第32話:『不在の残響、霧に沈む街』
エヴァリアの夜は、以前にも増して重く、澱んだ霧に閉ざされていた。
カツン、カツン、と。 静まり返った稽古場に、一本の杖が石床を叩く音が響く。
かつてアイリスが、誰よりも鋭く、誰よりも静かな足取りで立っていた場所だ。
「……やはり、届かないか」
カインは独りごち、手に持った練習用の杖をだらりと下げた。
アイリスがこの国を去ってから、どれほどの月日が流れただろうか。
彼女の代わりを務めるべく、カインは連夜、己の技を磨き続けている。
だが、彼がどれほど速く、鋭く杖を振るっても、空気を切り裂く音には常に、ぬめりとした「迷い」のノイズが混じった。
一族の者であれば、再生の理を終わらせる「断絶の作法」は、幼少期より骨の髄まで叩き込まれている。
カインとて、その技術に関しては一族でも五指に入る使い手だ。 だが、彼らが執り行うそれは、いわば泥臭い「作業」に過ぎなかった。
肉体の再生の核を強引に暴き出し、何度も、何度も刃を重ね、女神の加護を力ずくで剥ぎ取っていく。対象が完全に沈黙するまでには、気の遠くなるような時間と、凄惨な流血、そして何より対象の絶え間ない悲鳴を伴うのが常だった。
しかし、アイリスだけは違った。
彼女が杖を振るえば、まるで最初からそこには何もなかったかのように、一撃で因果の糸が解かれる。苦痛が入り込む隙すら与えず、ただ「静寂」だけを遺して。
彼はだが決して弱い剣士ではない。天賦の才を持っていたアイリスと対照的に、そのたゆまぬ努力で腕のある剣士へと成長した。彼は彼女を決して恨んだり羨むことさえしなかった。
(アイリス、お前には何が見えていたんだ。俺たちが百回叩いてようやく折れる枝を、なぜお前は撫でるだけで落とせた……?)
カインの剣筋には、相手を制する力はある。だが、アイリスのように存在そのものの因果を断ち切る、あの「無」の感触は、どうしても掴めないままでいた。
今のカインに課せられている職務は、一族の長であるアイリスの父を助け、国中に現れる「不浄」を処理することだ。しかし、アイリスという一人の「安全弁」を失ったエヴァリアは、目に見えない速さで、内側から腐敗し始めていた。
「……また、始まったか」
カインが耳を澄ませると、遠く、地下の深い場所から地響きのような「呻き」が聞こえてきた。
それは言葉ではない。
過剰な再生によって人間の形を忘れ、肉の塊へと変質した「変異者」たちが発する、終わりなき苦痛の共鳴だ。 本来、アイリスの一族が担うべき役割はこうした理から逸脱した命を土へと還すことだった。
だが、今のエヴァリアに、その『真の断絶』を成し遂げられる者はいない。
カインや他の剣士たちが現場へ赴き、剣を振るえば、確かに肉体は切り裂かれる。
だが、月光の加護を歪に受けたその肉は、切り裂かれた端から新たな細胞を不気味に芽吹かせ、以前よりもさらに醜悪な姿へと膨張する。一族が数人がかりで儀式を執り行っても、アイリスがいた頃の半分も処理が追いつかない。
死ねないまま監獄に押し込められた「不浄の肉」たちは、幾重にも重なり合いながら、ただ「終われない」という絶望を、物理的な質量として増殖させ続けているのだ。
「あのアザラシのような音……。いつまで続くのかしら」 「静かに。女神様が聴いていらっしゃるわ」
市場を歩けば、盲目の国民たちの間で、そんな不安な囁きが交わされている。
国民の鋭敏な聴覚は、地下から漏れ出す不気味な心音を敏感に、そして執拗に捉えていた。
これまで、エヴァリアという国は「終わらないこと」を祝福として信じてきた。
だが、アイリスという「究極の終わり」を失った今、人々の心には、漠然とした倦怠と、出口のない恐怖が澱のように溜まり始めている。
自分たちは、本当に祝福されているのか。
アイリスがもたらしていたあの「鮮やかな静寂」こそが、この国の唯一の救いだったのではないか。
「カイン様、長がお呼びです」
霧の向こうから、一人の門弟が声をかけてきた。
その声もまた、どこか湿り気を帯び、活力を欠いている。
カインは重い溜息を一つ吐き、稽古場の闇を振り返った。
そこにはもう、銀髪の少女の気配はない。
残されているのは、彼女がいなければ誰も制御できない、「停滞」という名の果てなき狂気だけだった。
