第36話:『甘い生命の花の香り』
カナンリスの街道は、呼吸する大動脈のようだった。
村を離れてから数刻。アイリスの耳に届く音の密度は、昨日までのそれとは劇的に変化していた。背後から近づき、風を切って追い越していくのは、いくつもの馬車の車輪が地を噛む音だ。
(……この活気。フェルゼンのそれとも、どこか違う)
交易都市フェルゼンの喧騒は、欲望がぶつかり合い、火花を散らすような、乾いた鉄と金の響きだった。言い換えればとても活気とエネルギーに満ち溢れていた。だが、この国を流れる活気は、もっと有機的で瑞々しい。 追い越していく荷馬車からは、積み上げられた新鮮な野菜の瑞々しい匂いや、染め上げられたばかりの布の香りが漂う。時折、行軍する兵士たちの鎧が擦れ合う硬質な音が混じるが、それさえもこの国の「循環」を守るための、必要不可欠な歯車の音のように聞こえた。
アイリスは立ち止まり、懐から取り出した地図の表面を指先で丁寧になぞった。 羊皮紙に刻まれた微かな凹凸が、頭の中に道筋を浮かび上がらせる。ミレーヌが教えてくれた指の動きを反芻し、彼女は再び杖を突いた。
「――おや、旅の人かい? 盲目でここまで来るとは、大した度胸だ」
不意に、前方から穏やかな、だが力強い声がかけられた。 アイリスが足を止めると、数人の男女が彼女を囲むように立ち止まったのが分かった。彼らがまとう空気は、外の国のような警戒心ではなく、純粋な驚きと親愛に満ちている。
「よくぞカナンリスへ。デメテラ様への巡礼だろう? 聖樹の都を目指しているのかい?」
巡礼。 ミレーヌも口にしたその言葉が、再びアイリスに向けられる。 アイリスは一瞬、言葉に詰まった。自分自身の本当の目的――エヴァリアが失った。この世界の「終わり」というものの意味を探すこと、そして一族が記憶してきた「死」の真実を確かめること。そんな哲学的で血の匂いのする目的を、この陽光の下で口にすることはできなかった。もし正直に語れば、この温かな円環を乱す不吉な異分子として、彼らを怯えさせてしまうだろう。
だが、この国が信仰する「デメテラの教え」そのものには、アイリスも深く心を動かされていた。 終わりは「死」である。しかし、死というものには、出会う場所によってこれほどまでに違う形と物語がある。
(マーサ様が言っていたことが本当なら……。この国の死は、確かに未来へ繋がっている)
エヴァリアでは「停滞」を、エンド・ロアでは「慈悲」を、フェルゼンでは「対価」を、そしてここでは「継承」を見た。 アイリスは、自らの内に芽生え始めたこの国への敬意を込めて、静かに頷いた。
「……はい。この国の教えと、聖樹の導きを求めて参りました」
嘘ではなかった。彼女は確かに、答えという名の導きを求めている。
「そうか、そうか! それなら話が早い。俺たちもちょうどアンシェの都へ戻るところなんだ。一緒に行こうじゃないか」
男が快活に笑うと、アイリスの手に、小さくて柔らかな温もりが触れた。
「お姉ちゃん、こっちだよ。私が手を引いてあげる」
それは、十歳にも満たないであろう少女の声だった。 少女は、アイリスの指先を迷いなく、それでいて壊れ物を扱うような優しさで包み込んだ。彼女にとって、盲目の旅人の手を引くという行為は、特別な「施し」ではなく、大樹が根を張るのと同じくらい自然な、当たり前の営みであるようだった。無垢な純粋な優しさである。
「ありがとう……。助かります」
「ううん。お姉ちゃん、髪の毛がとっても綺麗だね。月の光みたい。……あ、でも今は太陽の方が眩しいかな?」
少女の無邪気な声に導かれ、アイリスの歩調は自然と軽くなった。 杖を突く回数が減り、少女の手のひらから伝わる確かな鼓動と体温が、アイリスの「内なる眼」を補完していく。
街道の左右からは、よりいっそう濃密な、むせ返るような緑の香りが押し寄せてきた。 やがて、人々の話し声が合唱のように重なり、巨大な門が風を遮る重厚な響きを立てる。 アイリスの足裏に届く感触が、踏み固められた土から、磨き抜かれた石畳へと変わった。
(着いた……)
少女の手が、少しだけ強く握られる。 その先に待っているのは、カナンリスの心臓部。黄金の円環の象徴である聖樹がそびえる、主要街アンシェ。 アイリスは、都が放つ圧倒的な「生」の圧力に圧倒されながらも、その門をくぐり抜けた。
都アンシェの門をくぐり抜けると、そこは色彩の奔流が音となって押し寄せるような場所だった。
「わあ、お姉ちゃん見て! ……あ、ごめんね。ええと、すごく賑やかだよ!」
