第48話:『愛しき廃墟』
セレスの家を出たアイリスは、拠点の外にある平らな岩に身を預けていた。 エヴァリアの夜が、湿った霧に守られた「温室」だとするなら、この森の夜は遮るもののない「剥き出しの深淵」だった。
視覚を持たぬアイリスにとって、空の広がりは空気の重さと透明度で測るものだ。今、彼女の頭上に広がっているのは、どこまでも突き抜けるような、乾燥しきった冷ややかな虚空。
(……痛い)
包帯の下、左肩の傷が熱を持って疼いている。この不自由な痛みこそが、自分が今、正しくこの世界に「生身」で存在しているという何よりの証明に思え、アイリスは独り静かに、その熱を噛み締めた。
翌朝、砂を含んだ風が石壁を叩く音でアイリスは目を覚ました。
「アイリス、傷はどう? 」
エリンが上体を起こしたアイリスの横で足をぷらぷらさせて、暖かなお茶の香りを漂わせて尋ねた。
「はい、昨日に比べればまだ」
「そう、強いんだね」
「だけど無理はダメよ。せっかく綺麗な顔立ちなんだから、傷だらけの身体は勿体無いでしょう」
セレスが近づく気配と共に、アイリスの手をそっと取る。指先に触れる直前、立ち上る湯気の柔らかな熱が、器の正確な位置を彼女に教えた。
セレスはアイリスの指を導き、陶器の滑らかな取手を握らせる。質素で癖のない香りが、朝の冷えた鼻腔を優しく撫でた。
「お口に合うと良いけど」
「ありがとうございます」
そっと確かめるように口に運ぶ。カナンリスの豊潤な甘さとは違う、どこか故郷の霧の奥で飲んだ薬草茶を思い出させる、懐かしくも潔い喉越しだった。
「美味しいです。とても…」
「そう、なら良かった」
「そうだ。もし動けるなら、私たちの『庭』を案内してあげる」 エリンの弾むような声が響く。
傍らには、無言のまま銃のボルトを引く硬質な金属音をさせるルトガーが立っていた。腰に提げた剣が歩くたびにカチャリと鳴り、彼がこの静寂を乱す外敵に常に備えていることを示している。
「エリン、まだ無理してはダメだと今私が言ったのが聞こえなかったの?」
セレスの溜息混じりの忠告に、エリンが言葉を返すより早く、アイリスが答えた。
「お願いします。……この場所が、かつてどのような姿だったのか、知りたいのです」
セレスの忠告にエリンは返すことばを選ぶ間もなく。アイリスが答えてしまったから、彼女はやれやれと諦めたような表情でお茶を啜った。
集落の緩やかな傾斜を下りきると、アイリスの足裏に伝わる土の感触が、幾重にも踏み固められた硬い道へと変わった。
「ここからが、昔のゼニトの入り口。……あ、ルトガー。そこ、根っこが出てるから気をつけてあげて」
エリンの声に導かれ、アイリスが杖を慎重に突き出すと、左右に巨大な、門柱のような垂直の気配を感じた。それはかつて、旅人を迎え入れた豪奢な石門だったのだろう。だが今、アイリスの掌が触れたのは、石の冷たさではなく、硬く乾ききった、巨大な樹木の表皮だった。
「これは……木、ですか?」 「そう。昔はね、石の門に絡みつくように綺麗な蔦や花が咲いてたんだって。でもこの辺りの水が少なくなって、管理する人がいなくなって……いつの間にか、木そのものが門の形に育っちゃったの。私たちは『枯れ木の大門』って呼んでるんだ」
アイリスは、その巨大な「門」の表面を指先でなぞった。風化してボロボロと剥がれ落ちる樹皮。それは死を待つ老人の肌のように、深い皺と歴史を刻んでいる。
エヴァリアの森の木々は、どれほど時が経っても瑞々しさを保ち、若々しい緑の音を響かせていた。だが、この門は違う。自らの寿命を悟り、ゆっくりと、しかし確実に砂へと還ろうとする「終わりの意思」を宿している。
「……とても、静かな門ですね。拒絶するのではなく、ただそこに立って、誰かが通り過ぎるのを待っているような」 「あはは、アイリスは感性が豊かだね。さあ、この門をくぐれば、かつての目抜き通りだよ」
