砂の旋律を奏でていた『語り部の広場』は、今や冷徹な鋼の色に染まっていた。

 広場を埋め尽くすのは、砂塵を巻き上げて進軍してきた聖域防衛軍・第二軍の兵士たちだ。

 彼らの鎧は、沈黙の森の柔らかな陽光を無慈悲に跳ね返し、機械的に整列したその姿は、まるでこの廃墟に突如として現れた「死の歯車」そのものだった。


 その中心に、一際高く、装飾過多な鎧を纏った男が立っていた。  

 第二軍指揮官、ヴィルヘルム・マクシミリアン・フォン・エルシュタイン。  

 彼は手にした装飾剣の柄を、カチリ、カチリと規則正しく叩きながら、集められた住人たちを冷淡な眼差しで見下ろしている。


「――繰り返す。我々の目的は、この地に入り込んだ『汚染源』……銀髪の盲目の娘だ。彼女をどこへ匿った?」


 ヴィルヘルムの声は、感情を排した拡声器のように広場に響き渡った。  

 住人たちは互いに身を寄せ合い、震えている。

 彼らの沈黙は、アイリスを守ろうとする意志なのか、あるいは突如として突きつけられた暴力への拒絶反応なのか。


「誰も答えないか。……よろしい。ゼニトの法は、沈黙を『共犯』と定義する。貴殿らがこの不変の秩序に背くというのなら、我々もまた、法に従った処置を継続するまでだ。水の供給は、彼女が差し出されるまで永遠に止まったままだ。……さて、人間が乾き果てて、ただの物言わぬ石像になるまで、どれほどの時間がかかるかな?」


