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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
記憶の循環と完熟の果実
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第41話:『理由なき怨嗟』

 聖堂の重い沈黙を切り裂き、アイリスは外へと駆け出した。

 背後では、遅れて駆けつけたカナンリスの守護兵――白銀の甲冑を纏った聖騎士たちが、アイリスが無力化したヴィクトルの部下たちを次々と拘束していく。


「巡礼者殿、ここは我らが! 貴殿は――」

「……すみません、お任せします!」


 聖騎士の声を背に、アイリスは光の粒が荒れ狂う「外」の世界へと身を投じた。


 一歩外へ出た瞬間、アイリスの五感は暴力的な情報の濁流に呑み込まれた。

 昨日まで鼻腔をくすぐっていた熟した果実の甘い香りは、鼻を突く焦げ臭い煙と、生々しい鉄の匂い――血の香りに塗り替えられている。


「内なる眼」が捉える視界は、もはや黄金色ではなかった。

 都アンシェを包む炎が、アイリスの感覚を赤黒く焼き焦がしていく。

 昨日、あんなに穏やかに響いていた街の旋律は、今やバラバラに砕け散り、逃げ惑う人々の不規則な心音と、石畳を叩く狂乱の足音に埋め尽くされていた。


 市場の通りでは、かつて彼女に「良い旅を」と声をかけてくれた店主が、燃え上がる屋台を背に絶望の叫びを上げている。

 路地裏からは、リリのような小さな子供たちが、恐怖に喉を震わせ、親を呼ぶ悲痛な振動が伝わってくる。


 だが、最もアイリスの心を逆撫でしたのは、それらの悲鳴に重なる「冷酷な刃」の音だった。


「――逃げるな! お前たちの命は、今この瞬間に、この国のために捧げられるべきなのだ!」


 叫び声と共に、鎌が風を切り、肉を断つ。

 『黎明の鎌』の別働隊が、逃げ遅れた若者たちを追い詰め、それを「最高の旬」と呼んで無慈悲に刈り取っていた。

 彼らの論理に基づけば、これは殺戮ではなく「高潔な剪定」なのだろう。

 だが、アイリスの耳に届く彼らの拍動は、もはや「正義」の一色ではなかった。


 任務の残酷さに心臓を激しく脈打たせ、嘔吐を堪えるような震えを刻む者。

 逆に、血の匂いに中てられたのか、あるいは極限の使命感の果てに何かが決壊したのか、悦に浸るような、不気味に低く安定した鼓動を奏でる者。


「カナンリス聖騎士だ!!  抵抗する奴は力づくでも押さえつけろ!!」

「我らの志を邪魔させるな!! 聖樹は飢えているんだ!」


 街の各所で、カナンリスの守護兵と構成員たちの激突が始まっていた。

 しかし、守護兵たちが市民の救助と鎮火を優先する一方で、構成員たちは「命を奪うこと」のみに特化し、神出鬼没に路地を駆け抜ける。

 その様は、収穫期に群がる飢えた獣のようでさえあった。


「……ひどすぎる」


 アイリスは杖を強く握りしめ、地面を蹴った。

 炎の爆ぜる音、崩落する建物の轟音、泣き叫ぶ人々の声。

 あまりに膨大な「音」の濁流の中で、彼女の感覚は限界まで引き絞られ、神経を焼き切るような痛みを伴っていた。


 それでも、アイリスはその歪んだ感覚の網を必死に広げ、拾い上げた。

 その時、通りの角から、ひときわ鋭く、そして脆い、小さな「音」がアイリスの耳を突いた。


(この音は……!)


 それは、昨日まで自分を温かく迎えてくれた、あの無垢な日常が、まさに断ち切られようとする寸前の不協和音。

 アイリスは紅蓮に染まる石畳を、風を切って駆け抜けた。

 『黎明の鎌』の構成員たちが、その銀髪が夜火にたなびくのを見るや、野獣のような叫びを上げる。


「来たぞ、ヴィクトルの言っていた『供物』だ!」

「エヴァリアの死神め、お前のその『不死』を、カナンリスの再起のために捧げろ!」


 狂信に染まった鎌が、前後左右からアイリスへと襲いかかる。

 火炎に照らされた刃が網の目のように彼女を囲むが、アイリスの耳は、大気を切り裂く刃の風切り音を冷徹なまでに捉えていた。


(……私は、あなたたちの救済にはならない)


