第43話:『未完の収穫に、永遠の祈りを』
紅蓮の嵐は去り、都アンシェには底冷えするような静寂が訪れていた。
アイリスは杖を突き、ゆっくりと瓦礫の散らばる大通りを歩く。
昨日まで街を彩っていた、熟した果実の芳醇な香りはどこにもない。
鼻を突くのは、焼き焦げた木材の異臭と、崩れた石壁から舞い上がる石灰の乾いた匂いだけだ。
幸いにして、街のすべてが灰に帰したわけではなかった。
被害が集中したのは聖堂を中心とした主要な区画であり、そこから離れるにつれて、黄金の街並みはその輝きを辛うじて留めていた。
だが、視界を持たぬアイリスには、街全体の形が歪んでしまったかのように感じられた。空気の震えが、かつての調和を失い、バラバラに砕け散っている。
(……静かすぎる。まるで、息を止めているみたいに)
『黎明の鎌』の構成員たちは、その多くが聖騎士たちの手によって地下牢へと連行された。
首謀者であるヴィクトルもまた、やはり抵抗することなく捕縛の身となった。 戦いは終わったのだ。物理的な意味では。
しかし、彼らが戦闘の最中に放った「聖樹の劣化」や「偽りの循環」という毒々しい言葉は、霧のようにアンシェの空気に溶け込んでいた。
カナンリスの民にとって、聖樹デメテラは絶対的な母であり、その循環に疑いを持つことなど、自らの存在を否定するに等しい。
今のところ、それらの言葉は実感を伴わぬ「異端の妄言」として処理されている。人々はただ、目の前の惨状を片付けることに必死だった。
だが、避難作業や救出作業が続く混沌とした喧騒の中で、ふとした瞬間に、ある「記憶」が人々の脳裏を掠めていた。
「あの時の、病と同じ匂いがする……」
瓦礫を運んでいた男が、誰に言うでもなく呟いた。数年前、この国を襲った流行病。聖樹の葉が病的に黄色く変色し、多くの命が土へと還っていったあの災厄。
今、ヴィクトルたちの叫びが呼び水となり、消えかけていた不安の澱が、再び水底から揺らめき始めていた。
「アイリス様、お怪我はありませんか?」
背後からかけられた声に、アイリスは足を止めた。
振り返れば、そこには聖堂に仕える一人の若い修道女が立っていた。
宿屋に滞在していた際、アイリスの旅装を丁寧に洗い、整えてくれた、控えめだが芯の強い少女だ。
「……ええ、大丈夫です。あなたは?」
「はい。聖騎士様や殉教者の方々が巡礼者の方々を必死にお守りくださったので、私たちも無事でした。教皇様も、今は聖堂にお戻りになられている様です」
修道女の声には安堵の色が混じっていた。
だが、彼女がアイリスを見る気配には、深い感謝と共に、自分たちには決して届かない「異質の存在」に対する畏怖が、薄い膜のようにまとわりついていた。
「あの……。街はこのような有様ですが、お宿の主人が、アイリス様のお部屋は無事だったと仰っていました。反乱を収めて頂いたお礼に。もしよろしければ、今夜もあちらへお立ち寄りください。せめて、温かい食事と清潔な寝床を用意させていただければと」
アイリスは一瞬、迷いを見せた。
このまま街を去ることもできた。
だが、彼女の鋭敏な耳は、街のあちこちで響く「歪な音」をまだ捉えている。
ヴィクトルが残した呪いのような言葉。
教皇が湛えていた、あまりに静かな絶望。
それらをもう少しでも見届けずして、この国を去ることはできないと、始祖の剣が背中で重みを増した気がした。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えて、今夜はあそこでお休みさせていただきます」
「よかった……! では、すぐに準備を整えておきますね」
修道女は小さく微笑み、再び教皇の供をするために聖堂の方へと駆け去っていった。アイリスは杖を突き直し、ゆっくりと宿屋の方へと歩き出す。
夕刻の光が翳り始め、アンシェの街に長い影が伸びる。
それは、救済の後に訪れた、あまりに苦く、重苦しい夜の始まりだった。