 その言葉に、住人たちの間に絶望の波が広がった。  

 数分前まで、彼らはアイリスと穏やかなスープの時間を共有していた。

 だが、今やその「水」一滴が、彼らの命を測る天秤の重りとなっている。


「……知らない! 私たちは、何も……!」


 一人の男が叫び声を上げたが、兵士の銃床がその腹部を容赦なく強打した。

 崩れ落ちる男。その呻き声さえも、ヴィルヘルムにとっては雑音に過ぎない。


「待ってください!」


 鋭い悲鳴を上げたのは、一人の子供を抱えた主婦だった。

 彼女は震える指を、広場の隅に立つ老人へと向けた。

 先ほど、アイリスにスープを振る舞い、エヴァリアの話に耳を傾けていたあの老人だ。


「あの……あの人が知っています! さっき、あの人の家に銀髪の娘が入っていくのを見ました。本当です、だから、水をおねがい……!」


 子供を守りたいという、なりふり構わぬ本能が、静かな連帯を切り裂いた。  


 兵士たちが一斉に動き、老人を取り囲む。

 ヴィルヘルムは重厚な足音を響かせ、老人の目の前で立ち止まった。


「ほう。……語り部の長か。貴殿なら、物語の続きを知っているはずだ。あの娘はどこへ消えた?」


 老人は、取り囲む銃口を見渡すこともなく、ただ静かにヴィルヘルムを見据えた。 

 彼の拍動は、恐怖に揺れることなく、冬の湖のように凪いでいる。  


「……あの子がどこにいるか、だと? それは風に訊くがいい。彼女は、お前たちが決して理解できない『自由』という名の場所へ行ったよ」


「……残念だ」


 ヴィルヘルムの溜息は、文字通りの意味を持たなかった。

 それは単なる、効率的な処刑を開始するための合図だった。


「法を乱す者は、法によって消去される。それがこの世界の正義だ。……構えろ」


 ヴィルヘルムの命令に従い、兵士たちが一斉に引き金に指をかける。

 老人は静かに目を閉じ、最期の瞬間を受け入れようとした。

 だが、その静寂を切り裂いたのは、防衛軍の銃声ではなかった。


 ――乾いた、、一発の銃声。


 放たれた弾丸は、老人の脳門を狙っていた兵士の手元を正確に貫いた。  

 金属と肉が弾ける音と共に、兵士の銃が石畳の上で虚しく跳ねる。


 「――そこまでだ、ヴィルヘルム。相変わらず、趣味の悪い儀式だな」


 広場の入り口、崩れかけたアーチの上に、一人の男が立っていた。  

 逆光の中に浮かび上がるそのシルエットは、腰に剣と銃を携えた、揺るぎない戦士の姿。  

 ルトガーだった。


 ヴィルヘルムは、眉一つ動かさずにその姿を見上げた。

 だが、その瞳の奥には、旧知の敵に対する、深い厭悪とわずかな懐かしさが混ざり合っている。


「……ルトガー。貴様、まだそんな錆びついた信念を抱えて、この泥の中で生きていたのか」


「ああ。お前たちが磨きすぎて中身を失くした『不変』よりは、この錆びた現実の方がマシだと思ってな」


 ルトガーはアーチから音もなく飛び降りた。

 その着地と同時に、彼から放たれる凄まじい「戦気の拍動」が、広場を支配していた防衛軍の空気を押し返す。


「久しぶりだな、ヴィルヘルム。……いや、今は第二軍の指揮官様だったか?」

「階級など、私と貴様の間に必要ない。……だが、その汚れた手で我らの法に触れた罪、その命で購ってもらうぞ」


 広場から響いた銃声を合図に、集落の平穏は音を立てて崩れ去った。


「――私も行きます」


 アイリスが始祖の剣の柄に手をかけ、ルトガーの開けた穴を追おうとした時、その細い肩をエリンが強く掴んだ。


「ダメだよアイリス、今は動いちゃ!」

「ですが、ルトガーさんが! それに広場の皆さんが……!」


 アイリスが叫び返した刹那、彼女の鋭敏な聴覚が、別の不吉な音を捉えた。  

 広場からではなく、集落のあちこちから忍び寄る、規則正しく重い足音。

 それは訓練された兵士たちが、獲物を包囲するように距離を詰めてくる音だった。


(……十人、いえ、もっと……?)


