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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
黄金の搾取と禁忌の天秤
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第21話:『黄金の裏帳簿』

 フェルゼンの鐘の音は、遠ざかるほどに鋭い棘となってアイリスの背を刺した。


 フードの陰で息を潜め、シビュラの手首を道標に、アイリスは複雑に絡み合う路地裏を抜けていく。鉄の杖が石畳を叩く音さえも、今は命を削る火花のように感じられた。


 やがて、絶え間ない人の往来が途絶え、大気が「静寂」という名の冷たい水に浸されたような一角へと辿り着く。


 シビュラが古びた鍵を開けアイリスを招き入れたのは、高級住宅街の端にひっそりと佇む石造りの館だった。


 扉が閉まった瞬間、フェルゼンの「音の濁流」が遮断され、代わりに別の異質な世界がアイリスを包み込んだ。 室内には、高価な香油の甘い香りと、古い紙が酸化した微かな酸味、そして硬質な金属の匂いが複雑に混じり合っている。


(……この音は、何?)


 アイリスの耳が、室内のあちこちから響く「無数の鼓動」を捉えた。

 それは生き物の脈動ではない。

 機械仕掛けの時計が刻む精密な歯車の音、あるいは重錘が揺れる微かな震え。

 それらが、冷たく、寸分の狂いもなく整列している。


 持ち主であるシビュラの、感情を排して価値のみを測る「鑑定士」としての本質を象徴するような、隙のない空間だった。


「座りなさい。……お茶を淹れてあげる。毒は入っていないわ、今のところはね」


 シビュラはそう言うと、カチリと音を立てて棚の一角を開いた。

 彼女が手にしたのは、先ほどアイリスから対価として受け取った「月雫の凝縮ルナ・ドロップ」だ。


「これ、改めて見ると本当にいい輝きね。エヴァリアの月光をそのまま閉じ込めたような……。私のコレクションの中でも、指折りの『異端』だわ」


 シビュラはそれを、ガラスケースの中に並んだ無数の奇妙な蒐集品――死者の遺髪、あるいは枯れた古代植物の化石などの隣に、恭しく、しかし冷淡に飾った。


 彼女にとっての美とは、生きた温もりではなく、保存された「価値」に他ならない。


 やがて、アイリスの前に温かいカップが置かれた。

 香りは驚くほど豊かだが、口に含むと驚くほど味が薄い。

 まるで、贅沢な外装を施しながら中身を徹底的に削ぎ落とした、この街そのものを象徴するような茶だった。


 熱い液体が喉を通るたび、地下書庫での緊張がじわりとした「痛み」となって解けていく。肉の壁の脈動、メンデスの冷酷な鼓動。


 それらが網膜の裏側で、見えないはずの影となって揺らめく。


「……助けていただき、ありがとうございました」


「お礼はいいわ。言ったでしょう? 価値あるものは波風を立てるものだって。私はただ、その波がどこまで広がるかを見守りたいだけよ」


 シビュラは、部屋の端で揺れる振り子時計の音に合わせるように、扇で自分の顎を叩いた。そして、氷のような瞳をアイリスの外套へと向ける。


「さて。休息は終わり。……銀髪の旅人さん。あなたは、自分がどれほどのものをあの墓場から盗んできたか、分かっているの?」


 アイリスは微かに肩を震わせ、外套の内側に隠していた「重い束」を取り出した。 指先に触れる紙の感触は、湿り気を帯びて重く、どこか罪の重みそのものを手にしているような不快感があった。


「……それが何なのか、私には分かりません。ただ、あそこにあったものの中で、最も悲しい音がしていたから……」


「悲しい音?」


 シビュラが冷笑を浮かべ、アイリスの手からその束をひったくるように受け取った。 パサリ、と古い革の表紙が捲られる。


 シビュラがそのページを指でなぞり、内容を読み解き始めた瞬間、館の静寂がさらに深く沈み込んだ。


 シビュラの鼓動が、一瞬だけ速まった。


 アイリスの鋭い耳は、その鑑定士の「動揺」を逃さなかった。常に一定の凪を保っていた彼女の血の流れが、明らかに乱れている。


「……くふふ、これは傑作だわ。メンデスが血眼になって追ってくるわけね」


 シビュラの指が、紙面を激しく叩く。


「これ、ただの書物じゃないわ。フェルゼンが数百年かけて隠し続けてきた、『死』を買い叩くための……黄金の裏帳簿よ」


「……死を、買い叩く?」


 アイリスの問いに、シビュラはページを捲る音を部屋中に響かせながら、残酷な事実を紡ぎ始めた。


「そうよ。この街の『生存』は平等じゃない。ギルドは、貧しい者たちの『安らかに終わる権利』を、わずかなパンや薬と引き換えに不当に買い叩いてきた。そして、そこで余った『寿命』という名の情報を、金を持つ富裕層へ横流ししていた。……地下にあったあの肉の壁は、その歪な取引の記録を維持するための、巨大な記憶装置だったのよ」


 シビュラの朗読は、アイリスの心に冷たい棘となって突き刺さる。

 故郷エヴァリアでは、死は女神の加護により遠ざけられ、生は等しく与えられる静寂だった。 しかし、このフェルゼンでは、死は略奪の対象であり、生は他者から奪い取らなければならない「商品」だったのだ。


 アイリスの手が、無意識に震え始める。 「そんな……。終わることも、奪われるというのですか」


「そうよ。ここでは、死ぬことさえ金がかかる。……そして、この帳簿にはその全記録と、それを可能にした禁忌の処方箋が記されている。あなたが盗んできたのは、この街の黄金の覆いを剥ぎ取るための、劇薬なのよ」


