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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
記憶の循環と完熟の果実
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第42話:『祝祭の終わり』

 古いアジトの密室内。ヴィクトルの喉を鳴らす荒い呼吸だけが、不気味なほど鮮明に響いていた。

 教皇の喉元に突きつけられた鎌の刃は、窓から差し込む紅蓮の火影を反射して、毒々しく明滅している。アイリスは『始祖の剣』を静かに構えたまま、その絶望に染まった拍動の主へと、見えない瞳を向けた。


「……執着ですね」


 アイリスの静かな声に、ヴィクトルの肩がびくりと跳ねた。

 彼は自嘲気味に鼻で笑い、教皇を盾にするようにしてアイリスを睨みつける。


「執着だと? 違うな。これは『知識』への忠誠だ。お前にはわかるまい、庭師がどれほど深く、この世界の理を……そして、お前の故郷を調べてきたか」


 ヴィクトルはかつて、聖樹の管理を任される一方で、教会の禁書庫に眠る古い伝承を貪り読んでいた。

 特に、世界の果てにあるといわれる「不死の国」エヴァリアの記述には、病的なまでに惹かれていた。 女神の加護により時間が凍りついた地。そこでは肉体が瞬時に再生し、死という概念そのものが忘却されているという。

 ヴィクトルにとって、それはカナンリスが目指すべき理想郷ではなく、むしろ「行き着いてはならない終着点」の象徴だった。


「伝承にはあった。その閉ざされた国において、唯一『剣』を振るうことを許された、守護者の一族がいると。理を乱すものを屠るのではなく、静めるための儀式的な刃……。だから、昨日、市場であの少女に手を引かれ、街を歩くお前の姿を見た瞬間、全身に電撃が走ったよ」


 ヴィクトルの脳裏に、祝祭前日の光景が蘇る。

 革命の決行を目前に控え、焦燥に駆られていた彼の前に、少女に手を握られ銀髪を揺らし、背に無骨な鋼を背負った盲目の女が現れた。

 その歩みはあまりに静かで、周囲の喧騒から浮き上がっているように見えた。


(女神が、俺に『楔』を遣わしたのだと確信した)


 ヴィクトルは最初、人混みに紛れてその背の剣を奪うことすら考えた。

 もし彼女がその一族であれば背の剣に秘密があると、彼の重ねた知識が、理由は不明確だがそう確信させた。

 その伝承の武器が手に入れば、教皇を屈服させ、国の循環を強制的に加速させるための絶対的な象徴になると踏んだのだ。


 だが、背後から音もなく近づこうとした瞬間、彼は本能的な恐怖に足を止めた。 アイリスは振り返りもしなかった。ただ杖を突き、少女の言葉に微笑んでいただけだ。

 しかし、彼女の周囲にだけ、物理的な死の気配……踏み込めば二度と戻れない「深淵」が口を開けているような錯覚に陥った。

 アイリスが無意識に放っていた、一族随一の鋭い感覚。

 それが、ヴィクトルの殺意を、実行に移す前に凍りつかせたのだ。


「都合が良すぎたのだ。俺がこの腐った庭を剪定しようと決めた日に、死のない地獄から、死の専門家がやってくるなど。……なあ、アイリス」


 ヴィクトルは鎌の刃を教皇の皮膚に押し当てた。一筋の赤い血が、教皇の白い衣に染み込んでいく。


「お前に問いたい。エヴァリアは……死のないあの日々は、幸せだったか? 誰もが終わりを忘れ、ただ再生を繰り返すだけのあの日々は、本当にお前たちが誇るべき『加護』だったのか?」


 アイリスの心臓が、微かに跳ねた。

 それは、彼女が故郷を捨てる決意をした、あの日から抱き続けている根源的な問いだった。


「なぜあの国を出た。永遠の命があるというのに、なぜわざわざ、死の蔓延する外の世界へ這い出してきたんだ。答えろ! お前があの国を捨てたという事実こそが、この『停滞』という名の病の、何よりの証明ではないのか!」


