第33話:『私の生』
フェルゼンの街が鳴らす、悲鳴と怒号の混じった不協和音。
それが完全に背後の闇へと吸い込まれ、大気の震えが「人工」から「自然」のそれへと塗り替えられたのは、街を出て数日ほど経ってからのことだった。
(……静か、ですね)
アイリスは杖を突き、深く息を吸い込んだ。
つい先ほどまで肺を焼いていた油と鉄の臭い、そして金貨を数える強欲な指先が立てる乾いた音は、もう聞こえない。代わって彼女を包み込むのは、背の高い針葉樹が空を覆う広大な森の、深く沈み込むような静寂だった。
視覚を奪われたアイリスにとって、方位とは地図上の記号ではない。
それは身体に刻まれる「温度」と「重さ」の座標だった。
アイリスは一度立ち止まり、顔を上げた。
右の頬に感じる陽光の熱が、緩やかに遠ざかっていくのを感じる。
背に受ける熱が最も強く、それが右へと逃げていくのなら、自分は今、北へと正しく背筋を伸ばしていることになる。
しかし、フェルゼンから北へ進むにつれ、その「熱」だけでは測れない変化が訪れていた。 風の中に混じる「水分の重さ」だ。 エヴァリアの霧が持つ、停滞し、腐敗を禁じられた重い湿り気とは違う。
まだほんの僅かではあるが、北から吹く風は、険しい山脈で冷やされ、純粋な命の匂い――湿った土と、力強く芽吹く植物の香りを運んでくる。
(北へ進むほど、空気の振動が細かくなっていく……。まるで、大地そのものが呼吸しているような音)
アイリスの鋭敏な聴覚は、遥か遠方の巨大な山嶺が放つ、音の反響を捉えていた。
それは低い唸りのような、世界の背骨が軋む音。
その音を目指して進むことが、今の彼女にとっての羅針盤だった。
不意に、アイリスは自分の外套の下に、出発前にはなかった「重み」を感じた。
内ポケットのあたりが、歩くたびに不自然に揺れている。彼女は足を止め、細い指先を外套の裏へと滑り込ませた。
指先に触れたのは、紙のようなもので包まれた、掌ほどの大きさの塊。
それを取り出し、そっと感覚を研ぎ澄ませる。
(……パン?)
包みを解くと、中から芳醇な香りが溢れ出した。
それはアイリスが故郷エヴァリアで口にしていた、生きるために最低限の栄養を固めたような無機質なパンとは、根本から異なっていた。
鼻をくすぐるのは、数種類の香草の爽やかな香りと、バターの濃厚な脂の甘み。指で触れれば、驚くほどふっくらとした弾力が返ってくる。
まだ、わずかに――本当にわずかに、誰かの体温のような温もりが残っていた。
それは一つではなかった。
包みの中には、大切に分けられた三つのパンが入っていた。
(シビュラさん……)
犯人の見当は、すぐについた。
あの皮肉屋の鑑定士以外に、アイリスの隙を突いてこんなものを忍び込ませる器用な真似ができる者はいない。
「ギルドの闇を暴いたことに対する、正当な『対価』……ということでしょうか」
アイリスは小さく呟き、口元を綻ばせた。
彼女がなぜ直接渡さず、こんな回りくどい真似をしたのか。その理由を探すのは野暮というものだろう。
これが安全であることは、疑うまでもなかった。
あの女は毒を吐くことはあっても、決して嘘はつかなかった。
アイリスにとって、シビュラの鑑定眼は、この外の世界で出会った中で最も信頼に値する「真実」の一つだった。
アイリスは、パンの端を小さく千切り、口に運んだ。
噛み締めるたびに、香草の香りが鼻に抜け、温かな滋味が身体の隅々へと染み渡っていく。
エヴァリアを離れ、ただ一人で「死神」としての業を背負い、歩いてきた。
「終わりを見つけるために」国を出た。エンドロアでの出来事も、道中の外の世界の、自然の洗礼も乗り越えてきた。
しかしフェルゼンで知ってしまった一族の由縁と真実の「断片」。終わりを見つけるはずが、終わらせる立場であったという事実。
吹っ切れた様に思えても、心のどこかで「死神」という言葉の響きだけがアイリスの心を掴もうと揺れていた。
けれど、今こうして、自分の知らない誰かの手によって、誰かを慈しむために作られた食べ物を口にしている。その事実が、凍てつきかけていたアイリスの心を、陽だまりのように温めていく。
(私は、一人ではないのかもしれない)
パンを飲み込むと、胃のあたりからじんわりとした熱が広がった。 それは次の一歩を踏み出すための、確かな活力となった。
アイリスは包みを丁寧に閉じ、再び外套の奥へと仕舞い込んだ。 杖の先が土を打つ音が、先ほどよりも少しだけ軽やかになる。
北。 命が土に還り、再び芽吹くという、未知なる円環の国。
シビュラの遺した温もりを道連れに、深い森の奥へと、迷いなくその足を進めていく。
アイリスが北の境界へと踏み込んだ直後だった。
それまで聞こえていた風のざわめきや、虫たちの微かな羽音が、まるで行列の火が消えるように一斉に絶たれた。
(……この感覚。エンド・ロアの澱みとも、フェルゼンの闇とも違う)
アイリスは杖を強く握り直した。
足元を流れる大地の鼓動が、不自然なほどに「凪いで」いる。
いや、凪いでいるのではない。
何かが、周囲の振動を無理やり食い潰しているのだ。
フェルゼン。その黄金の輝きは、周囲を囲む絶望的な危険地帯があるからこそ際立つ。 「生きて通過するため」に人々が金を払うこの街の周囲には、人智を超えた『魔』の理が蔓延っている。
今、アイリスの目の前に現れたのは、その氷山の一角であった。
「――っ!」
不意に、後頭部を冷たい指先でなぞられたような悪寒が走った。
殺意。それも、飢えた獣が放つ本能的なものではない。 「どの部位から、どんな悲鳴を上げさせて喰らおうか」と品定めするような、どろりとした知性を含んだ悪意だ。
アイリスの「内なる眼」が、霧の奥に歪な輪郭を捉えた。 それは、細長い四肢を持つ巨大な影。実体があるようでない、陽炎のように揺らめく怪物――『霧食い』。
シュ……、と空気が抜けるような音が四方から反響する。 アイリスの聴覚を惑わすように、怪物は音の焦点をずらしながら、円を描いて近づいてくる。
(今までの獣とは違う……。私の『音』を、あえて読み取ろうとしている?)
