第23話:『遺棄された脈動』
シビュラの館を後にしたアイリスは、フードを深く被り、彼女の影を追うようにして下降を続けていた。
フェルゼンの街は、高低差によって階級が峻別されている。
黄金の輝きを放つ上層から、複雑に入り組んだ石造りの階段を降りるごとに、大気の湿り気は増し、音の粒子は重く鈍いものへと変質していく。
「これから行くのは、この街の『胃袋』よ」
前を歩くシビュラの、感情を削ぎ落とした声が響く。
「消化され、価値ある栄養を吸い尽くされ、あとは排泄されるのを待つだけのカス……。ギルドがそう定義した連中が溜まる場所よ。汚くて不潔で、あなたの清らかなエヴァリアの記憶を汚してしまうかもしれないけれど」
シビュラが足を止めたのは、巨大な排水路の脇にある、陽の光が一度も届いたことのないような深い谷底だった。
そこが、通称「スクラップ・ヤード」――捨てられた命の集積所。
アイリスがその場所に一歩足を踏み入れた瞬間、彼女の鋭敏な聴覚を襲ったのは、地下書庫のあの腐敗した静寂とは真逆の、荒々しく、湿った「音の濁流」だった。
錆びた鉄板を叩く雨だれの音。濁った水が溝を流れる音。
そして何より、無数の人間たちが吐き出す、濁った呼吸と咳き込み。
そこには、ギルドに「死の権利(寿命)」を買い叩かれ、延命のための実験台にされた後や、価値ある情報をすべて絞り出された後に、文字通り遺棄された人々がうごめいていた。
「……ひどい。これは、あまりに……」
アイリスは杖を握る手に力を込めた。
彼女の「色」を読む感覚に飛び込んできたのは、欠けた歯車のように不規則な鼓動の群れだ。
四肢を失った者、病に侵され肺を鳴らす者、正気を失い虚空へ向かって呟き続ける者。
地下書庫の「肉の壁」が、死を拒んだ傲慢な執着だとしたら、ここは、生を奪われながらも死なせてもらえない「生の残骸」の檻のようだった。エンドロアで感じた、あの色と同じ様に。
「ひどいと思う? でもね、アイリス。見てごらんなさい、彼らの鼓動を」
シビュラが、汚物と錆にまみれた路地の先を指し示す。
アイリスが意識を集中させると、意外な事実に気づく。
その鼓動は、弱々しく、今にも絶えそうなほど細いものばかりだったが、その核にある響きは驚くほど鋭かった。
泥を啜りボロ切れを纏いながらも、彼らの多くは「絶対に生き抜いてやる」という、ぎらついた心意気を失っていない。
いつか再び陽の当たる場所へ戻り、自分たちを捨てた連中の喉元を食い破る。
女を抱いてやる。稼いでやる。美味いものを食ってやる。また旅をしてやる……そんな剥き出しの復讐心と欲、生命力が、不快な呼吸音の中に混じっている。
「不潔で反吐が出る場所だけど、私はここの空気が嫌いじゃないのよね。不思議と澱んでいないというか……。少なくとも、上層の連中みたいに、金貨でコーティングされた偽物の生じゃないわ」
シビュラが扇で鼻を覆いながらも、その瞳には鑑定士としてのゾクゾクするような昂揚が宿っている。 彼女はこの泥沼の中から、まだ価値の残っている「言葉」や「記憶」を拾い上げるために、ここへ通っているのだ。
アイリスの存在は、この淀んだ場所ではあまりに異質だった。
銀の髪、目を覆う気品のある布。温かみのある外套。
彼女が歩くたび、路地裏に座り込む住人たちの視線が、物珍しそうに、あるいは値踏みするように彼女を追う。
だが、そこにはギルドの私兵たちが放つような、冷徹な統制された殺意はない。
「……彼らは、私を報告したりはしないのですか?」
「ギルドに? まさか。彼らにとってギルドは自分たちを使い捨てた仇敵よ。それに、ここには情報の光なんて届かない。彼らにとって、あなたの銀髪がどれほど高価な懸賞品かなんて、今日のパン一切れの価値にも及ばないわ。ここは街の一部でありながら、世界から切り離された『空白』なのよ」
シビュラはそう言うと、路地の奥、一際古い崩れかけた小屋の前で足を止めた。
そこからは、死を間近に控えた老人の、喘ぐような細い呼吸が聞こえてくる。
アイリスは、その老人の脈動を聴いた。
それは、正しく終わることを望みながらも、その権利を誰かに売り渡してしまったがゆえに、救いとしての死が訪れない「呪い」のような響き。
