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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
不変の秋と意志の断絶
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第45話:『迷いを誘う霧の向こう』

 エヴァリアの夜を包む霧は、日を追うごとにその重さを増しているようだった。

 音の反響は湿った大気に吸い込まれ、人々の気配さえも澱んだ静寂の中に埋もれていく。


 カインは、アイリスのいなくなった稽古場で、一人立ち尽くしていた。

 彼は迷っていた。アイリスのように「終わりの意味」を求めて国を飛び出すほどの、切実な動機が自分にあるのか。

 彼女を追いかけたいという衝動の裏側で、自分はただ、この国を覆う閉塞感から逃げ出したいだけではないのか。

 

 だが、あの日、始祖の剣が見せた「死」の情景は、今も深い霧の向こうから、夢を通じて彼を誘う。


(……国の上層部は、いつまで空論を繰り返すつもりだ)


 議会では「反逆者アイリスの拘束」を叫ぶ声が絶えない。

 秩序を乱した彼女を連れ戻し、始祖の剣を回収せよ、と。


 だが、実際に兵を動かす気配は一向に見えなかった。

 もし追跡の命令が下るなら、名目上は「連れ戻すための同行」として、自分も外の世界へ行けるかもしれない。

 そこで、彼女が見ている景色を、自分もこの耳で聴くことができるかもしれない。カインはそんな淡い期待を、誰にも言えずに抱えていた。


「無駄な思索は、剣を鈍らせるぞ。カイン」


 背後から響いたのは、硬く、冷徹な足音。執行官セヴェルスだった。


 かつてアイリスを追い、エンド・ロアで「本物の死」を目の当たりにした男は、任務に復帰して以来、一層その気配を鋭くさせていた。

 だが、カインの鋭敏な耳は、彼の整った呼吸の底に、かつてはなかった「ノイズ」を聴き取っていた。

 それは、どれほど規律で押し殺しても消えることのない、根源的な恐怖の残響だ。


「セヴェルス殿。アイリスの追跡命令については、その後どうなったのですか? 私も、一族の者として同行を――」


「必要ない」


 セヴェルスは、カインの言葉を遮るように短く答えた。


「追跡は無期限の保留となった。……彼女の旅を邪魔する権利は、今の我々にはない」


 その言葉には、執行官としての義務ではなく、一人の武人としての、あるいは彼女の覚悟に触れた者としての配慮が滲んでいた。

 セヴェルスはカインの隣を通り過ぎざるを得ない瞬間、わずかに足を止め、彼の迷いを見抜くように告げた。


「中途半端な覚悟で外の空気を吸えば、お前のような男はすぐに壊れる。……我々の使命は、あくまでエヴァリアの平和と秩序を守ることだ。それ以上に重要なことなどない」


 セヴェルスが去った後、カインは拳を強く握りしめた。

 守るべき「平和」という名の停滞が、今の彼には、死臭よりも重く感じられた。


 その夜のことだった。

 カインは、父の気配を追って一族の禁足地へと足を踏み入れた。

 本来ならば一族の長である父も、この時刻には瞑想に耽っているはずだ。

 だが、地下深くへと続く石段からは、これまで一度も聴いたことのない「異様な音」が漏れ聞こえていた。


 ジュウ、と肉が焼けるような嫌な音。

 そして、父の、抑え込まれた呻き。

 カインは壁の影に身を潜め、暗闇の奥に耳を澄ませた。


 父は、自らの腕を特殊な術式を帯びた「鉄」で縛り上げ、あえて再生を阻害させていた。

 月光の加護によって瞬時に塞がるはずの傷が、無理やりな抵抗によって赤黒く盛り上がり、腐敗と再生を同時に繰り返している。

 父は、人為的に自らの肉体の「終わらせ方」を試行しているのか。

 あるいは、その激痛に耐えることで、この国の理という名の牢獄から、一瞬でも逃れようとしているのか。


(父様、あなたまで……)


