第31話:『静かなる解放』
ゴゴゴ……と、地底の底から這い上がるような震動が、最深処理層の空間を支配した。
それは物理的な崩落の予兆である以上に、この場所を何世紀にもわたって支え続けてきた「歪な因果」が、アイリスの剣によって断ち切られたことへの、世界そのものの悲鳴だった。
「……消えていく。記録が、光に……」
アイリスの耳は、標本瓶の中に閉じ込められていた無数の情報の断片が、霧散していく音を捉えていた。 琥珀色のシリンダーは次々と破裂し、中から溢れ出した魔石の輝きが、情報の奔流となって大気に溶けていく。
エヴァリアの真実、フェルゼンの隠蔽工作、人々の生の記録――。それらはもはや誰の手にも触れられない「ただの光の塵」となり、崩れゆく天井の隙間から、暗い闇の中へと消えていった。
「ああ……あああ……っ!」
その光景を見て、執政官メンデスは喉をかきむしるような悲鳴を上げた。 彼は腰を抜かし、泥濘のような地面に這いつくばりながら、散らばった魔石チップや、シリンダーからこぼれ落ちた金貨を狂ったように掻き集めている。
「私の……私の帝国が…ギルドの結晶が…! これがなければ、私は執政官ではない! ただの老いぼれに戻ってしまう! 待て、逃げるな、消えるなッ!」
崩れ落ちる瓦礫の合間に、メンデスは必死に手を伸ばす。
彼の指先は岩に削られ、血に塗れていたが、それでも「価値」という名の幻想を手放すことができない。
かつて多くの旅人から「生存税」をむしり取り、命を金貨に換えてきた男が、今やその金貨の下敷きになろうとしていた。
「メンデス殿! もう手遅れです、来てください!」 「……ええい、知るか! 巻き添えは御免だ!」
傍らにいたアルベルトら重鎮や、辛うじて動ける私兵たちは、主人の無様な姿を一瞥すると、蜘蛛の子を散らすように出口へと走り出した。
この街の教義は「生存こそ勝利」だ。価値を失ったリーダーに殉じる者は、一人としていなかった。
アイリスは、立ち止まっていた。 背後で響くメンデスの絶叫。
彼を助け出すのは容易だ。杖を伸ばし、
その襟首を掴んで引きずっていけばいい。
あるいは、その醜い執着ごと、この剣で終わらせてやることもできる。
(……いいえ)
アイリスは、そっと剣を鞘の奥へと押し込んだ。
彼女には分かっていた。この男にとって最も残酷な終わりは、刃による死ではない。 愛した黄金が無価値な石ころに変わり、自分が築いた秩序が音を立てて崩れ去るのを、その瞳で見届け続けること。
出口のない「生」という牢獄に、自らの執着によって閉じ込められること。
「さようなら、執政官様。あなたの求めた『永遠』は、きっとここにあります」
アイリスの声は、冷徹なほどに静かだった。
彼女は一度も振り返ることなく、メンデスに背を向けた。
背後でドサリと巨大な岩石が崩落し、男の叫び声が土煙の中に飲み込まれていく。それが慈悲か、あるいは最大の断罪か。
その答えを知る者は、もうこの地下には残っていなかった。
「ちょっと、浸ってる暇はないわよ! ここ、あと数分で完全に埋まるわ!」
シビュラの鋭い声が響く。
彼女は少年を小脇に抱え、崩落する配管の隙間を身軽に跳ね回っていた。
アイリスは頷き、鉄の杖を突いて走り出す。
「アイリス、右! 蒸気が噴き出してるわ!」 「わかっています!」
視覚を持たぬアイリスにとって、崩壊する建物の中はあらゆる音が反響し、震動が混ざり合う地獄のようなノイズの嵐だった。
だが、シビュラの的確な指示と、杖から伝わる大地の悲鳴を読み取り、彼女は一歩も淀むことなく出口を目指す。
崩れゆく処理層の長い階段を駆け上がり、地上への最後の一歩を踏み出す直前。
不意にシビュラが足を止め、肩越しにアイリスを振り返った。
