第49話:『焼けてゆく喉』
ゼニトの壁の内側――そこは、外側の風化した廃墟が嘘のように、徹底した清潔と静寂に塗り固められた「箱庭」だった。
磨き上げられた大理石の床には、塵一つ落ちておらず、空調装置が吐き出す空気は、森の土の匂いをすべて濾過した無味無臭の乾燥した冷気だ。
「――以上が、外壁境界線における『汚染源』との接触記録です。カウス・アドラー閣下」
整然とした司令室に、ベアトリーチェの硬い声が響いた。
彼女は片膝をつき、深く頭を垂れている。
その顔には、先日の戦いでアイリスに剣を弾かれた屈辱と、得体の知れない「不変を脅かす力」への焦燥が、隠しきれぬ影となって落ちていた。
部屋の奥。巨大な防弾ガラス越しに、白く輝く都市部を見下ろしている一人の男がいた。
聖域防衛軍最高指揮官、カウス・アドラー。
彼は振り返ることもなく、機械的に整った動作で、手元に置かれた古い懐中時計の蓋を閉じた。カチリ、という金属音が、静室の中で鋭く反響する。
乱れることもシワの1つもないスーツを纏った彼は、見知らぬ人間から見れば貴族か紳士と違わない。
「一国の軍が攻めてきたわけではない。深淵から未知の魔物が群れを成して這い出してきたわけでもない。……ベアトリーチェ、何をそんなに慌てている?」
カウスの声は、感情の起伏が削ぎ落とされた、氷のように平坦な響きだった。
彼はゆっくりと向き直る。
その軍服にシワ一つなく、銀色の飾緒がかすかな振動すら立てない。
「しかし……あの少女の振るう力は異常です。私の剣を真っ向から受け、あろうことか『理』を塗り替えるような……」
「エヴァリアか」
カウスがその名を口にした瞬間、室内の温度がわずかに下がったように感じられた。
「霧に閉ざされた、終わりのない停滞の国。古の記録にのみ残る、神に忘れられたはずの聖域。……わざわざこんな最果ての、砂に埋もれゆく場所まで来るとはな。彼女が抱えてきたのは、停滞か、あるいはその逆か」
カウスは机の上に広げられた地図に指を滑らせた。
その指は小国エヴァリアがあるであろう場所を指差す。
「じっくりと話をしてみたい。彼女がその目に何を宿し、その腕に何を抱えてきたのか。あの国に関しては知らないことが多いからな」
彼は傍らに控えていた、もう一人の人物へと視線を向けた。
ベアトリーチェに次ぐ実力者、第二軍指揮官。
その全身を、装飾過多なまでに精緻な鎧で固めた長身の男だ。
「ヴィルヘルム・マクシミリアン・フォン・エルシュタイン。貴殿に第二軍の指揮を預ける。ベアトリーチェと共に、その『汚染源』を連れてきてもらいたい」
「御意に、閣下。不変の法の名において、速やかに」
ヴィルヘルムは機械のように完璧な敬礼を捧げた。
その名は、アドラー家への忠誠の証として家系図が何代も続く、この壁の内側のエリートであることを象徴していた。
「殺すなよ」と、カウスが静かに付け加えた。
「彼女は世界の異端だ。正す前に、その構造を理解する必要がある。森の民が邪魔をするなら、水源の弁を一つ閉じるだけでいい。恐怖こそが、最も効率的な『鎮静剤』だ」
ベアトリーチェとヴィルヘルムが部屋を去る。
後に残されたカウスは、再び窓の外の白い都市へ視線を戻した。
彼の胸の奥で刻まれる拍動は、エリンが恐れた通り、時計の針の音と見分けがつかないほどに無機質だった。
三人は先ほど箒を手にしていた老人の家へと招かれた。
この国には、客人を驚かせるような豪勢な料理も、希少な酒もない。
出されたのは、ひび割れた器に盛られた、乾燥したパンと、わずかな塩で味を調えただけの温かなスープだ。
だが、その素朴な湯気の中には、見返りを求めない「善意」という名の、何よりも贅沢な調味料が含まれていた。
「私の故郷……エヴァリアは、いつも霧に包まれた場所でした」
ふとした沈黙の間。アイリスは迷い、けれど勇気を振り絞るようにして言葉を紡ぎ始めた。
自分の出自を語ることは、かつての彼女にとってタブーであった。
しかし、この「自分勝手」に生きることを許された森では、過去さえも自分だけの持ち物として語っていいのだと思えた。
アイリスは、神話としての真実や剣に宿る理のすべてを語ることはしなかった。
ただ、一人の少女としての思い出話を語るように。
エヴァリアの光景や思い出。国民は女神の祝福により皆死ぬことはなく、しかしゆっくりと歳をとる。怪我も病気も再生する。しかし再生を繰り返した果てには苦しみがあることも。
そして一族は、その停滞した国の中で唯一、剣を振るうことを許されていたこと。その役割は国の秩序を守ることではなく、再生の果てに歪んだ相手を制する。殺すためではなく、止めるため。であったこと。など