 ヴィクトルの叫びは、もはやアイリスへの問いではなく、自分自身を正当化するための悲鳴のようだった。

 沈黙するアイリスの手に、始祖の剣の冷たさが伝わる。

 エヴァリアの霧、エンド・ロアの祈り、フェルゼンの喧騒。

 それらを経て辿り着いたこの「還りの国」で、自分は何を幸せだと感じたのか。


 アイリスはゆっくりと、自分の内側にある「空洞」に触れる。


「……幸せか、と問われれば、私はずっと幸せでした」


 その声は、驚くほど淡々としていた。


「故郷エヴァリアには、争いもなければ、失う恐怖もありません。傷つけば癒え、時が来れば再生する。それは完璧に閉じられた、優しいゆりかごのような世界です。……けれど、その優しさは、同時にあまりに無機質でした」


 アイリスは杖を握る指先に力を込め、言葉を紡ぐ。


「私たちが幸せだったのは、それを疑うための『終わり』を知らなかったからです。色がなければ、光が眩しいとは気づけない。終わりがなければ、今というこの一瞬が、どれほど愛おしく、脆いものかを知る由もありません。私は……自分が『生きている』のか、それともただ『終われないだけ』なのか、その違いすら分からなくなってしまったのです」


 ヴィクトルの眉が、疑念に歪む。


「終われないだけ……だと?」


「はい。だから私は国を出ました。何が欠けているのかを知るために。……そうして歩き、多くの死と終焉に触れてようやく気づいたのです。死とは決して残酷なだけの断絶ではない。それは、人生という物語に意味を刻み込むための、最後の一行なのだと」


 アイリスの脳裏に、これまで出会ってきた人々の鼓動が蘇る。

 エンド・ロアで死を救済として受け入れた人々、フェルゼンの喧騒の中で精一杯に今を謳歌していた人々。


 彼らが輝いていたのは、等しく「終わり」を背負っていたからだ。


「ヴィクトル、あなたも私も、同じですね」


「……何だと?」


「あなたも、この国に『意味』を取り戻そうとしている。積み重なるだけの時間に絶望し、瑞々しい価値を求めている。その根源にあるのは、停滞への恐怖と、未来への渇望でしょう?  私がエヴァリアの門を叩き壊して外へ出た、あの日の衝動と……あなたの革命は、とてもよく似ています」


 アイリスの言葉は、ヴィクトルの心の奥底にある、誰にも見せなかった「純粋な焦燥」を正確に射抜いた。ヴィクトルは喉を鳴らし、教皇を盾にする腕を強める。


「……嘘ではないな?  自分の正しさを守るための、安い憐憫ではないと言い切れるか」


「エヴァリアの民は、嘘をつけません」


アイリスは、見えない瞳を真っ直ぐにヴィクトルへ向け、微笑みさえ湛えて言った。


「光を知らぬ者に、影を偽る言葉は持ち合わせていないのですから」


 ヴィクトルの拍動が、一瞬、大きく揺らいだ。

 それはアイリスという存在を、自分を阻む敵としてではなく、同じ「絶望の淵」に立つ者として認識してしまった瞬間の揺らぎだった。


 ヴィクトルの手から伝わる震えが、突きつけられた鎌の刃を通じて教皇の喉元へと微かな振動を伝えていた。

 アイリスの言葉は、彼の内側にある「正義」という名の鎧を、音もなく剥がしつつあった。


「……動かない世界に、抗うだと」


 ヴィクトルが低く、自分に言い聞かせるように繰り返す。

 その時、それまで目を閉じ、深い瞑想の中にいるかのようだった教皇が、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


「ヴィクトル。あなたが求めているのは、瑞々しい変化。そしてアイリス殿が求めているのは、意味のある終焉。……二つは似て非なるものですが、根幹にあるのは『今を愛したい』という切実な願いなのでしょう」


