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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
黄金の搾取と禁忌の天秤
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第24話:『黄金の品評会』

「いい、アイリス。この街で一番安全な場所はどこだと思う?」


出発を前に、シビュラは館の奥から古びた木箱を取り出し、不敵な笑みを浮かべた。


「それはね、『価値がある』と証明された者の隣よ。あるいは、それ自体が計り知れない価値を持つ『商品』のふりをすること。この街にはぴったりの代物。どこの国の誰がこんなものを作ったなんか、興味はないけど」


彼女が木箱から取り出したのは、白銀の糸で編み込まれたような、精緻な彫金が施された仮面だった。

顔の上半分を覆うその意匠は、流れる霧のようでもあり、あるいは何かの紋章のようでもある。


「これは素顔を隠すためじゃないわ。あなたの『人間』としての生臭い価値を消し、純粋な『美』という記号に変換するための魔法よ。これをつけている間、あなたはエヴァリアの少女ではなく、私が命をかけて鑑定する『名もなき至宝』になるの」


アイリスはその冷たい金属を顔に当てられた時、不思議な感覚に陥った。視界を遮る布の上から重ねられた仮面は、彼女の存在を世界から切り離す、もう一つの硬い外殻のように感じられた。


「……私は、私でなくなってしまうのですね」


「ええ。でも、そうでなければ、あの黄金の獣たちの巣食う場所には入れないわよ」


フェルゼン中央にそびえる白亜の円形劇場へと向かう前に、アイリスはその仮面を付けた。 劇場の門扉には、重厚な鎧に身を包んだギルドの私兵たちが立ち並び、招待客一人ひとりを鋭い眼光で射抜いている。


「止まれ。シビュラ殿、隣の者は?」


検問の兵士が、無骨な槍を水平に突き出した。アイリスの背筋に冷たい汗が伝う。外套の下で握る杖の重みが、今はあまりに大きく感じられた。


「失礼ね。私の『極秘鑑定依頼品』に、その汚い鉄を向けないでくれる?」


シビュラは扇で兵士の槍を軽く押し除け、懐から金の箔押しがされたリストを提示した。


「次の競売で、ある有力者へ引き渡すためのデモンストレーションよ。喋ることも、素顔を見せることも禁じられている『生きた芸術』。……私の鑑定眼を疑うなら、今ここでアルベルトなりメンデスでも呼んできなさい。彼らの顔を潰すことになっても構わないならね」


兵士は一瞬、言葉に詰まった。

仮面で顔を隠し、微動だにせず佇むアイリスの気配は、確かに人間というよりは、エヴァリアの霧から切り出された彫像のような神秘性を放っていた。

兵士は少しの間、疑わしげにアイリスを凝視したが、シビュラの放つ圧倒的な「鑑定士の傲慢さ」に気圧され、ゆっくりと槍を引いた。


「……失礼した。通られよ」


豪華な赤絨毯を踏み、重厚な扉を潜り抜ける。 その瞬間、アイリスの耳を打ったのは、数千人の人間が発する、重層的で暴力的な「欲望の合唱」だった。


「さあ、着いたわ。ここが私たちの特等席よ」


シビュラに導かれたのは、会場全体を見下ろす位置にある特別個室バルコニーだった。 厚い遮音カーテンに仕切られたその空間に入ると、外界の雑音は一気に遮断され、代わりに会場中央に設置された集音装置を通じて、競売台の音だけが鮮明に増幅されて届くようになる。


アイリスは個室の縁に立ち、階下から昇ってくる「気配」を全身で受け止めた。 そこには、数千もの心臓が刻む、不揃いでいて巨大な一つのうねりがあった。


金貨を数える指の震え、他者の価値を掠め取ろうとする期待、そして、高価な香油に混じって漂う、むせ返るような強欲の熱。


地下書庫の「肉の壁」が、静止した執着の墓場だったとすれば、ここは、その執着が狂乱となって踊り狂う「生の祭壇」だ。


(……これが、生きているという感覚……?)


