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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
記憶の循環と完熟の果実
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第40話:『革命という医学』

 ヴィクトルの視界には、かつて世界で最も美しい「黄金」が広がっていた。


 数年前までの彼は、聖樹デメテラの枝先に触れることを許された、将来を嘱望される若き庭師だった。カナンリスにおいて庭師とは単なる技術職ではない。

 命の循環を管理し、魂が土へと還る道を整える、聖職者に等しい存在だ。ヴィクトルは誰よりも熱烈にこの国を愛し、女神の教えを信じていた。


 だが、その信仰に最初の亀裂を入れたのは、ある「病」だった。


 それは数年前、カナンリス全土を襲った流行病だ。

 多くの民が伏し、聖樹の葉が病的に黄色く変色した。

 幸いにも病自体はほどなくして沈静化し、今では過去の災厄として人々の記憶から消えつつある。

 しかし、最前線で樹の状態を観察し続けていたヴィクトルだけは、取り返しのつかない「腐敗」の兆候を見逃さなかった。


(……薄い。記憶の密度が、以前とは明らかに違う)


 ヴィクトルは独りで調べ上げた。

 病を経て還っていった者たちの魂。

 その「質」が、かつてのような瑞々しさを失っている。

 老いさらばえ、流行病に蝕まれて枯れ果てた命が注がれるたび、大樹デメテラが放つ拍動は微かに、だが確実に濁り始めていた。

 明確な数値として証明できたわけではない。

 だが、土の声を聴く庭師としての本能が警鐘を鳴らしていた。

 老衰した命ばかりの還元では、循環は維持できても「進化」は止まる。

 そしていつか、この国はエヴァリアのように、ただ存在し続けるだけの「生ける屍」の園へと成り果てる。


 ヴィクトルは震える足で教皇の元へ向かい、その危惧を訴えた。

 しかし、帰ってきたのは、凪いだ海のようなあまりに静かな言葉だった。


「ヴィクトル。それもまた、一つの自然な流れなのです。無理に命を急かし、鮮度を求める必要はありません」


「ですが、このままでは聖樹が……国が、緩やかな死に向かっています!」


 食い下がるヴィクトルに対し、教皇は悲しげに、だが慈愛に満ちた眼差しで彼を見つめた。


「たとえ遥か未来に終わりが待っていようとも、今、この国に住む人々はこの営みを愛し、信仰の中に幸福を見出しています。それだけで、国は、人は十分に満たされている。それ以上に何を望む必要があるのですか? 今を生きる我々は、この先にある未来と暖かな変化を絶ってはいけない」


 その瞬間、ヴィクトルの目に映る教皇の姿が変貌した。

 穏やかな賢者の仮面の裏側に、国の衰退を笑って受け入れる「悪魔」の顔を見た気がしたのだ。

 ヴィクトルにとって、それは救済の拒絶であり、未来への絶望であった。


『黎明の鎌』に集まった若者たちもまた、同じ絶望を共有する「殉教者」たちだった。


「私の母さんは、あの病で亡くなりました……。でも、還ったはずなのに、何も残らなかった。お墓に咲いた花はすぐに枯れて、母さんの記憶においさえもしなかった!」


 ある若き女性構成員は、不完全な還りがもたらした「無」に絶叫した。

 本来、カナンリスの死は遺された者への恵みであるはずなのに、彼女には何も届かなかったのだ。


 また、ある神学生は、古文書に記されたエヴァリアの惨状と現在のカナンリスを照らし合わせ、夜ごと恐怖に震えた。


「停滞は罪だ。美しく散ることを拒み、ただ長らえるだけの命に価値はない。……僕たちが、この腐った枝を切り落とさなければならないんだ」


 彼らは皆、かつては誰よりも敬虔な信徒であった。信じていたからこそ、裏切られた時の反動は鋭利な殺意へと変わった。

 彼らが掲げる『鎌』は、単なる武器ではない。

 それは、カナンリスという巨大な庭を救うための「剪定鋏」なのだ。


(ああ、そうだ。俺たちが地獄に落ちれば済む話だ)


 ヴィクトルは、今、目の前で銀の剣を抜いたアイリスを見据える。

 街を焼き、罪なき若者の命を刈り取る。

 

 その行為がどれほどおぞましい略奪であるか、彼ら自身が一番よく理解している。

 