 カインの拍動が激しく波打つ。

 エヴァリアを支える柱そのものであるはずの父さえも、内側からこの「永遠」に絶望し、蝕まれている。

 その事実は、アイリスが持ち去った剣の重みよりもずっと深く、カインの心を震わせた。


 カインが父の異変に戦慄したその夜、エヴァリアを覆う閉塞感は、ついに肉体的な「実害」となって街のあちこちで噴出し始めていた。


 霧の中に、これまで聴いたことのない不協和音が混ざる。

 それは苦痛に耐える呻き声というよりは、自分自身の身体の制御を失った者の、根源的な混乱の叫びだった。


「……まただ。再生が、終わらない」


 広場の方から届く震える声に、カインは足を向けた。

 そこでは、一人の男が自らの腕を抱えてうずくまっていた。

 転倒して擦りむいただけのはずの傷口が、女神の加護によって塞がるどころか、狂ったように細胞を増殖させている。

 本来の形を無視して盛り上がる「歪な肉」。

 それはまるで、行き場を失った生命力が、出口を求めて内側から肉を食い破ろうとしているかのようだった。


 あるいは、その逆も起きていた。

 刃物でついた程度の傷が、いつまで経っても乾かず、再生の拍動を止めたまま、じわじわと周囲を壊死させていく。

 この「再生の異変」とも呼べる現象は、停滞しすぎたエヴァリアの時間が、ついに限界を迎え、内側から綻び始めていることを残酷に物語っていた。


「……いいえ。これは試練です。私たちが試されているのです」


 狂気を含んだ鋭い声が、不安に揺れる街の人々を射抜いた。

 アイリスの母だ。

 一族の正当性を誰よりも強く説く彼女は、騒然とする人々を前に、凛とした、しかしどこか現実を拒絶するような立ち振る舞いで立っていた。


「この異変は、女神が私たちに与えた聖なる試練に他なりません。あるいは……国を捨て、理を汚したあの娘が持ち込んだ『毒』が、霧を通じて私たちの純潔を蝕んでいるのでしょう。今こそ、一族は結束せねばなりません。揺らいではなりません、終わらぬ生こそが、私たちの誇りなのですから」


 彼女の演説は、一見すれば力強く、迷いがない。

 だが、カインの耳はその声の裏側にある「綻び」を逃さなかった。

 言葉の語尾が微かに上ずり、呼吸の合間に挟まる僅かな震え。

 それは他人を説得しているのではなく、自分自身が崩壊しないよう、懸命に嘘を塗り重ねて自分を騙している者の響きだった。


(……毒、か)


 母の言う毒が、アイリスが持ち去った『始祖の剣』や彼女の疑念を指すのであれば、それは確かにこの国にとっての毒かもしれない。

 だが、今この国で起きている肉体の崩壊は、むしろアイリスが警告していた「終われない地獄」の末期症状ではないのか。


「セヴェルス殿」


 カインは、群衆の影で静かに事態を見守っていたセヴェルスに再び声をかけた。


「あなたは外で、彼女が何をしたかを見たはずだ。彼女は……アイリスは、ただ壊していただけなのですか?」


 セヴェルスは、盛り上がる肉塊を抱えて泣き叫ぶ男を見つめたまま、しばらく沈黙した。


「それを聞いてどうする?」


「教えて欲しいのです。私はこの国で生まれ育ち、そしてこの国を出たことがない。どこまでいっても女神様の祝福の中にいる。だからこそ知りたいのです。祝福を捨て剣を持ち外に出た彼女が何を見たのか。何を……示したのか」


 セヴェルスは自らの獲物を抜くと、その肉界の男を捉える。

 そして再びカインへと視線を落とすとジッと彼を感じ見た。

 そして、かつてエンド・ロアの澱んだ空気の中で聴いた、あの一閃の音を思い起こすように答えた。


「……あそこでは、死は救済だった。彼女が刃を振るった後には、この国にあるような惨めな残骸は残らない。ただ、あるべき場所に命が還る……そんな、あまりに静かな終焉があった」


