第34話:『黄金色の果実』
世界は、摩耗していく音に満ちていた。
アイリスがフェルゼンの外殻を抜けてから、どれほどの時が流れただろうか。太陽の熱が幾度天を巡り、冷たい月光が何度その身をなぞったのか、すでに定かではない。時間という概念は、一歩を踏み出すたびに踵を打つ衝撃と、荒くなる呼気の中に溶け落ちていった。
あるいは、それはほんの数日の出来事だったのかもしれない。だが、視界を持たぬ彼女にとって、未踏の地を歩むということは、一刻が永遠にも等しい密度の「未知」を削り取っていく作業だった。
眼前に立ちはだかるのは、カナンリスとの国境を分かつ峻険な山脈である。 かつて故郷エヴァリアで、老いた語り部たちが口にしていた「山」という言葉。それは天を突くほどに高く、神の指先が触れる場所だと聞いていた。だが今、アイリスの足裏に届く「山」の真実は、語り部の夢想よりもゆるやかで、しかし遥かに残酷で、無慈悲な質量を伴っていた。
カツン、カツン、と。 杖が叩くのは、もはや柔らかな土ではない。緑の息吹を拒絶し、骨を剥き出しにしたような、乾いた岩肌の音だ。標高が上がるにつれ、大気から水分が奪われ、風は鋭利な刃物のように薄く、冷たくなっていく。
(……空気が、違う)
肺が焼けるように熱い。一息ごとに、心臓が肋骨の内側を激しく叩く。 エヴァリアの霧に守られた平原では、歩くことは呼吸と同じくらいに無意識な振る舞いだった。しかしここでは、わずかな重力でさえも敵意を持ってアイリスの身体を引きずり下ろそうとする。 足の裏は幾度も擦り剥け、神経を逆撫でするような鈍い疼きを繰り返していた。
道中、彼女は幾度も「彼ら」の洗礼を受けた。 あの『霧喰い』の同類や、飢えに狂った山の獣たち。 銀髪の盲目の少女。杖を頼りにふらつくその姿は、荒野の捕食者たちの眼には、天から降ってきた至高の供物に見えたことだろう。
だが、アイリスはそのたびに剣を抜いた。 襲い来る牙に対し、彼女は慈悲ではなく、生存のための「断絶」を突き立てた。 死闘のたびに、彼女の服は裂け、返り血が月光に濡れた。 休まらぬ休息。岩の陰に身を潜め、意識を絶つことすら許されぬ微睡みを幾度も重ねる。
ついに、シビュラが忍ばせてくれたパンは空になった。 最後のひと欠片を飲み込んだ時、アイリスはそこに残っていたわずかな香草の残り香を、この世界で唯一の、そして最後の「優しさ」であるかのように大切に肺へ溜め込んだ。
一度だけ、心が折れかけた夜があった。 生命の気配すら途絶えた、死した岩肌の窪み。 寒さと疲労に震える指先で、自らの瞳を覆う布をなぞったとき、ふと「自分はここで、誰にも知られず石になるのではないか」という予感に支配された。 エヴァリアを捨て、エンドロアで気付き、フェルゼンを壊し、北を目指す自分。 そこにあるのは救いなのか。それとも、ただ「死」という呪縛を広めるだけの歩みなのか。
(……いいえ。まだ、止まれません)
アイリスは、震える手で『始祖の剣』の柄を握りしめた。 少年がくれた「ありがとう、死神のお姉ちゃん」という言葉の響き。父とセヴェルスの気持ち。ベネディクトの優しさ。シビュラがくれたパンの弾力。 それらが、絶望の淵で彼女の魂を大地に繋ぎ止めていた。 彼女は、自分が終わらせた者たちの「続き」を背負っていた。ここで止まることは、彼らの生そのものを、無意味な無へと帰してしまうことに他ならない。
そして、その時は訪れた。
(――音が、変わった?)
