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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
不変の秋と意志の断絶
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第47話:『落葉の旋律』

 光の洪水が去った後、アイリスの感覚を支配したのは、これまでにない「軽やかさ」と「乾き」だった。


「急げ、まだ追手が来るぞ」


 耳元で囁かれた声は、風のように涼やかだった。

 アイリスの手を強く、しかし壊れ物を扱うような慎重さで引いているのは、鋼のように硬く、分厚い掌を持つ人物だ。

 盲目の彼女にとって、その無言のリードは驚くほどに迷いがなく、険しい岩場や倒木を鮮やかに避けて進んでいく。


 どれほどの時間を走っただろうか。

 背後で響いていたゼニトの壁の重低音や、銃声の余韻が遠ざかり、代わりに「カサ、カサ」という無数の乾いた乾奏が耳を包み込み始めた。


「……もう、大丈夫。ここまで来れば、彼らは追ってこない」


 手を引いていた人物が立ち止まる。

 アイリスが肩で息を整えていると、コト、と足元に硬い感触が置かれた。


「これ、忘れ物」


 声の主は、先ほど手を引いていた強靭な男――ルトガーではなく、少し幼さを残した少女のものだった。

 アイリスが手探りで触れると、そこにはベアトリーチェとの激闘で弾き飛ばされたはずの「鉄杖」があった。


「ありがとうございます。……助かりました」


 アイリスが杖を拾い上げ、深々と頭を下げると、少女はくすくすと笑った。

 その拍動は、カナンリスの人々のような激しい生命の奔流ではなく、陽だまりに微睡む猫のような、穏やかで静かな波形をしている。


「私はエリン。こっちの口下手なのがルトガー。あんたがあの壁の前で、死神みたいな剣を抜くから……見ていられなくて、つい手を出したの」


 少女――エリンがフードを脱ぐ衣擦れの音がした。

 アイリスは、自分が今、かつてないほどに「死」が濃密な場所にいることを確信していた。

 エヴァリアの死は、腐敗と苦悶に満ちた「不自然な終止符」だ。

 だが、この場所を満たしているのは、それとは正反対の気配だった。


 足裏を伝うのは、幾重にも降り積もった落葉の層。

 踏みしめるたびに、それは脆く砕け、大地の柔らかな布団となって沈み込む。

 空気は驚くほど乾燥し、肌をなでる風には、生命が役目を終えて土へと還る際の、香ばしくも冷ややかな「眠りの匂い」が混じっている。


「……ここは、どこなのですか?」

「沈黙の森。外の人たちが『地獄』と呼んで、壁を作って閉じ込めた場所」


 エリンはアイリスの横を歩きながら、カサリ、と落ち葉を蹴った。


「でもね、私たちはここが好きなの。ここではみんな、眠る準備をしているだけ。木も、草も、空も……一生懸命生きて、疲れて、ただ『おやすみ』を言おうとしている。それだけなんだよ」


 死を、肯定する言葉。

 それはアイリスが故郷で禁じられ、外の世界で探し続けてきた「答え」の一つに、酷く近しい響きを持っていた。


 エリンは歩きながら、アイリスに名を尋ねた。

 そして、なぜ盲目の身でありながら、あの絶壁を越えようとしたのかを。


「アイリス、と言います。エヴァリアという国から来ました。……なぜ、ここに来たのか。私にも、まだはっきりとした言葉にはできないのです。ただ、この剣に、風に導かれるようにして、この東の果てへ辿り着きました」


 アイリスの答えは、あまりに頼りなく、曖昧なものだった。

 しかし、エリンも、横で黙々と歩くルトガーも、それを笑うことはなかった。

 彼らはただ、静かな雨を聴くようにアイリスの言葉を受け入れ、沈黙の森の奥へと彼女をいざなっていった。


 やがて、集落というにはあまりに小規模な、数軒の古びた家屋が見えてきた。

 そこには、もう一人の気配があった。

 アイリスの「内なる眼」に映ったのは、静謐な湖のような気配を纏った、可憐な若い女性の姿。


「おかえり、エリン、ルトガー。……珍しいお客様ね」

「セレス姉、大変だったんだよ! この人、あのアドラーの処刑人とやり合ってたんだ」


 エリンはそう言って、アイリスの左肩を指差した。


「セレス姉、この人の怪我を診てあげて。壁の連中に、弾丸で撃たれたみたいなの」


 セレスと呼ばれた女性は、静かにアイリスの側へ歩み寄った。

 その拍動を聴いた瞬間、アイリスは不思議な安堵感に包まれた。

 それは、かつてエンド・ロアでベネディクトが湛えていた、慈愛に満ちた「終わりの受容」に近い響きだった。


 集落の簡素な造りの家の中は、外の乾燥した空気とは対照的に、擂り潰された薬草の苦い香りが満ちていた。

 アイリスはルトガーに促され、使い込まれた古い木椅子に腰を下ろす。

 左肩の傷口に触れるセレスの指先は、驚くほど冷たく、けれど羽毛のように優しかった。


「……ひどい傷ね。弾丸の熱で肉が焼けているわ」


 セレスが湿らせた布で傷口を拭うと、アイリスは思わず奥歯を噛み締めた。

 エヴァリアを離れ、女神の加護が届かぬ地を歩み始めてから久しい。

 かつてなら数分で塞がっていたはずの傷は、今や執拗な熱を持って脈打ち、彼女が「ただの人間」として時間を刻んでいることを残酷なまでに証明していた。

 痛みは記号ではなく、生身の肉体を削る実感を伴って神経を焼き続けている。


「……治りが遅いのは、慣れました。この痛みこそが、今の私の重さですから」

「ええ、それでいいのよ」


 セレスは手慣れた手つきで、青白い光を帯びた苔のような薬草を傷口に当てていく。


「あなたの身体は、もう無理に時間を止めようとしていない。それは、とても疲れることだったでしょう? 傷跡が残り、痛みが続く。それはあなたの命が、正しく『休息』を求めている証拠なのよ」