 だが、その罪の意識さえも、彼らにとっては「国を救うための痛み」という甘美な殉教へと昇華されていた。


「エヴァリアの娘よ、笑うがいい。……だが、俺たちの正義は、お前のような余所者に汚されてたまるものか。貴様らの、二の舞になってたまるか」


 ヴィクトルが鎌を構え直す。その背後に控える若者たちの心音は、狂気と使命感が入り混じった、恐ろしいほどに純粋で高温な旋律を奏でていた。


 ヴィクトルの号令と共に、若き構成員たちが一斉に地を蹴った。

 彼らの手にする鎌は、かつては慈しみを持って大樹を整えるための道具であったが、今は迷いなき殺意を宿した銀光となってアイリスへと殺到する。


「下がってください!」


 アイリスの声が静断の間に響く。

 儀式を見守っていた家族たちは、突如として訪れた暴力の嵐に逃げ惑い、互いを庇い合いながら聖堂の隅へと追いやられる。

 それまで厳かに聖歌を口にしていた司祭たちは、慌てて教皇の元へと駆け寄った。


「教皇様、早くこちらへ! 地下通路へお急ぎください!」


 必死に教皇の腕を引く司祭。

 だが、カナンリスの頂点に立つその男は、一歩も動こうとはしなかった。

 ただ、包み込むような燐光に消えゆく老人たちの平穏を見つめ、静かに、しかし峻烈な意志を込めて答える。


「ここで死ぬならば、それもまた一つの運命です。……もし私が今日刈り取られるというのなら、それは未来が、新たな土を求めたということに他ならない。私はただ、すべてを託すだけです」


「教皇……!」


 司祭が絶望に声を上げる中、戦いの中心ではアイリスが孤軍奮闘していた。

 視界を閉ざした銀髪の少女は、襲いかかる数人の構成員たちの「気配」を、波紋のように捉えていた。


 一人の若者が叫びと共に鎌を振り下ろす。

 アイリスは『始祖の剣』の平でその斬撃を真正面から受け止めた。

 キィィィン、と耳を劈く金属音が響き、鎌の刃がアイリスの膂力に弾き返される。


(……この人たちの拍動は、嘘ではない)


 剣を通じて伝わるのは、憎しみではない。

 この国を救わねばならないという、痛々しいほどに焦燥した正義の熱だ。

 だからこそ、アイリスは刃を返さなかった。

 たとえ殺戮を犯した罪に変わりなくても、何かを強く感じ取ってしまったのだ。


「はぁっ!」


 アイリスは剣の重みを活かして相手の体勢を崩すと、左手に携えた鉄の杖を槍のように突き出した。

 鋭い一撃が構成員の腹部を正確に捉え、肺の空気を強制的に吐き出させる。


 「ぐはっ……」 呻き声を上げて崩れ落ちる若者。

 アイリスは流れるような動作で次の一人の鎌を剣の鍔で受け流し、その腕の関節を杖の柄で強打して、武器を石床へと叩き落とした。


 一人、また一人と、構成員たちが戦闘不能に陥っていく。

 アイリスは決して致命傷を与えない。ただ、この暴走した熱を、物理的な痛みによって冷却していく。


 気づけば、立っているのはヴィクトル一人だけだった。


「なぜだ……なぜ、そこまでしてこの停滞した国を、老いた教皇を護る!」


 ヴィクトルが咆哮する。

 彼は自らの鎌を振り回し、狂ったようにアイリスへと打ちかかった。

 火花が散り、鋼と鋼がぶつかり合う。

 ヴィクトルの攻撃は洗練されていた。

 庭師として鍛えられた正確無比な太刀筋。

 だが、アイリスとの間には、積み上げてきた地獄の厚みが違いすぎた。


「停滞を護っているのではありません」


 アイリスはヴィクトルの猛攻を紙一重で見切り、剣を振るう。


「私は、あなたが壊そうとしている『音』を護りたいだけです!」


 圧倒的な実力の差。ヴィクトルは、自分の渾身の一撃が、少女の細い腕一本で軽々と受け止められるたびに、心に絶望の影が広がっていくのを感じた。


(……これでは、届かない。俺たちの革命は、ここで終わるのか?)


 だが、ヴィクトルの瞳に宿る光は消えなかった。

 彼は懐から奇妙な黒い筒を取り出すと、それを自らの足元へと叩きつけた。


「死なせてたまるか……未来のために!」


 ――ドォォォォンッ!!


 激しい爆発音と共に、視界を完全に遮るほどの濃密な煙幕が静断の間に充満した。


 さらに、鼻を突く刺激臭と微かな火薬の熱。アイリスの鋭敏すぎる感覚が、過剰な情報に一瞬だけ麻痺する。音が乱れ、気配が霧散する。


「ヴィクトル……!」


 アイリスが風を切って煙を払い、感覚を立て直した時には、すでに数秒が経過していた。


 煙が薄れ、再び世界の輪郭が戻ってくる。

 だが、そこにヴィクトルの姿はなかった。そして――。


「……いない」


 アイリスが杖を突いて確認する。そこには、さっきまで確かに座していたはずの教皇の気配も、彼を囲んでいた司祭たちの姿も、忽然と消えていた。

 残されたのは、聖樹に包まれて「還元」を終えた老人たちの亡骸と、静まり返った聖堂の冷たい沈黙だけだった。


「教皇様!? アイリス様、あの方はどこへ……!?」


 家族を連れて身を潜めていた司祭の一人が、狼狽しながら駆け寄ってくる。

 アイリスは、開け放たれた扉から吹き込む風の匂いを嗅いだ。

 そこには、ヴィクトルたちの焦燥した匂いと、何よりも強く、街全体を焼き尽くさんとする猛火の臭気が混じっていた。


 戦いは、聖堂から都アンシェの「街」へと、その舞台を移そうとしていた。

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