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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
記憶の循環と完熟の果実
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第35話:『ただ純粋な温もり』

「頂きます」その果実を口に含んだ瞬間、アイリスの意識は「個」という輪郭を失い、黄金色の奔流へと飲み込まれた。


 舌の上で弾ける果肉は、単なる栄養の塊ではなかった。それは、かつてこの地を歩み、誰かを愛し、土を耕した一人の老人の「時間」そのものだった。 アイリスの脳裏に、自身の経験ではないはずの情景が、色彩を持たぬはずの「内なる眼」に鮮烈な光として流れ込んでくる。


 ――朝靄の中、湿った土を素手で弄る感触。

 ――収穫を終えた夕暮れ、隣で笑う家族の拍動。

 ――老いゆえに少しずつ指先が震え、己の生が終わりへと向かう際の、透き通った充実の安堵。


 それは決して、死という断絶への恐怖ではない。むしろ、自らの記憶が甘い蜜となり、愛する者たちの血肉に混ざり合うことへの、この上ない祝福。 アイリスは、自分が飲み込んだものが「死」であると同時に、あまりに温かな「生の継承」であることを知った。


(これが……この国の死。誰かの中で、溶けて生き続けるということ……)


「死神」という言葉が、かつて自分に投げかけられたとき、そこには常に「拒絶」と「恐怖」の響きがあった。しかしこの場所では、死を与えることは「恵み」を授けることと同義だ。 アイリスの背で沈黙を保つ『始祖の剣』。その絶対的な「終わり」の力は、この黄金の円環の中でどのような音を奏でるのか。もし、すべてが土へと還るこの国で、すべてを虚無に帰す彼女の刃を抜けば、それは救済なのか、それとも取り返しのつかない「欠落」を生む大罪なのか。 新たな問いが、果実の甘みと共に彼女の胸に沈殿していった。獣肉や魔物肉を食らった時にはその意味をしっかりと噛み締める余裕がなかった「命を頂く」と言う感覚。


「口に合ったようだね、旅人さん」


 案内役の女性――ミレーヌと名乗った彼女は、アイリスの衣服の汚れを気にするように払いながら、穏やかに笑った。


「さあ、案内するよ。今日は村の宿屋でゆっくり休むといい。ここはカナンリスの玄関口。山を越えてきたあなたのような人たちのために、少しばかりの寝床と、女神の恵みは絶やさないようにしているのさ」


 アイリスは杖を突き、ミレーヌの後に続いた。 村を歩けば、どこからか楽しげな歌が聞こえてくる。肥沃な土の匂い、風に乗って運ばれる花の種、それらすべてが、一つの巨大な生命体のように呼吸を合わせていた。 だが、その完璧な調和の中に、アイリスの鋭敏な感覚は「わずかな歪み」を聴き取っていた。


 それは、あまりにも緩やかすぎる時間の流れだ。 昨日と今日が同じように巡り、明日もまた同じ結実が約束されている。ここにはエヴァリアのような「死の不在」による歪みはない。だが、完璧な循環がゆえに、世界がそれ以上の変化を拒んでいるような、甘やかな倦怠感が大気に漂っている。決して悪くはない、むしろこの国で留まり続けたいとさえ思ってしまうほどに。


「ねえ、ミレーヌさん。……この村は、ずっとこうして穏やかなのですか?」


 アイリスの問いに、ミレーヌは少しだけ足を止めた。


「ええ、もちろん。村だけじゃあない。この小さな国全体がね。女神デメテラの円環は揺るぎない。……もっとも、最近の若い子たちの中には、この『緩やかさ』が退屈だなんて言う者もいるけれどね」


 ミレーヌの声に、微かな苦笑が混じる。


「『黎明のドーン・リーパー』……なんて、不吉な名前を名乗る連中が、近隣の大きな街にはいるらしいわ。命が熟して落ちるのを待てない、せっかちな庭師たちの集まりさ。彼らは、もっと効率的に、もっと瑞々しいうちに命を『収穫』すべきだなんて説いているそうだけど」


 ミレーヌは肩をすくめ、再び歩き出した。


「まあ、所詮は血気盛んな若者の風の噂よ。このカナンリスの豊かさを前にして、誰がそんな急ぎ足の死を望むものかね」


 案内されたのは、蔦の絡まる小さな木造りの宿屋だった。入り口の扉が開くと、パンの焼ける香ばしい匂いと、葡萄の香り。旅人たちの話し声が飛び込んでくる。 カナンリスは他国との交易も盛んで、その肥沃な土地が生む品々は、遠く離れたエヴァリアの市場でさえも「北の楽園」として噂されていた。 アイリスは、かつてマーサの店先で聞いた商人の話をぼんやりと思い出す。


(誰もが、ここは楽園だと言っていた。……確かに、ここは温かい)


 案内された部屋のベッドは、手入れの行き届いた草の匂いがした。 アイリスは腰を下ろし、ようやく深く息を吐く。 山道での死闘、空になった胃袋、凍えるような孤独。 それらが、この村の穏やかな拍動の中に溶けていく。 だが、目を閉じれば、掌に残るあの果実の「脈動」がまだ熱く残っている。


 カナンリスの夜は、生命の吐息そのものだった。


 宿の窓から流れ込む風には、夜にしか開かぬ花の芳香と、昼の太陽をたっぷりと吸い込んだ土の熱が混じり合っていた。アイリスは寝台の上に身体を預け、その濃密な夜の気配を全身で受け止めていた。


(……ああ、私、生きている)


