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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
記憶の循環と完熟の果実
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第37話:『完熟した命』

 聖堂の内部は、外の喧騒を吸い込んだかのような深い静寂に満ちていた。

天井高くから降り注ぐのは、木の葉を透かして届く柔らかな陽光と、冷んやりとした清浄な空気の調べだ。アイリスが杖を突く音は、磨き抜かれた木の床に吸い込まれ、波紋のように緩やかに広がっていく。


「遠くからようこそ、巡礼の旅人よ」


 声は、正面の祭壇と思わしき場所から響いた。

 それは長い年月を経て角が取れた石のように丸く、それでいて揺るぎない芯の強さを感じさせる、一人の司祭のものだった。アイリスが足を止め、深々と頭を下げると、微かな布の擦れる音が近づいてくる。


「女神デメテラのかいなの中へ。……あなたの足音には、この国ではあまり聞き慣れぬ『白銀の霧』の匂いが混じっていますね。エヴァリアからお越しかな?」


 アイリスは微かに息を呑んだ。盲目であることや旅の汚れだけでなく、自らの出身までを一息で見抜かれたことに驚きを隠せなかった。


「……はい。ご賢察の通りです」


「驚くことはありません。私たちは土を愛でる者。土に混ざる異国の微かな砂粒や、風が運ぶ凍った空気を読み取るのは、この聖域を守る者の努めですから」


 司祭は、アイリスの緊張を解くように穏やかに続けた。


「エヴァリア……月の女神が守護する、美しくも静謐な不死の国。あちらの女神が授ける『加護』は、私たちの『円環』とはまた異なる、一つの完成された愛の形だと聞き及んでいます。死を遠ざけることで命を慈しむ。……それもまた、尊き祈りの一つなのでしょう」


「信仰を、否定されないのですか?」


 アイリスの問いに、司祭は微かに笑った気配を見せた。


「女神メンデスは、命を選ばれません。あらゆる種が芽吹くことを望み、あらゆる実りが等しく土に還ることを待たれる。隣の庭に咲く花の色が違うからといって、それを踏みにじるのは庭師のすることではありませんから」


 司祭は、アイリスの背にある剣の存在にも気づいているはずだった。だが、それを咎める様子も、不浄なものとして扱う様子も一切ない。


「本来であれば、我が国の教皇が直接あなたをお迎えすべきなのですが、生憎と数日後に控えた『収穫祭』の準備のために席を外しておりまして。……代わりと言っては何ですが、まずはその旅のすすを落とし、羽を休めてください。巡礼の真髄とは、まず己を空っぽにすることから始まります」


「……お心遣い、感謝いたします」


 司祭の合図で、一人の若い修道女がアイリスの傍らに歩み寄った。

 彼女の案内で聖堂の回廊を抜けると、巡礼者たちが集う宿舎が見えてきた。そこには、各地から集まった信徒たちの祈りの声や、食事の匂いが満ちていたが、案内されたのはその賑わいから少し離れた奥の部屋だった。


「こちらをお使いください。お一人でゆっくりされた方が、お身体も休まるでしょう?」


 修道女の気遣いは、押し付けがましくなく、それでいてアイリスの盲目ゆえの機微を察していた。扉が開いた部屋からは、乾燥させた香草の爽やかな香りが漂う。


「さあ、まずはそのお洋服をお預かりしますね。外套も一緒に。私たちの手で清め、朝までには乾かしておきます。代わりに、こちらの柔らかな寝着をお召しください」


 アイリスは、戸惑いながらも外套を脱ぎ、大切に預けた。外の世界で常に彼女を守ってきたその布が手放される瞬間、不思議な無防備さと恥ずかしさ、それ以上に大きな「解放感」が訪れる。


「今、カナンリスの郷土料理も運んで参ります。根菜と木の実を女神の恵みのスープで煮込んだ、身体を芯から温めるものです。質素ではありますが、今のあなたには何よりの薬になるはずですよ」


 アイリスは、部屋の中央にある簡素ながらも手触りの良い椅子に腰を下ろした。 彼女が抱いていた「聖職者」というもののイメージは、エンド・ロアのベネディクトのような、どこか死の影を纏ったストイックなものであった。


 あるいは、エヴァリアの厳格な執行官たちのような。 だが、このカナンリスの聖堂にあるのは、驚くほどの「生活の温もり」と、他者を受け入れることへの絶対的な余裕だった。


(……聖なる場所とは、もっと冷たく、厳かなものだと思っていた)


 修道女が去ったあとの静寂の中で、アイリスは自らの指先を見つめた。

 提供される料理も、洗ってくれる衣類も、すべてはこの国の「循環」の一部なのだ。 甘やかでさえあるこの国の善意に包まれながら、アイリスの心は、かつてないほど穏やかに凪いでいた。


 修道女が静かに差し出した膳には、この国の土が育んだ命の結晶が並んでいた。


 アイリスは背筋を正し、一族の作法に従って静かに箸を取る。視覚を持たぬ彼女にとって、食事とは味覚以上に、その食材が経てきた「時間の振動」を直接体内に取り込む行為に等しかった。 スープを一口含んだ瞬間、脳裏に瑞々しい情景が弾ける。