 シビュラの鼓動は、恐怖ではなく、かつてないほどの昂揚感に満ちていた。


 シビュラは捲り終えた帳簿をテーブルに置くと、椅子の背にもたれかかり、天井を仰いだ。無数に並ぶ時計の針が刻む音が、まるで彼女の思考を整理する歯車のように、一糸乱れぬリズムで室内に降り注いでいる。


「……ねえ、アイリス。この街の人々は、誰もが天秤の上で踊っているのよ」


 シビュラが不意に、独白のような声を漏らした。その響きには、これまでの打算的な鋭さとは異なる、どこか遠い場所を見つめるような虚無感が混じっている。


「私はこれまで、数えきれないほどの命を鑑定してきた。誰の寿命が残りいくらで、誰の絶望が金貨何枚に相当するのか……。この仕事をしているとね、命なんてものは、ただの数字や記号にしか見えなくなる。フェルゼンの連中は、その記号を書き換えて、永遠を手に入れようと躍起になっているわ」


 彼女は傍らの棚にある古い砂時計を指先で弾いた。さらさらと落ちる砂の音を、アイリスは耳を澄ませて捉える。


「私は、そんな彼らの執着を心底軽蔑している。……けれど同時に、そんな醜い執念の結晶を誰よりも高く値踏みせずにはいられない自分も、同じくらい軽蔑しているのよ。私はこの街の汚濁に浸かりすぎて、もはや鑑定すること以外に、命の重さを感じる方法を忘れてしまったのかもしれないわね」


 シビュラの鼓動が、自嘲気味な拍動を刻む。それは、フェルゼンの闇に魂を半分売り渡した者の、孤独な響きだった。


「……エヴァリアの剣士。あなたは、この汚れた帳簿に記された『奪われた死』をどう思う?」


 投げかけられた問いは、アイリスの胸の奥底へと深く沈んでいった。 彼女は、自らの膝の上に置かれた「始祖の剣」の鞘を、慈しむように撫でる。


「エヴァリアでは、死は女神様が《《いつかくださる》》『最後の安らぎ』だと教わってきました。故に決して訪れることはないものだと…誰もが見ることも触れることもできない、けれど等しくそこにある凪……」


 アイリスは、エンド・ロアの旅路で出会ったベネディクトの静かな横顔を思い浮かべた。彼が説いた、正しく生きるための痛みと、正しく終わることの尊厳。


「この帳簿に記された人々は、その最後の安らぎさえも、誰かの私欲のために奪われてしまったのですね。……終わることができない。それは、再生の理の中にいた私でも、想像を絶するほど残酷なことだと思います。私の剣は、本来、理を正すためにあるはずのもの。奪われた死を……あるべき終わりを奪い返すことこそが、本当の『救い』なのではないでしょうか」


 アイリスの声には、迷いのない意志が宿っていた。 「正しく終わること」は、決して敗北ではない。それは一つの命が、その旅を完結させるための、最も崇高な権利なのだ。


「そのあなたが大事そうに背負っている物騒な剣がねえ。そんな摩訶不思議な力があるようには見えないけども」


 その時だった。 アイリスの鋭敏な聴覚が、家の外のわずかな変化を捉えた。


 石畳を擦る微かな金属音。統制された、しかし殺意を帯びた複数の足音。

 ギルドの捜索部隊が、確実にこの建物を包囲しようとしている。

 アイリスは即座に杖を握り、立ち上がろうとした。


「シビュラさん、追手が……」


「座っていなさい。お茶が冷めるわよ」


 シビュラは動じることなく、最後の一口の茶をゆっくりと啜った。

 カップがソーサーに戻るカチリという音が、不気味なほど落ち着いて響く。


「ここは大丈夫よ。私の家だもの。ギルドの連中とはね、長年ずっと持ちつ持たれつの『汚くて美味しい取引』を続けてきたわ。やつらも、自分の命を鑑定してもらう窓口を自ら潰すほど愚かじゃない。私の身体はまだまだ価値があるのよ」


 彼女は窓の外を見ることさえせず、テーブルの上の帳簿を愛おしげに指先でなぞった。


「……ねえ、アイリス。あなたを助けた対価、何にしようかずっと考えていたけれど……今回はこれで許してあげるわ」


 シビュラの唇が、ゾクゾクするような歓喜に歪んだ。


「こんなにも血の匂いがして、それでいて黄金の輝きを放つお宝なんて、この街じゅうを探しても他にないわ。……不思議ね。目が見えないあなただからこそ、迷わずにこの『罪』に触れて、手にすることができたのかも。あるいは、この帳簿自身が、あなたに救いを求めたのかしら?」


 彼女の微笑は、慈悲深い聖母のようでもあり、獲物を毒で麻痺させる蜘蛛のようでもあった。 アイリスには、シビュラの真意がどこにあるのかは分からない。

 自分を救ってくれた恩人なのか、それとも、この帳簿という「劇薬」を使ってフェルゼンに大混乱を巻き起こそうとする狂言回しなのか。


 あるいは、アイリスという存在そのものを、さらに大きな取引のための「最高の駒」として鑑定しているだけなのかもしれない。


「さあ、外が騒がしくなってきたわ。……この帳簿は、私が責任を持って『適切に』処理してあげる。あなたは、もう少しこの静寂を楽しんでいくといいわ」


 シビュラは、再び一定の凪を取り戻した鼓動で、闇の奥へと帳簿を隠しに席を立った。 アイリスは一人、無数に刻まれる時計の音の中で、自分の背負った剣の重みを改めて噛み締めていた。

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