「エヴァリアをご存知なのですか?」


「えぇ、といっても実際には行ったことないし書物の知識だけど」


 セレスが元聖職者のような静謐な敬意を持って接するのは、アイリスを「呪われた不死の国」からの脱走者ではなく、世界の調和を取り戻そうとする巡礼者として見ているからに他ならなかった。


 処置が一段落すると、アイリスはふと思い出したように問いかけた。


「……ここも、あの国と同じなのですか?」

「あの国?」

「カナンリスです。あそこで私は、命を次の世代へ、愛する者へと繋ぐ『収穫』の儀式を見ました。この森も、そうして誰かのために終わるための場所なのですか?」


 治療を終え、手を洗っていたエリンが、その言葉に少し寂しげな、けれど誇らしげな首振りの気配を見せた。


「カナンリスの人たちは『次』のために死ぬんでしょ? 種を残すために自分を捧げる果実みたいに。……でもね、アイリス。この森は、もっとずっと自分勝手な場所なんだよ」


 エリンは窓際に立ち、カサリと乾いた音を立てて落ち葉を踏みしめた。


「ここでは、ただ疲れたから眠るだけ。誰かの栄養になるためでも、立派な記憶を残すためでもない。自分を誰にも分け与えず、ただ一粒の砂、一枚の葉になって、静かに世界に溶けていく。……ここは世界で一番、誰にも邪魔されずに『おやすみ』を言える場所なの」


 それは、カナンリスの「利他的な死」とも、エヴァリアの「永劫の停滞」とも違う、徹底した個の安息だった。


 誰のためでもない、自分だけの終わり。


 アイリスは、鞘の中で眠る始祖の剣が、かつてないほど穏やかな沈黙を保っているのを感じた。

 継承という重い義務さえも脱ぎ捨てた「純粋な無」への帰還。

 その考えは、絶え間なく意味を求められる旅を続けてきたアイリスの心に、深い雪が降り積もるような静かな安らぎをもたらした。


「自分だけの、終わりの場所……」


 アイリスがその言葉を噛み締めるように呟くと、セレスは優しく彼女の健やかな方の肩に手を置いた。


「そう。私たちはただ、その静かな眠りを守りたいだけなのよ」


 薬草の湿布が馴染むのを待つ間、アイリスはエリンが語る「願い」に耳を傾けていた。

 それは彼女が想像していたような、世界を覆すような壮大な宣言ではなかった。


「私はね、この壁を壊したいの。ただ、それだけ」


 エリンは窓枠に腰掛け、遠くそびえる灰色の絶壁を見つめた。


「あの壁があるせいで、ここは『隔離された病室』になっちゃった。本当はね、ここは誰でも訪れていい場所だったはずなの。人生に疲れ果てて、もう十分だと思った人が、誰にも邪魔されずに眠りに来るための場所。ここでゆっくり休んでまた頑張りたい! って思える人だって……でも今は、きっかけを求める人は壁に拒まれて辿り着けず、まだ生きたいと思っている森の生き物たちは、壁の内側に閉じ込められて朽ちていく。それは、とっても不自然なことだよ」


 アイリスは、エリンの言葉に潜む「不条理」を感じ取っていた。

 沈黙の森が享受している平穏は、外部からの断絶という暴力的な沈黙によって維持されている。

 それは、霧によって世界から隠されたエヴァリアの構造と、悲しいほどに似通っていた。


「……ゼニトの人々は、なぜそこまでここを忌むのですか?」


 アイリスの問いに、セレスが静かに、重い口を開いた。


「指揮官カウスの家系、アドラー家。彼らにとって『価値』とは、永遠に変わらないことを指すのよ。黄金が錆びず、石が砕けないように、人間の命もまた固定された美しさであるべきだと彼らは信じている。彼らにとって、形が崩れ、土に還る『死』は、純粋な美を損なう不浄な病……根絶すべき異端なの」


 セレスの声は、どこか遠い場所を悼むように響いた。


「カウスに従う防衛軍の兵たちも、かつては壁の外の住人だった者たちよ。彼らは皆、大切な人を『喪う』という恐怖に耐えられなかった人々。死という終わりの理を、愛する人を奪う理不尽な略奪者だと定義し、カウスの掲げる『死のない秩序』に救いを見出したの。彼らは自分の意志で、あの鋼の鎧を纏い、銃口をこちらへ向けているわ。変化を恐れる心そのものが、あの巨大な壁を支える煉瓦になっているのよ」


 アイリスは、自分の指先に触れる「始祖の剣」の冷たさを確かめた。

 カウスと彼の軍勢。彼らが守ろうとしているのは、愛するものを失いたくないという、あまりに切実で、それゆえに狂った「生の執着」だ。


 エヴァリアでは女神の加護がそれを強制的に叶えていたが、この地では、人間が自らの手で巨大な壁を築き、機械と魔力によって「不変」を演じようとしている。


「彼らにとって、私は……」


「ええ。エヴァリアという『不変の極致』からやってきて、その腕に『すべてを終わらせる刃』を抱いている。あなたは彼らが最も恐れ、最も憎む矛盾そのものなのよ、アイリス。もしかしたら彼らはもうあなたの正体に気づいてしまっているかもだけど」

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