「世界は、本当に広いんだねぇ」
老人はスープの最後の一滴を啜り、感心したように深く頷いた。
「ずっとここに座り込んでいる私らには、霧に包まれた国なんて想像もつかない。だが、あんたの話を聴いていると、その冷たい霧の匂いがここまで届いてくるようだ」
エリンもまた、珍しく静かにアイリスの言葉を聴き入っていた。
「アイリスのいた場所は、みんなが『変わらないこと』を祈ってたんだね。ここの壁の中にいる人たちと同じ。……でもアイリスは、そこから逃げてきたんじゃなくて、歩き出したんだ」
三人は丁寧にお礼を告げ、老人の家を後にした。
「……戻ろうか。夕刻の風は、体に障る」
ルトガーがいつになく穏やかな声音で促す。拠点であるセレスの家への帰路、アイリスの胸には、自分の過去を受け入れてもらえたという、静かで確かな安らぎが灯っていた。
しかし、その安らぎは、一瞬の異変によって霧散することになる。
拠点へ戻り、セレスが夕食の準備に取り掛かろうとした、その時だった。
「……っ!」 セレスが短く、鋭く息を呑む音が静かな室内に響いた。
台所の水場から、不吉な音が聞こえてくる。
それまで清らかに流れていた水が、細く、弱々しい糸のようになり――やがて「ゴボッ」という、肺から空気が抜けるような、重く苦しい音と共に、完全にその息を止めた。
「水が……止まった?」
エリンが駆け寄る。蛇口からは、乾いた空気の音が虚しく漏れ出すだけだった。
ルトガーが弾かれたように窓際に走り、外の気配を探る。
集落全体が、これまでになかった種類のざわめきに包まれていた。
人々の穏やかだった拍動は一変し、生存の根源を断たれたことへの、本能的な恐怖と動揺が混じり始めている。
「……始まったか。カウスの奴、まずは喉を焼きに来たらしい」
ルトガーの声には、怒りよりも先に、冷徹なまでの諦観が混じっていた。
「水源の遮断か。珍しい話ではないが……今回は少し様子が違う。いつもなら予告の通信があるはずだが、今はただ、死神の足音だけが近づいてくる」
蛇口から漏れ出す乾いた空気の音が、アイリスの耳には死の宣告のように響いていた。
この森における「水」がどれほどの価値を持つか、そしてそれが壁の向こう側の慈悲によって辛うじて与えられていたものであることを、彼女は知っている。
アイリスは、自分の左肩に走る疼きを感じた。
「……私のせいだ」
ぽつりと、アイリスが呟いた。
その声は震え、膝に置いた拳は白くなるほどに握りしめられていた。
カナンリス、エヴァリア……。自分が歩く先々で、理は乱れ、平穏は崩れ去る。
それは彼女が背負う「始祖の剣」の宿命なのか、あるいは彼女という存在そのものが、世界にとっての毒なのか。
「あの方たちが探しているのは、私です。私がここへ来たから、あの方たちは……。私一人のせいで、この森の皆さんにまで迷惑をかけるわけにはいきません」
アイリスは鉄の杖を握り直し、ふらつく足取りで戸口へと向かった。
目が見えぬまま、ただ「自分が消えれば済むはずだ」という一心で、外へ出ようとする。
「待って、アイリス!」
エリンがその細い腕を掴み、力一杯引き止めた。
「放してください、エリンさん! 私がいなくなれば、水も戻るはずです。皆さんの命が……」
「戻らないよ! そんなの、アイリスが一番よくわかってるはずでしょ!」
エリンの叫びが、狭い室内で鋭く反響した。アイリスの動きが止まる。
「あいつらは、きっかけを探してただけ。アイリスが来ようが来まいが、あの壁がある限り、私たちはいつか喉を焼かれて、砂になって消える運命だったの。……未来なんて、最初から一滴もなかったんだよ」
「でも……!」
「これはタイミングの問題なの。アイリスは『終わり』を連れてきたんじゃない。私たちがずっと目を逸らしてた『現実』を連れてきただけだよ」
セレスもまた、静かに、けれど揺るぎない足取りでアイリスの傍らに立った。
「ええ。私たちは、あの壁に従属して長らえることを選ばなかった。それは、いつかこういう日が来ることを覚悟したということ。あなたのせいではないわ、アイリス」
その時だった。 乾燥した風に乗って、遠くから「音」が届いた。
――悲鳴だった。
それは先ほどまで三人が身を寄せ、素朴なスープを啜っていた、あの「語り部の広場」の方角から聞こえてきた。
これまでこの森に流れていたのは、老いた命が静かに土へ還るための沈黙だけだった。
そこには怒号も、恐怖に歪んだ叫びも、乱暴な金属の衝突音も存在しなかった。
「……まさか」
ルトガーが呻くように呟くと、誰よりも早く、弾かれたように外へ飛び出した。
アイリスの「内なる眼」が捉える。
整然と、機械的に刻まれる数千の足音。




