第22話:『時間稼ぎという名の』
シビュラに促され、重い石造りの階段を上がった先。
通された客室の扉が開いた瞬間、アイリスの鼻腔をくすぐったのは、微かな蜜蝋と、長い年月を経て乾ききった古書の匂いだった。
「ここで休み路を整えなさい。もっとも、いつまでここが安全かは、ギルドの堅物たちの限度次第かもしれないけどね」
シビュラの冷ややかな、けれどどこか楽しげな声が遠ざかり扉が静かに閉まる。
一人残されたアイリスは、杖を突きながらゆっくりと部屋の「形」を確かめた。
そこは、彼女がエヴァリアで過ごしたり訪れた場所。
旅で知ったどの場所とも異なっていた。
壁際には、シビュラが「歴史の断片」と呼んだ鑑定品――精緻な彫刻が施された木箱や、正体不明の金属器、風景画に人物画。そしてざらついた手触りの羊皮紙の束が整然と並んでいる。
エヴァリアの住居が、霧のように簡素で、無駄を削ぎ落とした静謐さを持っているのだとすれば、この部屋は「過剰」という名の美学に支配されていた。
指先が触れる家具の一つひとつに、作り手の執念や、かつての持ち主の欲望が刻まれているような、そんな重々しい空気。
(……落ち着かないけれど。でも、不思議と嫌な感じはしない)
アイリスは、シビュラという女性の底知れぬ打算を感じつつも、この閉ざされた空間が提供してくれる「本物の静寂」に、心からの感謝を覚えた。
舌先には、先ほど振る舞われたお茶の余韻がまだ残っている。
故郷で親しんだ、月の雫のように澄んだ野草茶とは違う。
苦味の奥に複雑な甘みが絡み合い、喉を焼くような熱さの後に鼻から抜ける香料の鋭い刺激。 それは、毒と薬が表裏一体であるこの「外の世界」そのものの味のように感じられた。
アイリスは杖を頼りに部屋の中央にある、沈み込むように柔らかい椅子に腰を下ろした。 深く息を吐き出すと、全身の筋肉がようやく「戦い」の緊張から解放される。
けれど、彼女の感覚の触手は、今もなお住宅街や屋敷の周囲を捜索し続けているギルドの私兵たちの、殺意を孕んだ足音を鋭く捉え続けている。
「……お疲れ様。ごめんなさい、放っておいて」
アイリスは膝の上に、背負っていた「始祖の剣」を横たえた。
彼女の指先が、使い込まれた鞘の紋様をなぞる。
ゆっくりと柄を握り、刃を引き抜く。
地下書庫で見せた、あの理を断ち切るような熱はもはやない。
鞘から現れたのは、磨き抜かれた銀の肌を持つ、ただの一振りの剣だ。
盲目の彼女にはその「輝き」は見えないが、指先に伝わる温度と、空気を切るわずかな震えだけで、その刃がどれほど鋭利に研ぎ澄まされているかを理解していた。
エヴァリアにおいて、剣は単なる武器ではない。
女神の加護により死を忘れた国で、唯一「終わり」の概念を形に留め、国の理に触れることを許された、禁忌にして誇りの象徴。
それを握ることを許されたのは、代々一族だけだった。
(剣を磨くことは、心を磨くこと。理を守ることは、自分を律すること……)
亡き父の言葉が、研磨剤の匂いと共に蘇る。
アイリスは旅袋から、手慣れた手つきでメンテナンスの道具を取り出した。
柔らかな布、上質な丁子油、そして細かな粉を打つための道具。
ここ数日、旅路で外の世界の坩堝に呑み込まれ、生き延びることに必死だった。
ふと触れた刃にわずかな曇りを感じ、アイリスは小さく胸を痛める。
彼女の一族にとって剣の手入れを怠ることは、己の魂を濁らせるのと同じこと。
「この子がいてくれたから……私は、ここまで来られたのに」
アイリスは、布に油を染み込ませ、ゆっくりと、祈るような動作で刃を拭い始めた。 キィ、キィと、微かな摩擦音が静かな部屋に響く。
油が銀の肌に馴染み、剣が本来持っている清冽な冷たさを取り戻していくのが、指先を通じて伝わってくる。
ひと撫でするごとに、アイリスの心からも濁りが消えていった。
自分はエヴァリアの剣士。何を探し、何のために歩いているのか。
裏帳簿に記された「奪われた死」の救い。そして、ベネディクトが残した答えへの道標。
剣との無言の対話は、彼女に戦士としての自覚を呼び戻していく。
手入れを終えた剣を鞘に納め、カチリと硬い音が鳴った。