(……これは、土の記憶)


 それは、人の死から成る実りだけではない。野に咲き誇り、その役目を終えて土に伏した名もなき草花。森を駆け抜け、やがて大樹の根元で眠りについた獣たち。


 それら万物の「終わりの余韻」が、幾層にも重なり合い、深く芳醇な滋味となって彼女の五感を満たしていく。 贅沢な味ではない。だが、そこには一切の無駄がない。すべての死が次の生への資材となる「敬虔な豊かさ」が、そこにはあった。


 不意に、アイリスの手が止まった。 自らの背後に立てかけられた『始祖の剣』。その刃がもたらすのは、このような美しい循環ではない。


 彼女の剣が切り裂くのは再生の理であり、その後に残るのは、土に還ることさえ許されない「絶対的な虚無」だ。


 命を繋ぐこの国の豊かさに触れるほど、自分の持つ力が、この優しい世界を根本から否定する「冷たい断絶」であるという事実が、重く心に沈殿していく。


 食後、彼女は部屋の窓を静かに開けた。


 夜のアンシェは、収穫祭を目前に控えた高揚感に包まれていた。遠くから聞こえる楽器の音、人々の笑い声、石畳を叩く賑やかな足音。 だが、その祝祭の旋律に混じって、鋭利な不協和音が彼女の耳を突いた。


 ――カツ、カツ、と。


 規律正しく、それでいて急かすような乾いた足音。宿舎の真下の通りを通り過ぎる数人の気配。それは村の夜に感じた『黎明の鎌』の下っ端たちのものだった。彼らの心音は酒の熱に浮かされ、どす黒い野心を孕んで震えている。


「……聞いたか。今回の収穫祭こそが、俺たちの真価を示す好機だ」 「ああ。教皇の選別はあまりに緩い。熟しきって枯れるのを待つなど、女神の庭を腐らせるだけだ。我らの鎌こそが、最高の『旬』を刈り取るべきなのだ」


 不穏な言葉が闇に溶け、足音が遠ざかっていく。アイリスは眉をひそめた。自ら終わりを選ぶことが誉れとされるこの国で、その「時期」を強制的に奪おうとする者たちの意志。それは、彼女が知るどの死の形とも違う、傲慢な略奪の響きがした。


「失礼いたします、アイリス様」


 控えめなノックの音と共に、司祭が再び姿を現した。


「お洋服は今、丁寧に洗い清めております。夜の冷気が残らぬよう、明日の朝、陽が昇る頃にお返ししましょう。……お加減はいかがですか?」


「……ありがとうございます。とても、温かな夕食でした」


 アイリスは一呼吸置き、ずっと胸に引っかかっていた問いを口にした。


「司祭様。……皆さんが楽しみにされている『収穫祭』とは、どのような儀式なのですか? 私がいた国では、祭りと死が結びつくことはありませんでした」


 司祭は、窓から入り込む夜風を慈しむように受け止めながら、静かに語り始めた。


「それは、自らの意志で大樹へと還ることを選んだ『完熟した命』を祝う場所です」


「自らの、意志で……?」


「ええ。人生の旅路を十分に歩み、その知恵と想いが必要な後世に手渡せるほどに満ちたと悟った者が、自ら土への贈物となる。カナンリスにおいて、老いて枯れるのを待つのは忍びないこと。人生が最も美しく完成した瞬間に自ら終止符を打つことこそが、最高の名誉であり、女神への最大の奉納なのです」


 アイリスの身体に、静かな衝撃が走った。 エヴァリアでは、死は「奪われるもの」であり、逃れるべき禁忌だった。 だがここでは、死は「自ら捧げるもの」であり、完成の証なのだ。


(終わることを、人々が望んでいる……)


 司祭が去ったあと、アイリスは外套のない、頼りない肩を抱いた。 もし、この国の住人が自ら「終わり」を望んでいるのだとしたら。自分の持つ、因果さえも断ち切る『始祖の剣』は、彼らにとって究極の救済として映ってしまうのではないか。


 終わりを望む。エンド・ロアという吹き溜まりに流れ着いた人々と《《願いの言葉》》は同じである。しかし少し紐解けば意味が変わる。彼らが終わりを望むことを「苦しみからの救済」としていたことに対し、この国は「未来への還元」としている。その違いと意味合いを深く理解するには、まだアイリス自身。材料が足りていないのだろう。


 しかし、先ほど耳にした『黎明の鎌』の殺意は、決してそのような清らかなものではなかった。


 都を包む甘い花の香りの奥に、鋭く冷たい金属の匂いが混じり始めている。


 アイリスは、枕元に置かれたままの銀の柄を指先でなぞった。

 その黄金色の光の中で、自分が何を成すべきか。 答えの出ぬまま、アイリスは深く、祈るような眠りへと沈んでいった。

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