門を抜けると、空気の反響が急に広がりを見せた。
かつては大通りを馬車が行き交い、人々の喧騒が石壁に跳ね返っていたであろう場所。エリンの弾むような足音が、乾いた広場に小気味よく響く。 「ここはね、昔は『語り部の広場』って呼ばれてたんだよ。ゼニトの真ん中にあって、みんなが噂話をしたり、吟遊詩人の音楽を聴いたりしてた場所。今は……風の通り道になっちゃったけど」
アイリスの杖が、円形の低い縁を捉えた。
かつては街の誇りであったろう大噴水。
アイリスが耳を澄ませると、空洞になった石の導水管を通って、風が「ヒュウ、ヒュウ」と、まるで誰かが口笛を吹いているような、掠れた音色を奏でていた。
「……風が、歌を歌っているようですね」
「そう。水が枯れた代わりに、風がかつての歌を覚えているの。私たちは、この音を聴きながら、昔の人がどんな風に笑ってたのかを想像したりするんだ」
アイリスは、噴水の縁に腰を下ろした。指先が捉えるのは、精緻な魚や女神の彫刻。摩耗し、細部が欠けながらも、そこにはかつてこの街を愛した彫刻家たちの情熱が、かすかな振動となって残っている。
エヴァリアでは、すべての彫刻は永遠にその鋭いエッジを保ち続けていた。
だが、この広場の石たちは、風に削られ、砂に磨かれることで、角を丸め、より柔らかな、慈しみ深い形へと変化している。
「ルトガー、向こうの時計塔はどうなってる?」
「……止まったままだ。針が一つ、自重で脱落している」
ルトガーの報告に、アイリスは静かに息を吐いた。
時間が止まっているのではない。時間が経過したからこそ、形を変え、役割を終えていく。その「変化」の積み重ねが、この広場をただの廃墟ではなく、時間の重みを湛えた聖域へと昇華させていた。
「さあ、次はもっと『不自然』なものを見に行こうか。……アドラーが作った、あの忌々しい壁を」
エリンの声から、先ほどまでの明るさがふっと消えた。
一行は、砂の歌を歌う広場を後にし、街を無慈悲に分断する巨大な境界線――『市門の廃墟』へと向かって、再び歩き始めた。「語り部の広場」を後にし、さらに北へと足を進める。
杖が石畳を叩く音は、周囲の建物の壁に反射し、かつてこの通りがどれほど高く、立派な石造りの家々に囲まれていたかをアイリスの脳裏に描き出していた。
しかし、ある地点を境に、風の流れが劇的に変わった。
それまで四方へ自由に抜けていた空気の揺らぎが、突如として巨大な「絶壁」に突き当たり、逃げ場を失った風が渦を巻いて唸りを上げている。
「……あそこだよ。アイリス、立ち止まって」
エリンの声に、いつになく鋭い緊張が混じる。アイリスが足を止め、杖を前方に伸ばすと、その先端が冷たく、無機質な「鋼の感触」を捉えた。
それはかつてのゼニトの玄関口であったはずの『市門』だった。だが、今のそれは門としての役割をとうの昔に放棄している。かつての華やかな彫刻が施された石門の隙間を埋めるように、厚さ数メートルにも及ぶ巨大な防壁が、後から強引に継ぎ足されていた。
「ここが、ゼニトを二つに分けた境界線。アドラー家が築いた『聖域の門』だよ」
アイリスは、壁の表面にそっと掌を這わせた。伝わってくるのは、心凍るような拒絶の冷たさだ。エヴァリアの霧が「包み込む停滞」であるならば、この壁は「排除する停滞」だった。
耳を壁に寄せると、その巨大な質量を抜けて、向こう側から微かな振動が伝わってくる。それは、大地が発する自然な鼓動ではない。規則正しく、一分の狂いもなく繰り返される、巨大な歯車の回転音と、蒸気が高圧で排出される排気音。
そして、何千、何万という人々の「管理された拍動」の群れ。
「あっち側からは、常に一定の音が聞こえてくるの」と、エリンが吐き捨てるように言った。「歩くリズムも、話すトーンも、全部が時計の針みたいに正確。アドラーの管理下にある人々は、死を怖がるあまり、自分の命の揺らぎさえも捨てちゃったんだ」