 じわじわと包囲網が狭まっていく。

 アイリスが迎撃のために一歩踏み出そうとした時、今度はその手を、セレスが静かに、けれど万力のような強さで止めた。


「アイリス。あなたはエリンと一緒に、裏の小道から抜けなさい」

「セレスさん!? 何を……ここは私が食い止めます。私はそのために、この剣を……」

「いいえ、行きなさい。ここは私に任せて」


 その声には、慈愛に満ちた普段のセレスからは想像もつかない、冷徹なまでの「芯」が通っていた。アイリスは戸惑い、彼女の「内」を探る。  


 セレスの心音は、驚くほど静かだった。

 それは死を恐れぬ者の静寂ではなく、守るべきもののために自分を捨て去った者の、透明な覚悟。

 エヴァリアの戦士たちとも、カナンリスの狂信者とも違う、愛する廃墟と共にある者だけの気高い覚悟を、アイリスは感じ取った。


「……セレス、さん」

「早く! アイリス!」  


 エリンが強引にアイリスの手を引き、裏口へと駆け出す。

アイリスは一度だけ振り返り、セレスの気配が遠ざかるのを、胸が裂けるような思いで受け止めた。


 それから数分も経たぬうちに、セレスが一人残る家の前に、防衛軍の分隊が到着した。  

 隊を率いるのは、ベアトリーチェの副官を務める女性戦士――カサンドラ・ヴォルフレッド。

 彼女は抜身の剣を携えながらも、荒々しく踏み込むことはせず、家の前でぴたりと足を止め、律儀に名乗りを上げた。


「聖域防衛軍・第一軍副官、カサンドラ・ヴォルフレッドである。……家主殿、聞こえるか。我々は汚染源たる銀髪の娘を追っている。速やかに彼女の所在を明らかにせよ」


 家の中から返ってきたのは、何事もなかったかのように野菜を刻む包丁の音と、穏やかなセレスの声だった。


「あいにくですが、ここには私しかおりません。お茶の一杯も差し上げたいところですが、あいにく水が止まっておりますので」


 カサンドラが合図を送ると、兵士たちが一斉に家の中へ踏み込んだ。

 彼女自身も部屋に入り、室内をぐるりと見渡す。

 そこにあるのは質素な生活の跡と、無表情で家事を続けるセレスの姿だけだった。


「……信じられないな。この期に及んで、まだ沈黙を守るつもりか」  


 カサンドラは冷ややかに告げた。

 彼女の瞳には、秩序を乱す者への容赦ない軽蔑が宿っている。


「なら、どうします? 何も持たない女一人を、力ずくで連行なさるのですか?」 「同じ女性として忍びないが、閣下の命は絶対だ。慈悲はない……連れて行け」


 兵士たちがセレスの細い腕を掴もうと手を伸ばした、その瞬間だった。    

 シュン、と。空気を切り裂く鋭い音が響き、最前線の兵士の籠手が弾かれた。


「――っ!?」


 セレスの手にあったはずの包丁は消え、代わりに彼女の袖口から、針のように鋭い「細剣レイピア」が突き出されていた。

 彼女は流れるような動作で兵士たちの死角へ潜り込み、最小限の動きでその急所をいなしていく。


「おっしゃる通り、慈悲はありません。この場所は、私たちの『墓標』。それを汚す土足の客人を、招き入れるつもりはないのですよ」


 優雅ですらあるセレスの剣筋を前に、カサンドラは驚愕に目を見開いた。

 沈黙の森に隠れ住む「終わった人々」の中に、これほどの武を持つ者が潜んでいたとは、防衛軍の計算にもなかったのである。


 集落の外れ、砂に半分埋もれた小さな遺跡の影に、二人は身を潜めていた。  

 崩れた石柱が作る狭い隙間で、アイリスは膝を抱え、荒い息をつくエリンの気配を感じていた。遠くからは、いまだに乾いた銃声や、重い金属がぶつかり合う音が風に乗って届いてくる。


「……ルトガーさんも、セレスさんも。私のせいで……」


 アイリスの声は、暗い空洞の中で震えていた。  

 肩の傷が、自身の罪を咎めるように熱く疼く。自分がエヴァリアを出たことで、平穏だったはずの場所が次々と壊れていく。

 エンド・ロアの叫び、フェルゼンの崩壊音、カナンリスの火の海が脳裏をよぎり、アイリスは自責の念に押し潰されそうになっていた。


「アイリス、自分を責めるのはやめて」  


 暗闇の中で、エリンが静かに、けれど力強く言った。


「私たちね、ずっと前から分かってたの。いつかあの壁が牙を剥くことも、私たちがいつかあいつらに牙を剥かなきゃいけないことも。沈黙の森に住むっていうのは、単に隠れることじゃない。『いつか終わる自由』を守るために、世界に反逆し続けてるってことなんだよ」


 エリンはアイリスの震える手を、両手で包み込んだ。


「私たちがアイリスを受け入れたのは、あんたが『汚染源』だからじゃない。あんたが、誰よりもこの森の人たちと同じ《《心》》をしてたからだよ。……いつか壊れるものを、ちゃんと愛そうとしてる」


 その言葉に、アイリスは外套のポケットの中へ、無意識に手を伸ばした。  


 そこには、彼女がこの長い旅路で拾い集めてきた「生の断片」たちが眠っていた。


 まず指先に触れたのは、冷たく硬い感触――ベネディクトから託された「ロザリオ」だ。『死は無ではなく、誰かの記憶の中に場所を移すこと』。

 死という救済を望み、死にきれなかった魂たち。

 あの夜、彼が遺した言葉の重みが、銀の十字架を通じて掌に伝わってくる。


 次に触れたのは、カサリと音を立てる乾いた感触――フェルゼン、あの大騒乱の果てにシビュラが忍ばせてくれたパンの「包み紙」。

 中身はとうに食べてしまったが、その紙には、あの街で出会った少年がくれた「ありがとう」という意志の温もりが、今も染み付いている気がした。


 そして、指先を掠めた柔らかな――カナンリスで、少女リリから贈られた「花」。

 今はもう押し花のようになり、命の輝きは失われている。

 けれど、ただ一生懸命に咲き、一生懸命に終わろうとするその「自分勝手な美しさ」は、今のアイリスにとって何よりの救いだった。


(私は……一人で歩いてきたわけじゃない)


 彼らから受け取った「終わり」への敬意。

 それが、アイリスの凍りついていた心に灯を灯す。

 自分が逃げれば、この「想い」まで汚してしまうことになる。


 その時だった。


 アイリスの背筋に、氷を滑らせたような鋭い悪寒が走った。  

 足裏から伝わる振動。風の中に混じる、過剰なまでに研ぎ澄まされた、冷徹な刃の気配。


(この気配は……!)


 直感した。あの巨大な壁の前で、圧倒的な実力差を見せつけた女。  

 聖域防衛軍第一軍、ベアトリーチェ。


 彼女はもう、すぐそこまで来ている。逃げ場のない遺跡の入り口へと、一歩、また一歩と、死神のような正確な足取りで近づいてくる。


「エリンさん、ここにいてください……私の、終わらせるべき『理』が、来たようです」」

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