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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
黄金の搾取と禁忌の天秤
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第30話:『黄金の夢』

「撃てッ!」


 執政官メンデスの、裂けるような怒号が地下の静域を切り裂いた。 刹那、数十挺の魔石銃が一斉に火を吹く。薬莢が跳ねる乾いた音、圧縮された魔力が大気を焦がす異臭、そして音速を超えて迫る弾丸の暴力。視覚を排したアイリスの世界では、それは無数の「死の線」となって全方位から押し寄せる破滅の奔流だった。


 だが、アイリスが始祖の剣の柄に指をかけた瞬間——世界から、すべての熱が奪われた。


(……静かに)


 鞘から銀の刃が数インチ滑り出す。 ただそれだけの動作が、物理法則そのものに対する「拒絶」として機能した。 空気を切り裂き、アイリスの眉間に、胸に、心臓に突き刺さるはずだった弾丸たちが、彼女の周囲数メートルの境界に触れた瞬間、唐突にその「意味」を失ったのだ。


 火薬の爆発も、弾条ライフリングによる回転も、標的を貫こうとする推進力という因果さえもが、銀の輝きに吸い込まれて消える。

 カラン、カラン……。 無機質な金属音だけが響き、威力を失った鉛の塊が、アイリスの足元に転がっていった。


「……なっ……!?」


 銃を構えていた兵士たちの拍動が、一斉に跳ね上がった。 信じがたい光景だった。回避したのではない。防御したのですらない。ただそこに在るだけで、自分たちの放った攻撃が「なかったこと」にされたのだ。


「何をしている! 構わん、次を装填しろ! 盲目の小娘一人に手こずるなッ!」


 後方で控えていたギルドの重鎮、アルベルトが顔を真っ赤にして叫ぶ。その声には、未知の力に対する生理的な恐怖が滲んでいた。


 だが、アイリスはもう、彼らの「次」を待ってはくれなかった。 彼女は剣を鞘に収め直すと、それを「鉄の杖」として構える。一族に伝わる独特の歩法——振動を最小限に抑え、逆に相手の放つ振動の「隙間」を縫うように進む影の動き。ただ音と鼓動と感覚を鋭利に研ぎ澄ませるのみ。


 アイリスの姿が、揺らめく霧のように兵士たちの列へと消えた。


「どこだ!? どこへ行った!」 「背後——ぐわぁっ!」


 アイリスが通り抜けるたびに、重厚な金属音が響く。 彼女は刃を抜かない。ただ、杖の石突きで魔石銃の駆動部を、あるいは銃身の歪みを正確に突き、それらを「道具」として終わらせていく。


 抵抗しようと剣を抜いた兵士の腕を、杖が優しく、しかし抗いようのない鋭さで打つ。骨を砕くのではない。神経の節を、力の流れを一時的に断絶させる。 彼女が通り過ぎた後には、苦悶の声を上げる余裕さえ奪われた兵士たちが、まるで糸の切れた人形のようにその場に膝をついていった。


 そこにあるのは、暴力の嵐ではなく、圧倒的な「静寂の波」だった。


「……化け物が」


 重鎮の一人が、震える声でこぼした。 盲目であるはずの少女は、まるですべてを見通しているかのように、淀みのない動きで武装集団を無力化していく。その佇まいは、戦士というよりは、乱れた楽譜を静かに閉じて回る司書に近い。


「へえ、やっぱり強いのね…閉鎖された国の剣士とは思えない…」とシビュラが関せずといった顔で扇を取り出し、頬をやさしく叩く。


「ええい、どけ! 役立たずどもが!」


 メンデスが、自らの地位を、そしてこの街の黄金の理を守るために、ついに禁忌の箱を開いた。 「……清算人クリーナーを出せ。それと、予備の『核』を私に……いや、精鋭の連中に埋め込め!」


