第46話:『不浄な侵入者』
東へ進むほどに、世界から色彩と湿り気が剥ぎ取られていく。
アイリスの足裏を叩く土は、もはや生命を育む柔土ではなく、砕けた岩石と乾燥した砂の混じり合う、死の沈黙を湛えた硬質な感触へと変わっていた。
やがて、彼女の鋭敏な聴覚が、巨大な「断絶」を捉えた。
風が何かにぶつかり、渦を巻いて跳ね返る音。
それは空へ向かってどこまでも伸びる、冷徹な石の絶壁――『ゼニトの壁』が発する威圧的な残響だった。
「……止まれ、巡礼者。これ以上の一歩は、聖域への侵犯と見なす」
頭上、遥か高所の防壁から、複数の金属音が響いた。
それは弓を引く音でも、剣を抜く音でもない。
もっと精緻で、爆発的な破壊を予感させる魔力と機械的な噛み合わせの音。
カウス率いる『聖域防衛軍』の銃口が、一斉に彼女を捉えたのだ。
アイリスは足を止めなかった。
彼女を呼ぶ「秋」の音色は、この壁の向こう側から確かに響いている。
「私は、ただ道を行くだけです。この先に、私が聴くべき音があるから」
「……ならば、お前は我らが維持する秩序の敵だ。この壁の向こうにあるのは、死という名の不治の病。それを解き放とうとする者に、慈悲は不要だ」
姿は見えない。だが、冷酷なまでに理性的で、生存への執着に狂った男の「声」だけが、防壁の反響に乗って降り注ぐ。
指揮官カウスの言葉が終わるか終わらないかのうちに、空気が爆ぜた。
(――速い……っ!)
シュン、という不可視の死神が鎌を振るうような風切り音。
アイリスは、エヴァリアでの修練で石礫を弾く訓練を幾度となく積んできた。
だが、ほんの魔力と火薬によって加速された鉛の弾丸は、彼女がこれまで経験したどの「速さ」をも凌駕していた。本能的に身体を捻るが、左肩に灼熱が走る。
外套が裂け、肉が焼かれる匂いが鼻腔を突いた。
女神の加護があるはずの彼女の身体でも、この「外の世界」の悪意を伴った一撃は、明確な損傷として刻まれる。
「……まだ立っているとは。運がいいのか、あるいは死を恐れぬ狂人か」
壁の巨大な扉が、重々しい地鳴りとともに僅かに開いた。
そこから歩み出てきたのは、一人の女性戦士だった。
彼女の纏う鎧が擦れ合う音は、規律正しく、かつ恐ろしいほどに重厚だ。
「聖域防衛軍、第一処刑部隊隊長。――ベアトリーチェ・フォン・シュヴァルツヴァルト」
長く、格式ばった名を告げると、彼女はアイリスの銀髪と包帯に覆われた瞳を値踏みするように見つめた。
「盲目か。だが、その足運び……ただの迷い人ではないな」
ベアトリーチェは腰の銃をホルスターへ戻すと、背中に背負った巨大な、十字架にも似た無骨な槍を抜き放った。
アイリスが盲目であることを気遣う様子など微塵もない。
むしろ、その欠陥を凌駕する実力があると確信している者の、無慈悲な敬意があった。
刹那、石畳を砕く轟音とともに、ベアトリーチェが肉薄した。
ベアトリーチェの放つ槍先が、アイリスの耳元で空気を引き裂く。
「……っ!」
アイリスは手に持った鉄杖を斜めに掲げ、辛うじてその一撃を逸らした。
金属が激しく擦れ合う高い音が、神経を逆撫でする。
鉄杖はあくまでも道中の足元を確かめ、あるいは不慮の襲撃を凌ぐための道具だ。
しかし、目の前の女戦士が振るう槍の重圧は、それら全ての「凌ぎ」を無意味なものへと変えようとしていた。
ギィィィン!
鼓膜を突き破らんばかりの金属衝突音が、荒野に響き渡る。
槍の一撃は、アイリスの予想を遥かに上回る膂力を秘めていた。
防ぐたびに掌の骨が軋み、足元の土が沈み込む。
ベアトリーチェの動きは、まるで巨大な歯車が噛み合うように正確だ。
彼女はアイリスが盲目であることを一切のハンデと見なしていない。
むしろ、アイリスの回避行動の僅かな遅れ――先ほど撃ち抜かれた肩の痛みによる強張りを、冷徹なまでに突いてくる。
「どうした。先ほどまでの不遜な足取りはどうした!」
激しい咆哮と共に、槍が旋回する。
石突きによる払いがアイリスの膝を打ち、彼女の身体が大きくよろめいた。
アイリスは杖を支えにして踏みとどまろうとするが、追撃の突きが容赦なく襲いかかる。
(……この人は、自分よりも強い)
アイリスの脳裏に、冷徹な事実が浮かんだ。
エヴァリアの稽古場で、カインやセヴェルスと打ち合っていた時とは、殺気の密度が違う。
これは、数多の「終わらぬ命」を壁の外へと排除し続けてきた、鋼のような義務感が生み出した、純粋な武の極致だ。
ガキィィン!