「……ねえ、アイリス。一つだけ訊かせなさい」
少年の拍動が、シビュラの腕の中で激しく打っている。
「あんた、あの時……あいつらを斬った時、何を見たのよ。再生を止めたあの化け物たちが、ただの肉の塊に戻った様に見えた瞬間。あんたの心には、何が映ってたの?」
シビュラの鑑定眼は、アイリスの剣が引き起こした「現象」の異常さを、正確に捉えていた。それは破壊ではなく、あまりにも静かな「消滅」だったからだ。
アイリスは、わずかに足を止め、見えない瞳を地底の闇へと向けた。
「……死ではなく、安らぎを」
その言葉は、祈りのようでもあった。
「彼らは、終われない苦しみから解放されただけです。……私は彼らを殺したのではなく、止まっていた時間を返してあげたのだと、そう信じたい」
シビュラは、呆れたように鼻で笑った。
「……おめでたいわね。やっぱりあんたの価値観は、私の鑑定眼じゃ測りきれないわ。全く金にならない言葉ね」
そう言いながら、シビュラは懐の奥に手をやった。
そこには、図書館の最深部で回収した、アイリスの一族の真実の断片が記録された魔石チップが収められている。
(……これの鑑定結果は、私だけの秘密にしておくわ。こんなにいい値になりそうなネタ、誰かに渡すなんて勿体ないもの。)
「さあ、お喋りは終わり! フェルゼンの朝日は、あんたの国の月光よりもうるさいわよ!」
二人は、崩れ落ちる入り口を背に、最後の大広間へと躍り出た。 頭上からは、都市の喧騒と、皮肉なほどに眩しい陽光の気配が降り注いでいる。
出口から這い出した三人を迎えたのは、乾いた土の匂いと、大気を焦がし始めたばかりの朝日の熱だった。
アイリスは杖を突き、荒野の風を全身で受け止める。
背後では、フェルゼンという巨大な装置が軋みを上げ、崩壊していく振動が足裏に伝わってきていた。
「……あ。鐘が鳴ってる」
シビュラが独りごちた。
その視線の先では、黄金の都フェルゼンの外郭が地下の巨大な空洞に引きずり込まれるようにしてゆっくりと沈み込んでいた。
かつてアイリスが歩いた大通りの一部も、今は土煙の中に消えている。
街中には緊急事態を告げる鐘が鳴り響き、富裕層の叫びと、逃げ惑う人々の足音が、遠い波音のようにアイリスの耳を叩いた。
「見てなさい。あの傾いた塔も、崩れた市場も、数ヶ月後には何食わぬ顔で再建されてるわよ。ここの連中の生存本能と強欲は、地下がちょっと崩れたくらいじゃ死なないわ。むしろ、瓦礫の中から新しい商売を見つけ出すような連中なんだから」
シビュラは肩をすくめ、吐き捨てるように続けた。
「まあ、それがこの街の良いところでもあるんだけどね。闇が払われたところで、ここに住む人間が変わるわけじゃない。明日にはまた、誰かを踏み台にしてでも生き残ろうとする日常が戻る。この街は旅人が生きる為に寄らなきゃいけない場所なんだから尚更ね……アイリス、あんたがやったことは、この街にとってはほんの『些細な事故』に過ぎないのよ」
「……それでいいのです」
アイリスは、沈みゆく黄金の街の方へは向けず、ただ真っ直ぐに、昇りゆく朝日の熱へと顔を向けた。
「街を変えるために、剣を振るったのではありませんから。私はただ、あそこで終わるはずのない苦しみに閉じ込められていた命を……返したかっただけです。わがままな……想いだけですから」
アイリスの「内なる眼」には、今、これまでとは違う世界の輪郭が描き出されていた。 視覚のない彼女にとって、世界は「音」と「振動」の集積だ。
しかし今、目の前に広がる瓦礫と埃の山には、いつか枯れるからこそ今この瞬間を懸命に震わせる草花の息吹や、終わりのある生を謳歌する鳥たちの羽ばたきが、あまりにも鮮明に、美しく鳴り響いている。