宿屋に戻る道すがら、アイリスは何度も足を止めることになった。
「巡礼者様! 本当に、本当によくやってくださいました!」
瓦礫を片付けていた男たちが、泥に汚れた手でアイリスを呼び止める。
彼らの拍動は、恐怖や疑念ではなく、純粋な安堵と心からの感謝に震えていた。
「あなたが来てくれなければ、この街は今頃どうなっていたか……。あんな恐ろしい男から、教皇様を、私たちの日常を守ってくださった。この御恩は一生忘れません」
差し出される冷たい水や、包まれたばかりの温かいパン。それらはアンシェの民が、彼女を「死を運ぶ不吉な影」ではなく、絶望の淵から自分たちを引き揚げてくれた「救済者」として受け入れた証だった。
ヴィクトルが撒いた「劣化」という毒は、今の彼らにとっては、目の前の命を救ってくれた銀髪の乙女の輝きにかき消されるほど、小さく、取るに足らない異端の叫びに過ぎなかった。
(……私は、ただ、彼を止めただけなのに)
人々の温かな音色がアイリスの胸を打つたびに、背負った剣の冷たさが、なぜかより鮮明に意識された。彼女は丁寧にお礼を述べ、一度宿の自室へと戻った。
だが、どれほど身体が休息を求めていても、神経は研ぎ澄まされたままだった。 街の人々の笑顔は本物だ。
けれど、その足元の土が、あるいは彼らが仰ぎ見る聖樹の根が、ヴィクトルの言う通りに「腐食」を始めているのだとしたら。
アイリスは外套を羽織り、夜の静寂を縫って再び外へ出た。
向かったのは、聖騎士が厳重に警備する地下牢だった。
都を救った英雄である彼女の来訪に、衛兵たちは敬意を持って道を空け、最奥の独房へと案内した。
鉄格子の向こう側。ヴィクトルは、月明かりも届かぬ暗闇の中で壁に背を預けていた。
「……何の用だ。感謝の嵐に酔いしれるのに飽きたか」
ヴィクトルの声は掠れていたが、その知性は未だ衰えていなかった。
アイリスは格子越しに立ち、静かに語りかける。
「街の人たちは、笑っています。瓦礫を片付け、明日を信じて祈っています。あなたの言った『毒』は、まだ誰の心も腐らせてはいません」
「ふん……。無知とは幸福だな。だが、アイリス。お前には聴こえているはずだ。この大地の底で、聖樹が喘いでいる音が。お前は彼らを救ったつもりだろうが、それは残酷な先延ばしに過ぎない。俺の革命が未完に終わった今、この国は緩やかに、しかし確実に、意味のない停滞へと沈んでいく」
ヴィクトルは暗闇の中で目を光らせ、嘲笑するように喉を鳴らした。
「お前は彼らに『時間』を与えたと言うのか? 選ぶための時間を。……笑わせるな。選択肢のない平穏に浸りきった奴らに、そんな高潔な真似ができるものか。お前が去った後、彼らが絶望に気づいた時、その矛先はどこへ向かうと思う? 感謝していたお前を、今度は自分たちを見放した死神だと罵るだろうよ」
アイリスは始祖の剣の柄にそっと触れた。
「それでも。私は、奪われるはずだった時間を彼らの手に返しました。それがどれほど残酷な現実への入り口だったとしても、無理やり刈り取られるよりは……ずっといい」
「……行け、優しすぎる死神。お前の歩く先で、どれほどの『終わり』が芽吹くのか、精々見届けるがいい。お前は救世主などではない。ただ、俺たちの未完の物語に、中途半端な栞を挟んだだけだ」
ヴィクトルの拍動が、深い諦念と、どこかアイリスへの奇妙な共鳴を含んで揺れていた。 彼の鼓動は、いまだに揺らいでいる。どこか強がっている様にも見える。
(……幸せか、と問われれば、私はずっと幸せでした)
と言っていたあの言葉、それでも彼女は国を出て答えを探す道を選んだ。
(俺は、俺はただ……)
アイリスは何も答えず、背を向けて地下牢を後にした。
一夜が明け、宿屋の窓から差し込む光は、昨夜の惨劇を洗い流そうとするかのように柔らかだった。
アイリスは修道女が運んでくれた質素な食事を静かに口にし、身支度を整えて外へ出た。