怪物はアイリスが盲目であることを理解しているかのように、あえて不要な振動を立て、彼女の感覚を飽和させようとしていた。
かつてアイリスが斬ってきた「変異者」たちは、生の重みに耐えかねて自壊する哀れな存在だった。だが、目の前のこれは、生を謳歌するために他者の生を徹底的に蹂躙しようとする外の世界の「捕食者」そのものだった。
旅の最中に経験した獣らの牙とはわけが違う。
「…………」
アイリスは深く腰を落とし、鉄の杖を斜めに構えた。
その時、怪物の拍動が、歓喜に震えるように跳ね上がる。
――ガッ!
音もなく、背後の霧が爆発した。 怪物の長い爪が、アイリスの首筋を掠める。 彼女は寸前で身を翻したが、頬に熱い液体が伝わるのを感じた。
(速い……!)
一撃一撃が致命傷。
フェルゼンの石畳を叩いていた軽やかな杖の音は消え、代わりに激しい金属音と、土を抉る荒々しい踏み込みの音が森に響き渡る。
アイリスは、自分の内側で何かが沸騰するのを感じていた。「死神」と呼ばれ、一族が「処刑人」であったという真実を知ったあの日から、彼女の剣には、迷いではない別の何かが宿り始めている。
それは、対象を終わらせるための義務感ではなく、襲い来る『死』に対して「もっと深く、鋭い死」を突きつけるという、苛烈なまでの自己防衛の本能。
アイリスは、自らの内に沸き起こる感情を、逃れられない宿命としてではなく、一つの明確な「意志」として選び取った。
もし、「死神」であることが、この理不尽な悪意に屈することを意味するのなら、そんな言葉に意味はない。 だが、もし私の持つ「断絶」の力が、この化け物が振りかざす「理不尽な死」さえも終わらせることができるなら。 明日もまた、あのパンを美味しいと感じ、誰かの温もりに触れたいと願う「私の生」を守るための盾になるのなら。
(私は、私を終わらせようとするこの『死』を、断ち切る)
アイリスの中で、哲学的な転換が起きた。
「終わり」とは、一方的に与えられる悲劇ではない。
それは、大切なものを守り抜くために、自らが主体となって選び取る「最強の尊厳」だ。 相手が自分を「死」に引きずり込もうとするならば、その「死」そのものに、もっと深く、鋭い死を突きつけて沈黙させる。
怪物が大きく口を開け、アイリスの肩を喰いちぎろうと飛びかかる。
その牙が鳴らす「死の旋律」が最高潮に達した瞬間――アイリスの指先が、杖の柄を力強く弾いた。
「――静まりなさい」
怪物が歓喜の咆哮を上げ、アイリスの喉笛を食いちぎろうと跳ねた瞬間。
アイリスは杖を捨て、その内側に隠された銀の刃を、迷いなく解き放った。
抜刀の音すらない。
ただ、世界から「怪物の存在理由」そのものが切り離された。
アイリスが振るったのは、処刑人の血に命じられた義務ではない。 自分の明日を、自分の生を肯定するために、彼女が自らの意志で選んだ「終わりの一閃」だった。
怪物の絶叫が、因果の断絶とともに霧の彼方へと消えていく。
アイリスは血の滴る剣を手に、荒い息をつきながらも、その場に毅然と立っていた。
(……これが、私の『意志』)
宿命に流されるのではなく、自らの手で終わりを御する。
その確かな手応えと共に、アイリスは今、本当の意味でカナンリスの国境へと、その最初の一歩を踏み出そうとしていた。