 その言葉に、隣にいたアルベルトが色を失った。


「め、メンデス殿! それはまだ試験段階の……過剰な再生は精神を焼き切ると……!」

「黙れ! この娘を逃せば、フェルゼンの信用は地に堕ちる! 生存こそが勝利だと言い続けているのはお前たちだろうが!」


 メンデスの合図とともに、処理層の影から、人間とは言い難い「異形」が姿を現した。 全身を黒い革袋のような拘束衣で包んだ五人の清算人。

 その胸部には、禍々しい赤紫色の光を放つ「超再生魔石」が埋め込まれている。 さらに、メンデス直属の私兵たちが、自らの肉体に魔石を強引にめり込ませる鈍い音が響いた。


「ア、アアア……ッ!」


 私兵の一人が絶叫とともに膨れ上がった。 魔石から供給される過剰な生命エネルギーが、細胞の一つひとつを強制的に増殖させ、鋼の鎧を内側から押し広げる。斬られても瞬時に盛り上がる肉、潰されてもそのそばから復元する四肢。


 それは、エヴァリアの「加護」を人為的に、かつ暴力的に再現した、終わることのない生の地獄だった。


「さあ、死神を喰らい尽くせ!」


 清算人と私兵たちが、地を削るような勢いでアイリスへと肉薄する。 アイリスは杖を構え直すが、その指先に伝わる感覚が、先ほどまでとは一変していた。


(……重い)


 彼らの周囲には、正常な生物が持つはずの「呼吸の波」がない。 代わりに渦巻いているのは、破裂寸前の蒸気機関のような、過剰で、歪な「生の圧力」だ。 アイリスが放った杖の一撃が、先陣を切った私兵の喉を正確に捉える。本来ならそれだけで意識を失うはずの打撃。だが、打たれた瞬間に肉が膨張し、衝撃を吸収して押し返してきた。


「ハハハ! 効かぬ、効かぬぞ! 私たちは死を超越したのだ!」


 斬っても、打っても、その傷口が数秒と経たずに塞がっていく。

 アイリスの額に、一筋の汗が流れた。

 今向き合っているのは、人間ではない。

「死」という出口を塞がれ、ひたすら膨張を続けるだけの、醜悪な肉の塊。


 かつて故郷で対峙した、あの歪な「それ」と同じ、終われない絶望の具現。


 始祖の剣の柄が、アイリスの掌の中で微かに熱を帯びた。

 それは、一族の血が、そして剣そのものが、このあまりにも歪な「生」の在り方に対し、激しい拒絶の咆哮を上げているかのようだった。


(……一撃では、足りない。彼らを縛っているのは、肉体ではなく……)


 過剰な再生の嵐の中で、アイリスはさらに深く、自身の感覚を沈めていく。 物理的な衝撃が通じないのなら、聴くべきは肉の爆ぜる音ではない。


 その奥底で、彼らを繋ぎ止めている「呪い」の正体を、聴き取らなければならない。


 過剰な再生がもたらす「生の圧力」が、地下図書館の空気を重く押し潰していた。 清算人たちの肉体は、もはや人の輪郭を保っていない。


 打たれた箇所から新たな肉が芽吹き、裂けた皮膚が瞬時に癒着するその様は、生命という名の暴力だった。


 アイリスは、防戦に追われていた。

 鉄の杖による打撃は確かに急所を捉えている。

 だが、相手は「死」という出口を奪われた怪物だ。意識を刈り取ろうとしても、脳に刻まれた魔石の指令が強制的に肉体を突き動かし、痛みさえも再生の熱に飲み込まれていく。


(……速すぎる。呼吸を整える暇さえ、与えてもらえない)


 背後にはシビュラと、動かない少年。引くことは許されない。

 清算人の一人が放った、丸太のように膨れ上がった腕の一振りが、アイリスの側頭部をかすめた。衝撃波だけで皮膚が裂け、鮮血が銀髪を汚す。


「どうした、死神! 貴様の『終わり』とやらは、この無限の生命力には届かないようだな!」


 メンデスの嘲笑が響く。だが、アイリスはその声さえも、もはやノイズとして切り捨てていた。 彼女は、あえて「外側の音」を聴くことを止めた。


 肉が爆ぜる音。床を削る靴音。メンデスの罵声。


 それらすべてを意識の底へ沈め、代わりに、相手の「内側」にある、もっと根源的な「震え」に全神経を集中させる。


(聴こえる……。これは、命の音ではない)