 ふとした瞬間にこぼれ落ちたのは、独白とも吐息ともつかぬ柔らかな言葉だった。 これまでの旅は、常に欠落した何かを埋めるための彷徨だった。エヴァリアの死のない静寂、エンド・ロアの腐敗した絶望、フェルゼンの欲望に塗れた喧騒。どこへ行っても、アイリスの心は張り詰めた弦のように震え、休まることを知らなかった。


 だが、この場所はどうだろう。 盲目の彼女にとって、カナンリスの夜は漆黒の闇ではなく、無数の命が発する微細な振動の集積だった。風に揺れる葉の摩擦音、地中を這う虫たちの微かな脈動、そして村全体の穏やかな寝息。

 それらすべてが、アイリスという存在を優しく全肯定しているように感じられた。 それは、かつてマーサの香草の香りに包まれていた幼き日の平穏に、どこか似ていた。目を覆う布をほどき、彼女は純白な瞳で穏やかな森羅と風を愉しんでいた。


 不意に、宿の外を通り過ぎる「異質な振動」がアイリスの耳を打った。 穏やかな村の呼吸を乱すような、複数の荒い足取り。そして、隠しきれない昂揚感を孕んだ低い声が、夜の静寂を切り裂いて宿の壁を伝ってくる。


「――おい、聞きなよ。もうすぐだ。デメテラの円環なんて古い殻は、俺たちがこの手で叩き壊してやるんだ」 「静かにしろ……。酒が入っているとはいえ、声がでかい。だが、その通りだ。瑞々しい『旬』を無駄に土に返すなど、この国の損失以外の何物でもない。……『黎明の鎌』こそが、この停滞を加速させる刃になる」


 彼らは少し酔っているのだろうか。言葉の端々に隠しきれない特権意識と、危うい熱狂が滲んでいる。 アイリスは暗闇の中でじっと耳を澄ませた。ミレーヌが話していた、若き急進派たちの実体。彼らはこの美しい循環を「停滞」と呼び、自らの手で「死」を加速させようとしている。


(加速する、死……)


 かつてのアイリスなら、その不穏な気配を追ったかもしれない。だが、今の彼女は、ただ静かに瞼を閉じた。

 彼女は「正義の味方」ではなく、一介の旅人だ。この国に受け入れられ、ようやく得た安息を、自ら手放す理由はどこにもない。この国の人々が信じ、築き上げてきた歴史の陰で、どのような淀みが生まれていようとも、それはこの国自身が向き合うべき課題なのだ。

 何より、今はただ、この草の匂いと温かな平穏を、一分一秒でも長く守りたかった。自らが剣を振るって壊してしまうなんてあってはならない。


 翌朝、カナンリスの陽光は、鳥たちの囀と共にアイリスの頬を撫でた。 階下へ降りると、そこにはすでに支度を整えたミレーヌが、明るい笑顔で待っていた。


「おはよう、旅人さん。よく眠れたようだね。顔色が昨日よりずっといい」


「はい。……本当に、素晴らしい夜でした」


 ミレーヌは満足そうに頷くと、テーブルの上に広げた古びた地図を指差した。アイリスの指先をそっと取り、今いる場所とその場所を教える。


「この村をさらに北東へ進めば、カナンリスの主要街である『聖樹の都・アンシェ』へ辿り着くわ。そこにはより大きな聖木があり、女神デメテラの教えを司る司祭様たちもいる。あなたのような《《巡礼者》》なら、きっと歓迎されるはずよ」


 アイリスは教えられた方向に指を滑らせ、道筋を記憶に刻んだ。 ふと、彼女は重要なことに気づき、歩みを止めた。自分の懐には、宿の代金を払えるような通貨が残っていない。フェルゼンの騒動を経て、彼女が持っているのはシビュラのパンの包み紙と、使い古した旅の道具だけだった。


(……どうしましょう。何か、代わりになるものは……)


 アイリスが慌てて外套の内ポケットを探ろうとした時、ミレーヌがその動きを優しく制した。


「心配しなくていいわ。ここの宿の店主には、私から話をつけておいたから。昨日あなたが食べてくれた『果実』の分も、お代なんていらないわよ」


「ですが、それではあまりに……」


「いいのよ」 ミレーヌはアイリスの銀髪を優しく見つめ、慈しむように言った。 「あなたのその容姿、そしてその立ち振る舞い……。きっと、とても遠い国から、誰にも言えない重荷を背負ってここまで来たんでしょう? 女神の庭に辿り着いたばかりの旅人に、そんな世知辛いことはさせられないわ」


 その言葉には、一切の悪意も、下心も、見返りを求める打算もなかった。 それは、自らもいつか大地へと還り、誰かの糧になることを当然と受け入れている者だけが持つ、無尽蔵の慈愛だった。


 アイリスは、胸の奥が熱くなるのを感じた。 エヴァリアを出てから、多くの人に出会った。利用しようとする者、救おうとする者、恐れる者。だが、これほどまでに透明で、穏やかな「善意」に触れたのは初めてだったかもしれない。


 アイリスは背筋を正し、杖をしっかりと握り直すと、ミレーヌに向けて深く、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。このご恩と、頂いた命の温もり、決して忘れません」


「元気でね、お嬢さん。女神の円環が、あなたの旅路を守ってくれますように」


 ミレーヌの温かな拍動を背に受けながら、アイリスは宿を後にした。 目指すは、カナンリスの中心。 黄金色の光が降り注ぐ街道を、アイリスは一歩ずつ、慈愛の余韻を噛み締めながら歩み始めた。

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