 救済としての死。

 その言葉が、カインの胸の奥に深く突き刺さった。

 もし、このエヴァリアに今必要なのが、母の説く「終わらぬ生への固執」ではなく、アイリスが求めた「真の終わり」なのだとしたら。

 カインの中で、これまで守り続けてきたエヴァリアの理が、音を立てて崩れ始めていた。


 夜が明け、エヴァリアはまた、いつもの白々とした霧の静寂に包まれていた。

 表面上は、何一つ変わらない平穏。

 だが、カインの胸中に渦巻く疑念は、もはや朝霧が晴れるように消えるものではなかった。

 昨夜、広場を阿鼻叫喚に陥れた「歪な肉」の男は、セヴェルスが執行官としての冷徹な処置を施したことで、形の上では「ことなき」を得ていた。

 しかし、男の肉体が再生の檻に閉じ込められたまま、絶望の拍動を刻んでいた音を、カインの耳は忘れられない。


 カインは、霧の奥深くへと足を向けた。

 辿り着いたのは、かつてこの国を去ろうとするアイリスの前に立ち塞がり、彼女の放った「死」の情景に触れて膝を突いた、あの国境の地だ。

 地面を叩く杖の音が、あの日の彼女の決然とした歩みを思い出させる。


「……父様。あなたは、この霧の行く末に何を見ておいでなのですか」


 霧の向こう側に立つ父の気配を感じ、カインは問いかけた。

 父は、まるで風景の一部になったかのように動かず、ただ深い沈黙を纏っている。


「カイン。我ら一族は、終わりを数えるための指として生まれた。だが、数えるべき『終わり』そのものが失われて久しい。今の我々は、ただ閉じられた円環をなぞるだけの影に過ぎん」


 父の声は、地底を流れる水のように重く、幻想的な響きを帯びていた。


「昨夜の肉塊は、綻びではない。この国が抱えきれなくなった『生』という名の重圧が、溢れ出したに過ぎん。アイリスが旅立ったのは、その重圧を断ち切る刃を探すためだ」


 父との対話を終え、カインは一人、国境の境界線へとさらに歩みを進めた。

 その時だった。 霧の向こうから、エヴァリアの住民とは明らかに異なる「異質な拍動」が近づいてくるのを、彼の鋭敏な感覚が捉えた。


 エヴァリアの民の足取りは、地面を確かめるように重く、静かだ。

 だが、その足音は軽やかで、迷いがない。

 さらに、その人物が纏っている空気の中に、この国には存在しない「強い光の残滓」のような熱を感じた。


「……止まれ。そこは、招かれざる者が踏み入るべき地ではない」


「あら、迷える旅人に向かって物騒なものいいね」


 カインが杖を構えると、霧の中から一人の女性が姿を現した。

 シビュラだ。

 彼女が身につけている装飾品――月光を吸い込み、微かな熱を放つ「ルナストーン」の気配を察知し、カインの眉が動く。


「ルナストーン……。なぜ、それを。貴様、『テラ・リュミエール』から来た商人か? それとも、北の交易路の者か?」


 カインが問うたのは、エヴァリアが極めて限定的に交易を行っている近隣の地名だった。しかし、彼女の拍動は、金銭を追う商人のそれとは決定的に違っていた。


「残念。そのどちらでもないわ。私はただの『共犯者』。銀髪の死神さんが、この退屈な箱庭にどんな落とし前をつけに来るのか、特等席で見届けに来ただけよ」


 シビュラは不敵な笑みを浮かべ、ルナストーンを指先で弄んだ。


「死神だと?」


 カインの拍動が、これまでにないほど激しく波打つ。 彼女は何を知っているのか。そして、恐らくアイリスのことを知っている様な様子――。


「さあ、どうする? 盲目の騎士様。私を斬る? それとも、その耳で『真実』を聴く?」


 霧の向こう側、かつてアイリスが越えた境界線の上で、二つの異なる運命が静かに交錯した。

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