(いつか終わるからこそ、今を刻もうとする命の震え……。それは、エヴァリアにはなかった、正しい鼓動の音)
「しかし、街の人たちには申し訳ないことをしました。彼らはただ懸命に生きていただけなのに私がそれを壊してしまったのは……変わりない。この街を頼りに行き交う人たちも大勢いるのに」
「ふぅん、自覚はあるのね。ま、私も共犯だし。いっそのことやり直した方が、きっとこの街はさらに盛り上がってくれるわよ。私の目に狂いはないんだから」
その時、アイリスの服の裾が、か細い力で引かれた。 助け出された少年が、アイリスの側に立っている。
シビュラは、少年の背中を軽く叩き、近くにいた「エンド・ロア」からの避難民らしき穏やかな夫婦へと彼を約束の品を渡すかの様に託した。その夫婦は、死んだような瞳が少しずつ生気を取り戻し始めた、まともな人々だった。
少年は、言葉を発することができない。 しかし、アイリスが彼に手を伸ばそうとした瞬間、空気が微かに震え、彼女の脳裏に、水面を揺らすような純粋な「意志」が届いた。
『――ありがとう、死神のお姉ちゃん。僕、もう怖くないよ』
それは、言葉を超えた、魂の深層からの感謝だった。少年はアイリスにとっての「死神」という言葉に、恐怖ではなく、呪縛から解き放ってくれた救済者への、彼なりの最大の敬意を込めていた。
アイリスは少年の頭を確かめる様に優しく撫で、その温もりを掌に刻み込んだ。 「……元気で。あなたの人生は、今、始まったばかりです」
少年は何度も何度も頷き、夫婦に連れられて、フェルゼンの再興を待つ群衆の中へと消えていった。
「さて、と」 シビュラが、伸びをしながらアイリスに向き直った。
「借りは返したわよ。これ以上あんたに付き合ってたら、私の精密な鑑定眼まで狂いそうだわ。命に価値をつけられなくなったら、廃業なんだから」
「シビュラさんは、これからどうするのですか? 私のせいでギルドの連中には、恨まれているでしょう」
アイリスの問いに、シビュラは不敵に笑った。
「お節介ね。この街に長居ができないのは百も承知よ。だから、そうね……気が向く方へ、風に流されていこうかな。あんたが壊したあの『禁忌の図書館』には、他にも気になるキーワードがいくつかあったし。金のなる木はたくさんあるのよ」
シビュラは、去り際にわざとらしくアイリスの耳元で囁いた。
「北の山を超えた先に、ほんの小さな国がある。穏やかで笑顔に満ちた緑の国。あんたの探している答えの続きは、そんな場所に転がっているかもしれないわよ」
そう言い残すと、シビュラは一度も振り返ることなく、雑踏の中へと姿を消した。彼女の足音は、獲物を探す猫のように静かで、しかしどこか満足げだった。
一人残されたアイリスは、再び鉄の杖を地についた。 カツン、という硬質な音が、朝の澄んだ空気に響き渡る。
フェルゼンで得た「終わり」の断片。 それは、自分の一族がかつて「処刑人」として蔑まれ、恐れられていたという、残酷な歴史の記憶だった。 だが、少年の手の温もりを知った今、アイリスの心に迷いはない。
(お父様。一族の剣が、救いよりも先に絶望を運んでいたのだとしても。私は、その断絶の先にこそ、本当の安らぎがあることを証明したいのです)
再生という名の檻を壊し、命をあるべき場所へ還す。 アイリスは、自分が歩むべき道が、もはや「迷い」ではなく「確信」へと変わりつつあるのを感じていた。
彼女は杖を突き、ゆっくりと一歩を踏み出す。 進む先は、シビュラが示した北の空か、あるいはもっと深い一族の核心か。 銀色の髪が朝日に透け、彼女の影が荒野に長く伸びる。
「……行きましょう。まだ、私の剣を待っている命があるはずだから」
杖の音が、静かに、しかし力強く、新しい旅路を刻み始めた。