 内なる眼を開いたアイリスの世界で、異形たちの姿が透過していく。 そこに見えたのは、輝かしい生命の奔流などではなかった。


 魔石という機械的な心臓に繋がれ、死を拒絶し、生にしがみつこうとする――ドロドロと濁った、醜悪な「執着」の振動。 それは、かつて故郷で見た、魂を摩耗させた者たちが発していた、あの底なしの泥濘とまるで同じ色をしていた。


「……悲しい音」


 アイリスの唇が、小さく動いた。

 彼らを動かしているのは意志ではない。

 ただの「死にたくない」という恐怖と、金貨で買い叩かれた「生への執念」という名の命令系統だ。


 その瞬間、掌の中の始祖の剣が、これまでになく激しく、そして冷徹に共鳴した。 アイリスは、深く、深く踏み込む。


 清算人の鋭い爪が彼女の肩を貫こうとした刹那、銀の刃が、ついに鞘を完全に離れた。


「――おやすみなさい」


 一閃。 それは肉を斬るための速度ではない。

 アイリスの放った剣筋は、過剰に増殖する細胞の隙間をすり抜け、彼らの存在を繋ぎ止めている「因果」そのものへと届いた。 肉体に埋め込まれた魔石が、アイリスの剣が纏う「絶対的な断絶」に触れた瞬間、その活動を唐突に停止させる。


 再生の連鎖が、一瞬で凍りついた。


「な……が、は……っ?」


 清算人の一人が、自らの胸を抑えて立ち尽くした。 どれほど傷つけても瞬時に盛り上がっていた肉が、今はただ、重力に従って崩れ落ちていく。魔石による強制的な蘇生システムが、アイリスの「終止符」によって上書きされ、消滅したのだ。


 アイリスは止まらない。 流れるような旋回。

 彼女の周囲には、もはや戦いの喧騒はなかった。


 彼女が剣を振るうたび、空間から不純な振動が消え、真の静寂が広がっていく。

 精鋭と呼ばれた私兵たちも、魔石を埋め込んだ異形たちも、ただの一太刀で、その「執着」という名の駆動源を断たれ、静かに床へと崩れ伏した。


 そこには、流血すらない。

 ただ、役割を終えた「物」が、あるべき場所へ還ったかのような、あまりにも清冽な終幕。


「……嘘だ。あり得ん」


 メンデスの声が、惨めに震えていた。

 隣に立つ重鎮たちも、腰を抜かしてへたり込んでいる。或いは幻想的な光景に見惚れたかの様に愕然としている。


 彼らが何よりも崇拝し、最高の価値として売り捌いてきた「不老不死」という商品。それが、たった一振りの剣、たった一人の少女の「意志」によって、塵よりも脆く崩れ去ったのだ。


 目の前にいるのは、かつて恐れた不吉な伝承などではない。

 金貨でも、権力でも、魔石の技術でも決して抗うことのできない「絶対的な終わり」そのもの。 自分たちが積み上げてきた黄金の山が、この少女の一閃で、一瞬にして無価値な瓦礫に変わる。その「真の死」への恐怖が、彼らの魂を初めて芯から凍りつかせた。


「ヒッ……来るな! 来るんじゃない!」


 メンデスが後ずさり、無様に転がる。

 アイリスは彼を一顧だにせず、鞘に剣を収めた。

 キン、という硬質な音が、崩壊を始めた地下施設に虚しく響く。


「……シビュラさん。行きましょう」


 アイリスの声は、どこまでも澄んでいた。


「ええ。もうここには、鑑定する価値のあるものなんて何一つ残っていないわ」


 シビュラは、呆然とする重鎮たちに冷ややかな嘲笑を投げかけると、少年の手を引いて歩き出した。 天井から土砂が零れ落ち、魔石ランプが点滅を繰り返す。


 フェルゼンが隠し続けてきた「禁忌の記録」と共に、この歪な墓所は今、自重に耐えかねて崩れ去ろうとしていた。


 アイリスは杖を突き、崩落の音を聴きながら出口へと向かう。

 背後に残されたのは、黄金の夢を奪われ、ただ「終わること」を突きつけられた者たちの、声にならない悲鳴だけだった。

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