それは、この街の醜悪な生に立ち向かうための、彼女の覚悟の音だった。
アイリスは剣を抱いたまま、背もたれに深く身を預ける。
研ぎ澄まされた感覚を周囲に張り巡らせたまま、彼女は束の間の、しかし深い休息の眠りへと、その意識を沈めていった。
深い霧が、アイリスの意識を覆っていた。
エヴァリアの凪。何も聞こえず、誰も死なず、ただ永遠に繰り返される再生のゆりかご。 しかし、その柔らかな白の世界に、フェルゼンの黄金が染み込んでくる。
金貨の擦れる音、肉の壁が刻む湿った呼吸、そして「死を奪われた人々」の悲鳴が、凪の静寂を無惨に引き裂いていく。
「……っ」
アイリスは、跳ねるように意識を覚醒させた。
目を開けてもそこにあるのは変わらぬ闇だが、彼女の研ぎ澄まされた聴覚は、瞬時に館の異変を捉えていた。
一階の玄関口。複数の、統制された、しかし隠しきれない殺意を孕んだ足音。
そして、それを受け流すように立ち塞がる、氷のように冷静なシビュラの鼓動。
会話の断片は、厚い石壁と距離に遮られて内容までは届かない。けれど、金属が触れ合う硬い音と、低い威圧的な男の声が、嵐の前の雷鳴のように空気の震えとなって伝わってくる。
(この気配は。ギルド……見つかったの?)
アイリスは音もなく椅子から立ち上がると、傍らに立てかけていた杖を握り、手入れを終えたばかりの「始祖の剣」の感触を確かめた。 数分、あるいはもっと長い時間のようにも感じられた、張り詰めた沈黙。
やがて、玄関の外へと遠ざかっていく複数の足音があった。石畳を叩く馬車の車輪が去り、館の周囲を満たしていた濃厚な殺意が、潮が引くように薄れていく。
残されたのは、シビュラ一人の、凪のように静かな気配だけだった。
アイリスは剣を背負い直し、部屋の扉を見据えた。
やがて、廊下を歩く軽い靴音が近づき、迷いのない動作で扉が開かれる。
「なに、一晩ずっとそんな警戒しながら休んでいたの? 損な性格ね、あなた」
扉の枠に寄りかかり、扇で口元を隠しながらシビュラが笑った。
その鼓動には、先ほどまでの「交渉」の余韻すら感じられない。
「……ギルドの方々の気配がしました。私を、捕まえに来たのではないのですか」
「ええ、もちろん。街じゅうの浮浪者や目端の利く商人が、あなたと私が一緒にいるところを見ていたんですもの。証言なんて腐るほどあったわよ」
シビュラは部屋に入り、窓の隙間から外の様子を伺いながら、淡々と続けた。
「メンデス直属の部隊が『鑑定品を返せ』って、鼻息を荒くして踏み込んできたわ。でも、残念だったわね。私の館は、ギルドの有力者たちにとっても『触れてはいけない不可侵の保管庫』なのよ。適当に誤解を解いて、お帰りいただいたわ」
「誤解……ですか?」
「『あの娘は私が買い取った。鑑定が終わるまではギルドの所有物ではなく、私の商品だ』ってね。ついでに、あの裏帳簿のことも少しだけ匂わせてあげたわ。もし私に何かあれば、あの紙の束が街じゅうの街頭に貼り出されることになる、って。……今の彼らにとって、あなたは喉に刺さった棘だけど、私を敵に回すのは心臓を抜かれるのと同じことなのよ。この街の定めごとを決めて取り締まっているのはギルドの連中だから、皮肉ね。」
シビュラはアイリスの前に立つと、そのフードの端を少しだけ整えてあげた。その動作は、商品を手入れする商人のようでもあり、年若き旅人を案じる姉のようでもあった。
「おかげで、《《しばらくは猶予》》ができたわ。でも、彼らも馬鹿じゃない。表立って踏み込めないなら、次は影から動くでしょうね。あるいは強行で乱暴に取りに来ることだって全然あり得る……さて、アイリス。剣の手入れは終わった? 嵐が来る前に、次の場所へ案内してあげるわ」
アイリスは、杖を強く突き、静かに頷いた。
シビュラが味方なのか、それとも自分という駒を使って、この街の黄金のパワーバランスを書き換えようとしているだけなのかは、依然として分からない。
けれど、この鑑定士が示す道が、今の自分にとって「答え」に繋がる唯一の細い糸であることは間違いなかった。
「はい。準備は、できています」
銀の刃を抱いたアイリスは、再び、黄金の欲望が渦巻くフェルゼンの闇へと足を踏み出す準備を整えた。