アイリスは、掌を通じて伝わるその「完璧すぎる秩序」に、言いようのない寒気を覚えた。
壁のこちら側――沈黙の森側には、崩れた瓦礫があり、乾いた砂があり、不規則に吹く風がある。
一方で壁の向こう側は、摩耗することさえ許されない、永遠に新品であり続けようとする機械の檻だ。かつて一つの繁華街だった場所が、この物理的な暴力によって真っ二つに裂かれている。
かつて隣人であった者たちが、今は「壁」を隔てて、一方は死を慈しみ、一方は死を呪いながら生きているのだ。
「私たちが生きるための”水”は壁の向こうからかろうじて引いているの。バレちゃったらもうお茶すら飲めないわね」
壁から離れ、街の廃墟をさらに深くへと潜っていく。
そこには、意外なほどに「生活の音」が息づいていた。 崩れ落ちたアーチ型の天井をタープで補い、石材を積んで竈を作った、簡素な住居の数々。
アイリスの「内なる眼」には、それらがまるで、古びた大樹の根本に寄り添う苔のように、穏やかで調和のとれた景色として映っていた。
「カサ、カサ……」
アイリスの足音に混じって、別の、もっと軽やかな音が近づいてきた。それは、古びた箒で石畳を掃く、規則的な、しかしどこか温かみのあるリズム。
「おや、エリン。珍しい客人を連れているね」
しわがれた、しかし凪いだ湖面のような声だった。アイリスが立ち止まると、目の前に一人の老人の気配を感じた。
彼の拍動は、カナンリスで聴いたどの鼓動よりもゆっくりとしていて、今にも止まってしまいそうなほどにか細い。だが、そこには一切の焦りも、エヴァリアの人々が抱えていたような「生の重圧」による歪みもなかった。
「この人はアイリス。壁の向こうから、もっとずっと遠くから来た旅人だよ」 「ほう。あの冷たい壁を越えて、わざわざこの『終わりの地』へか」
老人は、アイリスの銀髪と、その手に握られた「鉄の杖」……始祖の剣の存在を察したようだったが、驚きも拒絶も見せなかった。
ただ、深く、慈しむような溜息をついただけだった。
「いいかね、旅人さん。この街の人々は、みんな一度はアドラーの壁を目指した者たちだ。大切な人を失いたくない、自分も消えたくない……。そう願って、あの中に入ろうとした。だがね、気づいてしまったのさ。影のない光が、どれほど目を焼くかを。終わりのない生が、どれほど魂を削り取るかをね」
老人が再び箒を動かす。石畳に残ったわずかな塵が、風に舞って消えていく音がした。
「ここでは、物は壊れ、食べ物は腐り、人は老いる。当たり前のことだ。だが、その当たり前が、どれほど贅沢な救いだったか……。私たちはここで、朽ちゆくこのゼニトの骨組みと共に、静かに幕を閉じるのを待っている。誰に強制されるでもない、自分たちだけの時間を生きてな」
アイリスは、その言葉の背後にある、沈黙の森の住人たちの「静かなプライド」を感じ取っていた。崩れた軒先でスープを煮込む香り。
古びた鐘を、夕刻を告げるために一度だけ鳴らす音。彼らの営みは、明日をも知れぬ危うさの上に立っている。
しかし、だからこそ、今この瞬間の一呼吸、一杯のスープの温もりが、永遠に続くエヴァリアの宴よりも、はるかに濃密な「生」を宿しているのだ。
「アイリス、見て」とエリンが、アイリスの手をそっと引いた。
「あそこの崩れた壁の隙間に、花が咲いてる。誰も水をあげてないのに、去年の種が、土の中でちゃんと春を待って、今こうして枯れようとしてる。綺麗だよ」
アイリスは屈み込み、その花の気配を探った。
指先が触れたのは、カサカサと乾いた、しかし確かな生命の形を留めた花弁。
それは間もなく種を落とし、自身は土へと還るだろう。自分を誰かに分け与えるためでも、誰かの役に立つためでもない。
ただ、一生懸命に咲き、一生懸命に終わる。その「自分勝手」で、しかし気高いあり方が、アイリスの凍りついていた心に、温かな、しかし鋭い一筋の痛みを走らせた。
「……はい。とても、美しい音がします」




