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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
不変の秋と意志の断絶
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第44話:『秋風の予感』

 カナンリスを去り、東へと進路を取ってから、一月近くが経とうとしていた。


 アイリスは、立ち止まり、風の調べに耳を傾けていた。そこには明確な意図も、切実な自覚もない。

 ただ、引き絞られた弦のように研ぎ澄まされた彼女の嗅覚と聴覚が、風の行く末に潜む微かな「鼓動」を捉えていた。


(……この風は、どこか遠くの枯れた場所から吹いてきている)


 かつての彼女なら、風の音を単なる空気の振動として処理していただろう。

 だが今の彼女は、風の中に含まれる土の乾燥具合、混じる草木の死の匂い、そしてそれらを運ぶ大気が帯びた「時間の重み」を感じ取ることができる。

 それは、彼女が故郷を出て、多くの「終わり」に触れてきた証でもあった。


 旅は、決して平坦ではなかった。 カナンリスを離れて数日後には、エヴァリア周辺を漂っていた「霧喰い」にも匹敵する、凶悪な魔物たちの襲撃を何度も受けた。

 理を歪められた肉体を持つそれらは、ただの刃では容易に沈黙しない。


 だがアイリスは、それらを払うことにも、もはや迷いはなかった。


 始祖の剣が放つ「断絶」の冷徹な一閃は、魔物たちの歪な再生を許さず、静かに土へと還していく。

 そのたびに掌に伝わる空虚な手応えさえ、今は彼女の一部となっていた。


 物理的な困窮も、彼女の影のように寄り添っていた。

 カナンリスの民から感謝と共に贈られた食料は、とうに尽きていた。

 見知らぬ森で採れる実は毒を含んでいることも多く、狩りがうまくいかない夜は、ポーチの底に大切に残していた数少ない「ルナドロップ」を一粒、舌の上で転がして飢えを凌ぐこともあった。

 心の澱みを払い、深く良質な眠りにつくための、外の世界では「希少」とされるものだが、旅の疲弊と緊張の走る夜では相乗効果もあり、アイリスを助けてくれた。


 道中で負った傷も、彼女の身体に幾つかの新しい「記憶」を刻んでいた。

 鋭い牙が二の腕を掠めた跡、険しい岩場で踏み外した際に負った足首の捻挫。

 エヴァリアにいれば、女神の加護が即座にそれらを塞ぎ、痛みさえも忘却の彼方へ押し流してくれただろう。

 だが、外の世界では傷は痛み続け、膿み、熱を持つ。


 アイリスは、かつてベネディクトから教わった応急処置を思い出しながら、自らの手で止血し、傷口が広がらないよう布を巻く。

 その鈍い痛みこそが、自分が今「再生の理」から切り離され、刻一刻と死に向かう「正しい命」を生きている証であると、彼女はどこか静かな確信を持って受け入れていた。


 ふと、歩みを止めたアイリスが外套の合わせ目に手を差し入れた。

 ポーチの奥、布に包まれて大切に守られているのは、リリから贈られたあの小さな花だ。

 枯れかけてはいるものの、鼻を近づければ、あの日カナンリスの陽光の下で感じた瑞々しい生命の香りが、今も微かに残っている。

 それは、荒野をゆく彼女にとって、唯一の甘やかな癒しであり、自分が守った「明日」という光の象徴だった。


(……温かい。まだ、この音は消えていない)


 花びらに花を近づけて少し吸う


(やっぱり甘い)


 一瞬だけ表情を緩めたアイリスだったが、すぐに表情を引き締めた。 杖を突く掌に、地面を伝う微かな振動が届いたからだ。


 それは、石畳の強固な反響でも、深い森の湿った吸音でもない。 乾ききった土が、まばらな歩みに合わせて崩れるような、脆い音。

 やがて、彼女の鋭敏な感覚は、前方に小さな「塊」を捉えた。

 それは、ごく小さな集落だった。

 数は少ないが、人の営みを示す家々の影。

 しかし、そこから聞こえてくる「気」は、あまりに乏しい。


 集落に足を踏み入れたアイリスを待っていたのは、歓迎でも、ましてや露骨な拒絶でもなかった。そこにあるのは、ただ石のように冷ややかで、乾いた「無関心」だった。


 カツン、と杖が乾いた土を叩く。

 近くの畑では、一人の男が黙々と土を耕していた。

 アイリスの銀髪と、異国情緒を漂わせる外套が視界に入った瞬間、男の拍動がわずかに跳ね、訝しげな色が混じった。

 だが、それも一瞬のこと。

 彼女が盲目であること、そして危害を加える様子がないことを悟ると、男は何事もなかったかのように再び鍬を振るい始めた。


 アイリスは、その場に立ち止まり、集落全体の「音」を拾い集めた。


 ここには、旅人を珍しがる子供の嬌声も、商売の呼びかけもない。

 ただ、自分のような迷い人が現れることには慣れきっているようだった。

 彼らが神経を尖らせているのは、外から来る人間そのものよりも、その人間が自分たちの静かな生活を乱す「毒」を持っていないかどうか、その一点に尽きている。


(……静かすぎる。けれど、ここは確かに守られている)