(……正しく、終わること。それがどれほど尊いことか、この街の人々は忘れてしまったのでしょうか)
アイリスは、膝をつき、泥に汚れるのも構わずに老人の傍らへ寄ろうとした。
彼女の心の中に、エヴァリアの凪でも、エンド・ロアの慈悲でもない、激しい「憤り」が炎となって灯る。 この人々から奪われたのは、ただの寿命ではない。
人間として、一つの旅路を完結させるという「尊厳」そのものなのだ。
シビュラはその様子を冷めた目で見守りながら老人の枯れ木のような手から、何かを受け取ろうとしていた。
シビュラは老人の傍らに屈み込むと、その震える掌から一枚の汚れた、しかし紙質の良さをうかがわせる厚紙を抜き取った。
それは、かつて彼が「何者か」であった証であり、同時に彼が最後に残した未練の残滓でもあった。
「……確かに受け取ったわ。あなたの、この世界の最後の記録。これでもう、思い残すことはないわね」
シビュラの声には慈悲など微塵もなく、ただ契約を完了させた事務的な響きしかなかった。だが、その冷たさが逆に、この泥沼のような場所では公平な救いのように聞こえるのが不思議だった。
「行きましょう、アイリス。長居は無用よ」
アイリスは老人の枯れた手から伝わる絶望の余韻を、その肌で感じながら立ち上がった。泥に汚れた膝を払うこともせず、彼女はシビュラの背を追う。
階段を上るごとに、背後から聞こえる病んだ呼吸音や鉄の擦れる音が遠のいていく。代わりに、再びフェルゼンの「黄金の音」が頭上から降り注いできた。
「……シビュラさん、今…何かを受け取りましたか?」
「ただの鑑定よ。彼は昔、ギルドの物流を管理していた男だったわ。死ぬ前に、どうしても自分が『価値ある人間だった』という証拠を、誰かに測ってほしかったのね。その対価がこれよ」
シビュラが手元で翻したのは、汚れてはいるが金の箔押しがなされた「招待状」だった。そこには、この街で最も権威ある、そして最も醜悪な催事の名が記されている。
「大競売。フェルゼンの富のすべてが流動する場所よ。骨董、宝石、土地……そして、時には『命の権利』さえもね」
再び上層の境界線へと戻ると、街の空気は一変した。
鼻をつく腐敗臭は消え、代わりに高価な香油と、焼きたてのパンの匂いが街路を満たしている。
だが、一度「胃袋」の底を見てしまったアイリスには、その美しさが、無理やり引き剥がした誰かの尊厳を塗りたくった化粧のようにしか感じられなかった。
シビュラは慣れた足取りで、街の中央に鎮座する巨大な円形劇場の前で足を止めた。 白亜の石材に黄金の装飾が施されたその門の前には、豪華な馬車が列をなし、着飾った貴族や大商人が、お互いの価値を確認し合うようにして中へ消えていく。
「さて、泥の中の宝探しは終わり。次は、この街で最も美しく、最も醜い『命の品評会』へ行きましょうか」
シビュラはアイリスを振り返り、そのフードの奥にある見えない瞳を覗き込むようにして微笑んだ。
「昔はね、年に一度行われるかくらいの大きな祭りだったんだけど、今じゃ不定期に数回行われるようになったの。私としてはもう見慣れた光景になってちょっとつまんなくはあるんだけどね。」
シビュラは扇を顎にトンっと叩きながら差し込む光を睨む様に眼を細める。
「そこにはね、あなたが探している『図書館』――フェルゼンが隠匿する禁忌の知識へ至るための鍵も、出品されるはずよ。もっとも、それを手に入れるには、天秤を大きく揺らすほどの覚悟が必要になるけれど」
門の向こう側から、巨大な金貨がぶつかり合うような、重層的で暴力的な「欲望の合唱」が響いてくる。 アイリスは杖を強く握りしめた。
あのスクラップ・ヤードで、今も泥の中で蠢いている人々。そして、その生を吸い取って輝く、目の前の黄金の劇場。
彼女が背負った「始祖の剣」が、再び静かな熱を帯び始めた。 これから向かうのは、ただの競売場ではない。この世界の歪みを、黄金で糊塗した祭壇。
「……行きましょう」
アイリスは、白亜の門から溢れ出す眩い光の気配を、その肌で受け止めた。
「この耳で、この肌で……確かめなければなりません。この街が何を奪い、何を捧げようとしているのか。その真実を、私は掴み取りたいのです」
彼女は、見えない瞳の奥で黄金の不協和音を見据え、迷いなく一歩を踏み出した。