杖が槍の腹を打つが、ベアトリーチェはびくともしない。
逆にその反動を利用し、槍を回転させてアイリスの鉄杖を弾き飛ばした。
ガラガラと虚しい音を立てて、アイリスの唯一の武器が遠くの石畳へ転がっていく。
「引き返すことだ、銀髪の巡礼者。この壁の向こうは侵されてはならないのだ」
ベアトリーチェの拍動に、わずかな勝利の確信が混ざる。
槍の穂先が喉元を貫こうとしたその刹那、アイリスは一か八かの賭けに出た。
背中の銀の柄を強く握りしめ、流れるような動作でそれを引き抜く。
――抜刀。
その瞬間、荒野を支配していたあらゆる音が消失した。
風の嗚咽も、遠くで響くカウスの声も、土が弾ける音さえも。
まるで世界がその刃を前にして、呼吸することさえ忘れてしまったかのような、不気味な真空の静寂。
ベアトリーチェは、突き出した槍を止めることなく、その瞳に驚愕を浮かべた。
視覚を持たぬアイリスには見えないが、始祖の剣が放つ冷徹な「断絶」の気配は、ベアトリーチェの本能を激しく揺さぶっていた。
「……なんだ、その剣は。不吉な、命を拒絶するような澱みを感じる」
ベアトリーチェは一瞬の戸惑いを見せたが、即座にその拍動を鋼のように硬化させた。彼女の中で、一つの確信が生まれる。
この少女を、この剣を、決して『聖域』に入れてはならない。
これは秩序を乱す毒であり、自分たちが守り続けてきた安寧を根底から腐らせる死の象徴だ、と。
「確信した。お前は……排除すべき不浄だ!」
再び火花が散る。今度は杖ではなく、白銀の刃と鋼の槍が正面から激突した。
始祖の剣を抜いたアイリスの動きは劇的に変化した。
刃が空を断つたびに、世界の「重み」が削ぎ落とされ、彼女の身体は羽根のように軽く舞う。
だが、ベアトリーチェは並の戦士ではなかった。
彼女は剣が放つ異質な力を力ずくでねじ伏せるように、重厚な槍の連撃を繰り出す。
打ち合うたびに、アイリスの腕に痺れが走る。
傷ついた肩から流れる血が、銀の柄を湿らせていく。
アイリスは攻勢に出ようとするが、ベアトリーチェの槍術はさらにその密度を増し、防戦一方へと追い込まれていった。
「追い払おうと思ったが、考えを変えた。その剣、その正体……捕らえて調べねばならんな」
ベアトリーチェの声に、獲物を追い詰める捕食者の冷徹さが宿った。
絶体絶命。アイリスがそう悟り、奥歯を噛み締めたその時だった。
――カラン、と。
二人の足元、ちょうど中間の位置に、小さな球体が転がってきた。
それは不自然な魔力の波動を帯び、チリチリとした高周波の音を立てていた。
「なっ……!?」
ベアトリーチェがそれに気づいた瞬間、世界は一変した。
爆発的な輝きを伴う閃光が、ゼニトの空を真っ白に染め上げる。
アイリスの閉ざされた瞳に光は届かない。
だが、直後、あまりに巨大な「光の熱量」が空気を膨張させ、ベアトリーチェの存在感――その鋭い気配が、一瞬にしてホワイトアウトするように消失したのを感じ取った。
混乱する戦場の中で、アイリスの肩を誰かが強く掴んだ。
「――こっちだ」
耳元で、少年のようにも、少女のようにも、いやそのどちらかすら分からない澄んだ声が囁く。
抗う間もなく、アイリスはその手によって強引に引きずられるようにして、戦場から連れ出された。
驚くべき力だった。混乱し、目を押さえる聖域防衛軍の包囲を縫うように、その人物はアイリスを連れて「壁」の影へと消えていく。
数分後。 強烈な閃光が収まり、荒野に再び視界が戻った時、そこには無傷で立ち尽くすベアトリーチェの姿しかなかった。
「逃げたか……」
ベアトリーチェは槍を納め、アイリスが消えた方向をじっと見つめた。
そこにはもう、銀髪の少女の気配も、不可解な介入者の足音も残っていない。
彼女は舌打ちすることもなく、ただ淡々と、完遂できなかった任務を報告すべく、ゆっくりと壁の奥へと戻っていった。
その背中には、職務としての冷徹さと、アイリスの剣が残した「死」の予感への拭いきれない疑念が、静かに刻まれていた。