 教皇の声は、燃える街の喧騒から切り離されたかのように澄んでいた。


「あなたが危惧した聖樹の劣化は、事実。流行病を経て、還っていく魂の密度が薄れている。私もそれを感じていました。ですがヴィクトル、無理に命を刈り取り、無理に循環を早めた先に待っているのは、瑞々しい森ではありません。それはただ、土が栄養を飲み込みきれずに腐り果てる、加速した枯死です」


「……黙れ」


「あなたがアイリス殿に惹かれたのは、彼女が『死の専門家』だからではない。彼女の持つ剣が、理を壊すものではなく、理を『あるべき姿に戻す』ものだと、あなたの庭師としての本能が理解していたからではありませんか?」


 ヴィクトルの拍動が、不規則な不協和音を奏で始める。

 アイリスは、構えた『始祖の剣』から静かに力を抜いた。

 彼女がここですべきなのは、彼を斬ることではない。この部屋に満ちた、あまりに危うく、あまりに純粋な「正義の不協和音」を、ただ見守ることだった。


「ヴィクトル。私は、あなたに刈り取られる準備はできています。それがこの国の未来に繋がる一歩であると、私が信じられるのであれば。……ですが、あなたの今の鎌には、迷いという名の錆がついている」


「黙れと言っているんだ……!」


 ヴィクトルは叫び、鎌を振り上げた。

 アイリスの感覚が、彼の殺意を捉える。

 だが、その殺意には、相手を殺そうとする意志よりも、自分自身を終わらせようとするような、自暴自棄な響きが混じっていた。


 アイリスは一歩だけ踏み出し、剣の鞘でヴィクトルの腕を軽く打った。

 鋭い一撃。ヴィクトルの手から鎌が滑り落ち、石床に乾いた音を立てて転がった。


「……っ」


 ヴィクトルは崩れ落ちるように膝をついた。彼は教皇を傷つけることも、アイリスを拒絶することもできず、ただ自分の掌を見つめていた。

 その掌は、かつて多くの花を育て、聖樹の枝を慈しんだ庭師のそれだった。


 外では、火災が鎮まり始めたのか、街の音が少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。 聖騎士たちの足音が近づいてくる気配がする。


「アイリス殿。この者は、どうすべきでしょうか。……。あなたには、どう見えていますか??」


 教皇の問いに、アイリスはしばらく沈黙した。

 彼女の「内なる眼」に映るヴィクトルは、今や凶悪な革命家ではなく、ただ「美しすぎる庭」の終わりを恐れた、一人の孤独な管理者に過ぎなかった。


「……私には、分かりません。私はただ、この国にある『音』を聴きに来ただけですから」


 アイリスは剣を鞘に納め、ヴィクトルに背を向けた。


「けれど、あなたが今日流した血も、燃やした炎も、消えることはありません。あなた方が行った殺戮は決して許されてはならない罪。ですが、それはこの国の記憶となって、聖樹の土に刻まれるはずです。それが良き実りとなるか、毒となるかは……あなたがこれから、どう歩むかにかかっているのではないでしょうか」


 ヴィクトルは何も答えなかった。

 ただ、彼の拍動は先ほどまでの激昂を失い、深い沼の底を這うような、重く静かなものへと変わっていた。


 聖騎士たちがなだれ込んでくる。彼らがヴィクトルの腕を取り、連行していく間も、彼は抵抗一つしなかった。ただ一度だけ、すれ違いざまにアイリスの方を向いた気配があったが、言葉が交わされることはなかった。


 その瞳に宿ったのは、自責の念か、あるいは未だ消えぬ理想の残り火か。

 アイリスには、その「音」の正体を解き明かすことはできなかった。


「……終わりましたね」


 アイリスが独りごちると、教皇が静かに立ち上がり、彼女の隣に並んだ。


「いいえ、アイリス殿。カナンリスの物語は、ここからまた、新しく、そして緩やかに歪みながら続いていくのでしょう」


 窓の外では、夜明けの気配が東の空を薄紫に染め始めていた。

 燃えた街の跡から立ち上る煙が、聖樹の枝にまとわりつき、幻想的で、どこか残酷な「収穫祭」の終わりを告げていた。

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