アイリスは、自分の内側にある静かな鼓動と、外側に渦巻く暴力的な拍動の差に眩暈を覚えた。

エヴァリアの凪とも、スクラップ・ヤードの泥臭い生命力とも違う。

自分以外のすべてを金という記号に置き換え、喰らい尽くそうとする略奪者の鼓動。


醜悪で、冷酷で、けれどこのフェルゼンという街を動かす、あまりにも巨大な「生の律動」。


シビュラは椅子の背にもたれかかり、退屈そうに扇を揺らした。


「誰が何を欲し、何を捨てるのか。……音の色が変わる瞬間を見逃さないことね」


やがて、会場の明かりが落とされ、中央の舞台に鋭い一筋の光が差し込んだ。

司会者の仰々しい声が、静寂を切り裂いて響き渡る。


競売の開始を告げる木槌(《ガベル》の音が、劇場の静寂を鋭く打ち鳴らした。


次々と舞台に運び込まれる「商品」たちの気配を、アイリスはバルコニーから研ぎ澄まされた感覚で捉えていた。

最初は、歴史ある名家の没落によって手放された絵画や、異国の王が愛したという宝飾品。それらは、持ち主が変わるたびに「誇り」という名の音色を失い、ただの金貨の重さへと書き換えられていく。


だが、競売が進むにつれ、その音の色はより残酷に、より「生臭く」変質していった。


「続きまして……西方の属領より買い付けた、極めて希少な『声』を。この者は、失われた古代の聖歌を唯一その喉に記憶しております。声帯の保全状態は良好、主人の命に従い、死ぬまでその旋律を紡ぎ続けるでしょう」


司会者の声と共に、舞台に引き出された小さな拍動。

アイリスは、その「商品」が発する絶望の震えに息を呑んだ。

それはもはや物ではない。誰かの人生であり、奪われた最後の矜持そのものだ。


会場を埋め尽くす富裕層たちは、その少女の「終わりなき歌」の権利を、数字という冷たい言葉で奪い合っている。


(……ひどい。命を、使い捨ての道具のように……)


アイリスが小刻みに震える手でバルコニーの縁を握ったその時、会場の最前列から、聞き覚えのある冷徹な拍動が響いてきた。


ギルドの重鎮の一人、メンデス。 彼の鼓動は、他者の絶望を買い叩くことを当然の権利だと信じて疑わない、傲慢な凪を保っている。彼が指を鳴らすたびに、一つの人生が、あるいは一つの家系の歴史が、無機質な金貨の山へと姿を変えていく。


アイリスは、隣で退屈そうに扇を弄んでいるシビュラへ、見えない瞳を向けた。


「シビュラさん……答えてください。あなたは、なぜ私をここへ連れてきたのですか」


その問いに、シビュラは扇の手を止めたが、視線は階下の狂乱に向けたままだった。


「ただ匿っているだけではないはずです。私という『商品』を盾に、あなたは何を狙っているのですか。私がこの場所で聴く音、感じる苦しみ……それさえも、あなたの鑑定の一部なのですか?」


沈黙がバルコニーを支配した。階下の喧騒が、遠い波音のように聞こえる。 やがて、シビュラはくすりと、毒を含んだ蜜のような声で笑った。


「……あら。やっぱり目が見えなくても、心を見通す力は健在なのね。エヴァリアの少女。怖いくらいに鋭いわ」


シビュラはゆっくりとアイリスの方へ向き直ると、彼女の銀の仮面に指先を滑らせた。


「そうよ、アイリス。あなたがここへ来たのは、単なる同行でも、慈悲でもない。……私にはね、聴こえないのよ。あなたが聴いているその『真実の音』が。私は鑑定士として、あらゆる物の価値を測れるけれど、その裏にある『魂の痛み』までは測れない。汚れた金貨の音に耳を塞がれている私にはね」


彼女の鼓動が、わずかに熱を帯びた。


「だからよ。この醜悪な黄金の嵐の中で、何が本物で、何が偽物なのか。誰が嘘をつき、誰が絶望を隠しているのか……あなたのその真っ新な感覚で、この街の『嘘』を暴いてほしいのよ。あなたが私の『目』となり、この腐った品評会を根底から覆すための切り札。……それが、私との取引の本当の内容よ」


シビュラは不敵に微笑み、再び階下を見下ろした。 舞台の上には、今、この日最大の「目玉」が運び込まれようとしていた。


「さあ、お喋りはここまで。……本番が始まるわよ」


バルコニーに差し込む光が、アイリスの仮面を冷たく照らし出した。

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