岩を打つ風の音が、わずかに湿り気を帯び、旋律を変えた。 氷のように冷たかった風の先端に、微かな、だが力強い「生の匂い」が混じり始める。 それは、深い森が吐き出す濃密な酸素の香りであり、肥沃な土が太陽に温められた時に放つ、芳醇な生命の腐香だった。
杖を突いた先、硬い岩肌の隙間に、柔らかい「抵抗」を感じる。 それは、過酷な高度を耐え抜き、強引に根を張ったカナンリスの先触れ――瑞々しい苔の絨毯だった。
「……あ」
アイリスの唇から、震えるような吐息が漏れた。 足元から伝わってくるのは、もはや死した石の沈黙ではない。 数えきれないほどの根が土を抱き込み、無数の虫たちが蠢き、命が次から次へと塗り替えられていく、圧倒的なまでの「生の過密」が奏でる重低音。
乱雑な山道を越え、彼女の「内なる眼」が捉えたのは、眼下に広がる緑の海の震動だった。 それは、エヴァリアの停滞とも、フェルゼンの渇きとも違う、残酷なまでに美しい「循環」の音。
喜び、という言葉では足りなかった。 それは、死の淵を歩んだ者だけが聴き取ることのできる、世界の一番最初の産声に似ていた。アイリスは泥と血に汚れたまま、新たな国の香りを全身に浴びる。 そこは、豊穣の神が支配する地。 命が誰かの糧となり、死が果実として実る国。 アイリスは、静かに、しかし確かな足取りで、その緑の深淵へと下り始める。
山を下るにつれ、大気は急速にその密度を増していった。 乾いた岩肌が後退し、足裏に届く感触は、湿り気を帯びた腐葉土と、絡み合う無数の根の網目へと変わる。アイリスの杖が地面を打つたびに返ってくるのは、かつてないほど「騒がしく」、それでいて調和の取れた生命の反響だった。
そこは、豊穣国家カナンリスの入り口に位置する、ある小さな村だった。
(……温かい。でも、これは「熱」すぎる)
アイリスは足を止め、額を拭った。 森の奥から漂ってくるのは、むせ返るような花の香りと、熟しすぎた果実が放つ芳醇な発酵臭。エヴァリアの停滞した冷気とも、フェルゼンの渇いた金属音とも違う。ここは、あらゆる命が土壌の女神『デメテラ』の抱擁を受け、絶え間なく形を変え続ける「円環」の中だった。
「おや、旅人さんだ。……ひどい汚れだね。山を越えてきたのかい?」
朗らかな声が、アイリスの思考を遮った。 近づいてきたのは、農作業の合間だろうか、土の匂いをまとった村の女性だった。彼女の拍動は穏やかで、アイリスが盲目であることや、衣服の裂け目から見える過酷な旅の跡を、差別することなく、ただ「立ち寄った客人」として受け入れる度量があった。
「少し、休んでいきなさい。今日はちょうど、素晴らしい『収穫』があったところなんだ」
女性に導かれ、アイリスは村の広場へと足を踏み入れた。 そこから聞こえてくるのは、悲しみの呻きではない。穏やかな祝祭の歌と、何かが瑞々しく弾ける音。アイリスの「内なる眼」が捉えたのは、広場の中央にそびえる大樹の根元で、黄金色の光を放つように実った「記憶の果実」の振動だった。
アイリスは息を呑んだ。 このカナンリスにおいて、人は亡くなると大樹の根元へと還り、聖なる菌糸に抱かれ、その一生を凝縮した一つの果実へと姿を変える。死とは消滅ではなく、誰かの血肉となり、世界を彩るための「無償の贈与」なのだ。
私たちが獣の肉を食らい、大地の恵みを頂くように、この国の人々は愛する者の記憶を、文字通りその身に取り込んでいく。
「さあ、お嬢さん。お腹が空いているだろう?あなたにも、女神の慈悲を」
女性の手が、アイリスの掌に一つの果実を乗せた。 それは、驚くほど重く、陽だまりのような温かさを湛えていた。
「これは、つい昨日までこの村で一番の知恵者だった老人の実りだよ。彼がどれほど豊かな人生を送り、どれほど多くの人を愛したか。この実を食べれば、彼の優しさがあなたの力になる」
アイリスは震える指先で、その果実の輪郭をなぞった。 耳を澄ませば、果肉の奥から、穏やかな波のような「記憶の残響」が聞こえてくる。 エヴァリアでは、死なないことで自分という存在を繋ぎ止めていた。だが、ここでは**「終わることで完成し、誰かの中で生き続ける」**。
その概念は、アイリスが探していた「終わりの意味」に対する、一つの美しすぎる回答だった。
(……消えるのではない。形を変えて、愛する人を育む種になる)
アイリスは、掌の果実を口元へと運んだ。 繋いだ彼女の「生」が、今、カナンリスの「死」と混ざり合う。 その一口は、ただの食事ではなかった。それは、見知らぬ誰かの人生を受け継ぎ、彼女自身がこの黄金色の円環の一部となるための、静かな契約の味だった。