先導する少女・リリの声が弾む。アイリスの耳に届くのは、市場の売り子たちが上げる威勢のいい声、広場の中央で上がる噴水の、細かな飛沫が石畳を叩く涼やかな音。そして、幾千もの足音が織りなす、この国独特の「営み」の調べだ。 フェルゼンのような金属質の、あるいはエンド・ロアのような澱んだ空気はどこにもない。エヴァリアとは異なる「美しさの調べ」。ここにあるのは、命が誰かのために使われ、循環していくことへの誇りに満ちた、清冽な大気の震動だった。
都の人々の視線は、確かにアイリスの銀髪や瞳の布に向けられたが、そこに刺々しい好奇心は少なかった。この国において、外から来る旅人や、祈りを捧げに来る「巡礼者」は日常の一部なのだろう。
「お姉ちゃんは、どこから来たの?」
リリがアイリスの手を揺らしながら尋ねる。アイリスは少し迷ったあと、静かに答えた。
「……フェルゼンから、参りました」
その瞬間、一緒に歩いていた男――リリの父親だろうか――が、驚いたように声を上げた。
「なに? フェルゼンからだって? お嬢ちゃん、それじゃあ、あの険しい山脈を越えてきたのか。目が見えないというのに……あそこは獣や魔物が溢れていて、屈強な傭兵だって避ける場所だ。どうりで、その服の汚れも納得がいくな」
「……他に、道があったのですか?」
アイリスの問いに、男は感心したように、あるいは呆れたように笑った。
「あるさ。巡礼者や商人が、わざわざあんな命知らずな道は選ばんよ。時間はかかるが、山を大きく迂回して、先人たちが安全を確かめながら紡いできた開拓ルートがあるのさ。歴史的にあの一帯は魔物の巣窟だからな。……そこを真っ直ぐ突っ切ってくるとは、人は見かけによらないもんだ」
「お姉ちゃん、もしかして、戦う人なの?」
リリの問いは、アイリスの背で沈黙する『始祖の剣』に向けられていた。衣服の汚れとは対照的に、手入れの行き届いた剣の存在感は隠しようがない。
「……ええ。少しだけ」
アイリスは短く答えた。男はまじまじとアイリスの気配を見つめ直したようだったが、やがて愉快そうに鼻を鳴らした。
「目が見えずとも剣を振るい、あの死の山を越えてくるか。なるほど。巡礼者には、時として聖騎士のような御仁も混じるというが……」
たわいもない会話を交わしながら歩く時間は、アイリスにとって、旅に出てから最も穏やかなひとときだった。目が機能せずとも、足裏から伝わる石畳の確かな反動、道端で焼かれるパンの香ばしさ、行き交う様々な料理や酒の香り。そして隣を歩くリリの無垢な拍動。それらすべてが、カナンリスという国が持つ「生の厚み」を証明していた。
やがて、都の喧騒が一段と静まり、代わりに深い森の静寂が混じり合う場所へと辿り着いた。
「着いたよ。ここが私たちの聖堂なんだ」
そこは、アイリスが想像していた石造りの厳格な建物ではなかった。 内なる眼が捉えたのは、大地からせり出した根や枝が編み上げられ、自然に形作られたような巨大なドーム状の空間。柔らかな緑のカーテンに包まれ、建物の輪郭そのものが呼吸しているような不思議な聖域。
「女神デメテラ様は、人を選ばない。だから、ここに入るのに信仰を証明する証なんていらないんだよ」
男が教えるように言った。 「巡礼者のための宿舎や寝所もこの近くにある。まずはそこで旅の汚れを落とすといい。司祭様も、あなたのような旅人の話なら喜んで聞いてくれるはずだ」
アイリスは、案内してくれた家族に向けて深く頭を下げた。
「ありがとうございます。皆さんの親切に、どれほど救われたか……」
「これ、お姉ちゃんにあげる」
別れ際、リリがアイリスの掌にそっと「何か」を乗せた。 それは、まだ露を含んだような、瑞々しくも繊細な感触の花だった。
「これね、私のおばあちゃんが咲かせてくれたんだよ」
少女の言葉に、アイリスは一瞬指先を震わせた。 それは比喩ではない。亡くなった祖母をこの地の土に還し、その記憶を糧として咲き誇った、文字通りの「命の結晶」なのだ。
「とっても優しくて、甘い香りがするでしょう?」
リリの言う通り、その花からは、老人の慈愛を煮詰めたような、どこか懐かしくも温かい芳香が立ち上っていた。アイリスは花を大切に包み込み、鼻先へ寄せた。死がこれほどまでに優しく、芳しいものになり得るのだと、彼女はまた一つ、答えを拾い上げた。
家族の足音が遠ざかっていくのを見送ったあと、アイリスは聖堂の入り口へと向き直った。 緑の天蓋が風に揺れ、招き入れるように静かな音を立てる。 アイリスは杖を突き、新たな教えが待つ聖域の中へと、静かに足を踏み入れた。