 アイリスは迷わず『始祖の剣』を振るった。

 だが、その刃が求めたのは彼らの命ではなく、振るわれる「武器」の因果そのものだった。 キィィン! と、空間を凍りつかせるような硬質な音が響く。

 アイリスの一撃は、構成員たちの鎌をその根元から物理的に「無」へと還すように粉砕した。


 殺戮と火の香りが充満する中、彼女の手元は狂わない。

 彼らを斬り殺すことは容易い。

 しかし、この国の歪んだ革命を、他国者である自分が血で止めることは正解ではない。無に還す力を持つ自分だからこそ、この因果をここで終わらせてはならない。


「下がって……!」


 アイリスは、折れた鎌を手に呆然とする構成員たちの懐に潜り込むと、剣を鞘のように扱い、杖の石突で急所を的確に叩いた。

 骨を折らず、命を奪わず、ただ「戦う意志」だけを物理的に断ち切っていく。


 アイリスの超人的な奮闘は、混乱していた聖騎士たちの反撃の合図となった。


「巡礼者殿に続け! 一人たりとも逃すな!」


 アイリスが道を作り、怯んだ構成員たちを聖騎士が次々と制圧していく。

 燃え盛る建物の鎮火作業も始まり、都アンシェを覆っていた絶望の濁流は、少しずつ、だが確実に堰き止められようとしていた。


 やがて、大通りの喧騒が遠ざかる。

 アイリスは、肩で息をしながらも「内なる眼」を研ぎ澄ませた。

 まだだ。この鼻を突く焦げ臭い匂いの奥に、ひときわ濃厚な「正義の残り香」が漂っている。


 彼女はその匂いを辿り、人気のない街の端に位置する古い石造りの建物――かつて地下での密談が行われていた隠れアジトへと足を向けた。


 アジトの扉の前には、三人の構成員が立ち塞がっていた。

 左右に大男が二人。そして真ん中には、まだ十代後半に見える、昨日の地下室でも声を上げていた若い女性構成員が立っていた。


「死に損ないのエヴァリア女が……! どきなさいよ、異分子のくせに私たちの聖域に触れないで! 邪魔されたくないのよ!!!」


 女性は吐き捨てるように、エヴァリアに対する口汚い罵り言葉を並べ立てる。

 その心音は激しく、何かに追い詰められたような悲痛な高鳴りを奏でていた。

  両脇の男たちが唸り声を上げて突進してくるが、アイリスは一歩も引かない。


「……ごめんなさい」


 アイリスの杖が空を舞った。 突進の勢いを利用し、男たちの足を払って重心を崩すと、そのまま壁へと叩きつける。わずか数秒。男たちは呻き声を漏らし、意識を手放した。


「あああああ! 来るな、来るな……! 死ね!! 死ねえ!!!」


 一人残された女性構成員が、叫びながら鎌を、あるいは農具のような武器を滅茶苦茶に振り回す。

 アイリスはそれらすべてを、踊るような足捌きでいなした。

 剣も杖も、もはや振るう必要さえなかった。

 アイリスはあえて懐に飛び込み、相手の武器を掴むのではなく、その「心臓の音」を聴く距離まで近づいた。


「……もう、終わりです」


 アイリスの手が、優しく女性の腕を制する。

 その瞬間、極度の緊張と恐怖が限界に達したのか、女性の膝が折れ、そのまま崩れ落ちた。武器が石床に虚しく転がる。

 混沌とした感情の渦に意識を飲まれた様に、構成員の女性は気を失った。


 アイリスは荒い息をつき、静まり返った扉を見据えた。

 「内なる眼」が、扉の向こう側に潜む気配を捉える。


(……二人)


 規律正しく、それでいてどこか超然とした拍動。

 そして、その奥に潜む、熱く、爆発しそうな使命感の塊。


 アイリスがゆっくりと重い木扉を押し開くと、そこには外の地獄が嘘のような、奇妙な静寂が横たわっていた。


 部屋の奥、月明かりが差し込む窓を背に、二人の男が対峙している。


「……来たか、エヴァリアの娘」


 ヴィクトルが、掠れた声で呟いた。

 その呼吸は激しく乱れ、肩が大きく上下している。

 煙幕を使い、教皇を連れてここまで逃げ延びたことによる疲労か、あるいは己の理想が瓦解していくことへの焦燥か。

 アイリスの気配を察した彼は、床に転がっていた予備の鎌を、狂おしい手つきで拾い上げた。


 その刃の先が向けられているのは、アイリスではない。

 すぐ傍らで、椅子に深く腰掛けている教皇の喉元だった。


 教皇は、冷たい刃を突きつけられてなお、毅然とした態度を崩していなかった。


 恐怖も、怒りも、あるいはヴィクトルへの蔑みもない。

 ただそこにあるのは、嵐の夜の海のように静かで、底の見えない平穏だ。


 ヴィクトルの荒い吐息と、教皇の整った呼吸。

 そして、二人の間に立つアイリスの、引き絞られた弦のような緊張感。


「動くな。……これ以上、俺たちの庭を荒らさせるな」


 ヴィクトルの手が、わずかに震える。

 燃える街の熱気と、冷え切った部屋の静寂が、そのわずかな距離の中で激しくぶつかり合っていた。

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