杖が石畳を叩く音に応えるように、街からは「日常」を取り戻そうとする人々の活気が伝わってくる。
瓦礫を退ける音、荷車が軋む音、そして遠くで響く人々の呼びかけ。
宿の軒先で、アイリスの足を止める小さな気配があった。
「お姉ちゃん、これ……。お花屋さんが、お姉ちゃんに渡してって」
リリだった。差し出された小さな手には、戦火を逃れた庭の隅で、奇跡のように色を留めていた名もなき花が一輪握られていた。
アイリスがそれを受け取ると、指先から花の冷たい露の感触と、リリの瑞々しい拍動が伝わってきた。
昨夜までの血生臭い空気の中で、この幼い少女の心音だけが、アイリスに「生」の純粋な手触りを思い出させてくれる。
アイリスはリリの頭を優しく撫でた。
掌に伝わる小さな温もり。自分が剣を振るい、守り抜いたものの答えが、ここにあることを再確認するように。
街の空気は、昨日とは一変していた。
どうやら本日、一度は中断された「収穫祭」が再び執り行われるのだという。
それは、昨日土に還るはずだった者たちの家族の願いであり、国民全体の祈りでもあった。
暴徒に命を奪われた人々も、この祭りを心から楽しみにしていたのだ。悲しみを抱えながらも、彼らの死を「意味ある収穫」へと変えるために、カナンリスは再び祈りの音色を奏でようとしていた。
アイリスは教皇の計らいにより、再び儀式の見学を許された。
修復の始まった聖堂の奥、昨日途絶えてしまった旋律が再び紡がれる。
教皇は、昨日の動揺を微塵も感じさせない、凪いだ湖面のような静寂を纏っていた。
儀式の最中、教皇の視線がアイリスに触れた気がした。
言葉はなくとも、その拍動は深い感謝と、この国の行く末を担う者の重い覚悟、そしてアイリスという放浪者の前途を祈る慈愛に満ちていた。
アイリスは、自らの剣がこの地に下ろされる必要がなかったことに安堵しながらも、いつかこの国に訪れる「真の収穫」の日を想い、聖堂に向けて深く一礼した。
街へ出ると、祝祭の音が響いていた。
復旧作業は一時中断され、人々は精一杯の笑顔で集まっていた。当然、予定されていたような豪勢な飾りや食事はない。
けれど、手を取り合い、生きていることを確かめ合う彼らの姿には、何物にも代えがたい力強さがあった。
(きっとこの先も祝祭が行われるたびに、人々は昨日の出来事を思い出してしまうんだろう……)
アイリスはそう感じる。
喜びの裏側に、常に恐怖と疑念の影が張り付く。
それが、ヴィクトルの遺した爪痕だった。
黄金の門をくぐり、アイリスは街道へと踏み出した。
背後からは、復興を誓う力強い人々の喧騒が聞こえてくる。
だが、アイリスの胸の奥には、消えない澱のようにその残響が沈んでいた。
『幸せか、と問われれば、私はずっと幸せでした』
ヴィクトルに放った、自分が口にした言葉を思い出す。
そして今、救われたことを幸せだと笑うカナンリスの人々。
(私はこれからも、誰かの幸せを壊し、あるいは繋ぎ止めていくのでしょうか……)
アイリスの独白に応えるように、背中の『始祖の剣』が歩みに合わせて微かに鳴った。それは彼女に「死神」としての歩みを止めることを許さない、世界の理の響き。
朝靄が晴れ、道が果てしなく続いている。
カナンリスでの激闘を終えたアイリスの姿は、以前よりも少しだけ背中が小さく見えたが、その足取りは迷いのない、確かなものになっていた。
次なる目的地。冷たい風が吹き抜け、誘われる様に「東の境界」へと、彼女は再び杖を突いた。
アイリスが都を去って数時間後。
地下牢の最奥で、ヴィクトルは静かに息を引き取った。
衛兵が発見した時、彼の顔には不思議なほどの静寂が宿っていたという。
彼は、アイリスから返された「選ぶ時間」を使い、自らの意志で、自らの物語に終止符を打つ道を選んだのだ。
カナンリスの空は、どこまでも高く、黄金色の光に満ちていた。