「わかった。すぐに行く」
カインは杖を突き、霧の中へと足を踏み出した。
彼が向かう先、アイリスの生家。そこには、娘を呪う母と、沈黙を貫く父が待っている。
霧の隙間から漏れる街灯の光が、湿った石畳に歪な影を落としている。
かつては安らぎを感じたこの風景も、今はどこか、巨大な生き物の胃袋の中にいるような不気味な静けさを湛えていた。
(……アイリス、お前だけだった。あんなにも容易く、ただ一太刀で、苦しみそのものを消し去ることができたのは)
彼女が去ってから、カインたちは思い知らされた。 アイリスの持つ「断絶」の力は、単なる技術の延長線上にはない。
彼女には、他の誰にも聴き取れない「命の終わるべき瞬間」が、明確な旋律として聞こえていたのだ。
彼女がいなくなった後のエヴァリアで、カインたちが執り行う儀式は、もはや「救済」ではなく、単なる「解体」に近いものへと変質しつつあった。
館の門をくぐると、奥の部屋から、低く、呪詛のような声が漏れ聞こえてきた。
「……あの毒に侵された娘。女神様の加護を汚し、一族の誇りを泥に塗って。あんなものはもう、私の子ではありません」
アイリスの母だ。 彼女は盲目の瞳をカッと見開き、見えないはずの虚空を睨みつけながら、指先で執拗に数珠を繰っている。
彼女にとって、アイリスが持ち出した「真実の死」は、世界の美しさを破壊する悪魔の囁きに他ならない。 娘を否定することで、自分たちが信じてきた「終わらない安らぎ」を、必死に守り抜こうとしているのだ。
カインは母親に声をかけることなく、その奥の居間へと進んだ。 そこには、一族の長であるアイリスの父が、窓辺の椅子に深く腰掛けていた。
「……カインか。地下の『不浄』どもは、どうなった」
父の声は、枯れ木の擦れる音のように乾いていた。
「……私の腕では、沈黙させるのが精一杯です。完全に還すには、あと数日はかかるかと。申し訳ありません、叔父上。私の力不足です」
カインが膝をついて謝罪すると、父は小さく、しかし重い溜息を吐いた。 その手には、アイリスが使っていたものと同じ、古い鉄の杖が握られている。彼はそれを愛おしむように撫でるが、決して抜こうとはしない。
「お前を責めはせん。お前は十分に強い剣士だ。アイリスは、我ら一族が数世代に一度授かる、言わば『女神の鎌』そのものだったのだからな。……我らが百回叩いてようやく折れる枝を、あの子はただ撫でるだけで落としてみせた。あれは技術ではない。あの娘の魂に刻まれた、この国の呪いを解くための天賦だ」
父の言葉には、娘を失った悲しみよりも、自分たちの手には負えなくなった「世界の理」への諦念が滲んでいた。 父は窓の外の深い霧を見つめたまま、一言一言を噛み締めるように告げる。
「カインよ。先ほど、聖堂から『執行官』の召集がかかった。……フェルゼンの街が、一晩にして崩壊したそうだ」
カインは息を呑んだ。 「フェルゼンが……。まさか、アイリスが?」
「真実か否かは問題ではない。上層部は、彼女が外の世界の理を乱し、我らの平穏を脅かす『災厄』であると騒いでいる。……セヴェルスを筆頭とした追跡部隊に、本格的な抹殺命令が下るだろう」
カインの指先が、微かに震えた。 アイリスを逃がした協力者でもあるセヴェルスが、今度は国家の牙として彼女を狩らねばならない皮肉。
「まさか、エヴァリアの加護の届かぬ、いや。捨て去る様な判断をされるとは思えません…外の世界を知らない私たちにそれが…」
ぼそぼそとつぶやくカインを一蹴するように、彼は杖で床を叩いた。
「カイン、お前はどうする。一族の剣士として、反逆者を狩るか。それとも……」
父の問いに、カインは答えられなかった。 ただ、胸の奥で、アイリスが最後に見せたあの穏やかな笑顔が、霧を切り裂く光のように輝き続けている。
「……俺は、彼女に訊かなければならないことが山ほどあるんです。……この国の地下で鳴り止まない呻き声が、本当に『祝福』なのかどうか。それを確かめるまでは、死んでも死にきれませんよ」
カインは立ち上がり、静かに背を向けた。 アイリスを連れ戻すためではない。彼女が切り開こうとしている「終わりの先」に、自分たちの居場所があるのかどうかを見届けるために。