 意識を外側に広げれば、集落の周囲には巧妙な仕掛けが施されていた。

 風に揺れる細い糸、獣や魔物を退けるための鋭い音を出す鳴子。

 それらは派手さこそないが、厳しい自然の中で生き延びる者たちの知恵が凝縮された、切実な防壁の響きを持っていた。


 アイリスは、当てもなく風を頼りに東へと歩み続けてきた。

 だが、この先に何があるのか、その予感は未だ霧の中にある。

 彼女は情報の断片を求め、作業を続ける男の傍らへと歩み寄った。


 彼女はゆっくりと膝をつき、土に汚れた男の足元に、視線を合わせるように顔を向けた。

 それは、エヴァリアの剣士としての矜持を捨て、一人の巡礼者として「敵意がないこと」を示す、彼女なりの最大限の礼節だった。


「……失礼いたします。旅の者です。この先、東に続く道の果てに何があるのか、教えてはいただけないでしょうか」


 アイリスの声は、乾燥した空気に溶け込むように静かだった。

 男は作業の手を止め、じっくりと、値踏みするように彼女を見つめた。

 その拍動は重く、慎重だ。周囲で作業をしていた他の村人たちも、示し合わせたように手を休め、遠巻きに銀髪の少女を注視している。

 集落全体が、息を潜めて彼女を試しているかのような沈黙が流れた。


 やがて、男が低く、掠れた声で口を開いた。


「この先か。……あるのは『ゼニト』。かつては国と呼ばれていた、石の壁に囲まれた袋小路だ」


「ゼニト……」


 アイリスがその名をなぞるように呟くと、男は鼻で笑うような乾いた音を立て、再び鍬を握り直した。


「期待しているような街も、賑やかな文明もそこにはないぞ。あるのは巨大な壁と、その向こう側にある『呪われた森』を恐れて震えている連中だけだ。まともな旅人なら、今すぐ引き返して西へ戻るこった。あそこは、時間が止まっちまった場所なんだからな」


 石の壁。呪われた森。そして、止まった時間。

 男が吐き捨てた言葉の断片が、アイリスの胸の奥にある始祖の剣を、一際強く震わせた。

 アイリスは「これ以上は進むな」という男の忠告に対し、一度だけ深く頭を下げた。それは拒絶への謝罪ではなく、道を示してくれたことへの巡礼者としての儀礼だった。

 男は鼻を鳴らして再び鍬を振り下ろし、集落はまた、何事もなかったかのように元の沈黙へと沈んでいった。


 彼女が再び東へと杖を突き出したとき、ふとした思考が脳裏を掠めた。

 エンド・ロア、フェルゼン、カナンリス。 これまで辿ってきた旅路。

 そのすべてに、奇妙なほど一貫した共通点が感じられた。


 それは「歪な生」への執着と、それによって覆い隠された「終わりの不在」だ。

 

 そしてこれから向かう『ゼニト』もまた、その延長線上にあることを、風が運ぶ不穏な気配が告げていた。


(この剣が、私を呼んでいるのでしょうか)


 アイリスは、外套の隙間から背中の『始祖の剣』の柄にそっと指を這わせた。

 冷たく、しかし確かな存在感を放つ銀の取っ手。

 彼女がこの剣を抜くたびに、世界の理はわずかに綻び、隠されていた真実が顔を出す。

 まるで剣そのものが意志を持ち、彼女を「終わりのない地獄」の最前線へと導いているかのようだった。


 集落を離れ、さらに数時間が経った頃。

 アイリスの感覚は、周囲の景色の劇的な、それでいて静かな変容を捉え始めた。


「……っ」


 不意に吹き抜けた風が、頬を薄い刃物のように撫でた。

 湿り気は完全に消え去り、大気は肌の水分を奪い去るほどに乾燥している。

 杖が地面を叩く音が、これまでの「泥臭い響き」から、乾いた陶器を叩くような「硬い高音」へと変わっていった。


 アイリスは立ち止まり、深く息を吸い込んだ。

 鼻腔をくすぐるのは、もはや土の匂いではない。

 それは、陽光に晒され続け、生命活動を止めた植物が放つ「焦げたような枯死の香り」だ。


 さらに、足裏を伝う振動がこれまでと決定的に異なっていた。

 一歩踏み出すごとに、地表を覆う「何か」が、パサパサと、あるいはカサリと、頼りなく砕け散る。

 それは、エヴァリアの永遠に青い森では決して聴くことのできなかった音。


 実りを終え、熱を失い、自らの重みに耐えかねて大地へと舞い降りた――「落葉」の音色だった。


「これが……男の言っていた、呪い……」


 アイリスは独りごちた。

 視覚を持たぬ彼女には、木々が黄金色や鮮血色に染まる情景は見えない。


 けれど、彼女は確かに感じていた。

 この場所では、命が「維持」されることを拒絶し、静かに、しかし誇り高く、自らを土へと還そうとしている。

 それは、女神の加護に守られた世界においては、確かに「病」であり「呪い」と呼ぶに等しい、異質な秩序だった。


 アイリスは、背負った剣が静かに、そしてこれまでにないほど深く共鳴するのを感じながら、東の果てにそびえるという巨大な「壁」を目指し、再び歩き出した。

 乾いた風が、彼女の銀髪を揺らし、足元の落葉をさらさらと踊らせていく。

 その音はまるで、長く止まっていた時計の針が、ようやく動き出した瞬間の微かな産声のようだった。

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