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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
黄金の搾取と禁忌の天秤
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第25話:『少年の声』

 劇場の熱気は、今や沸点に達していた。


 階下から昇ってくる数千人の鼓動は、個別の拍動であることを止め一つの巨大な、飢えた獣の唸り声となってアイリスの肌を震わせている。


「さあ、紳士淑女の皆様! ついにこの時がやって参りました!」


 司会者の声が、ひときわ高く、芝居がかった響きで劇場を支配する。


「フェルゼンの黎明より語り継がれ、ギルドの英知が封印された『禁忌の図書館』。その扉を開く唯一無二の手段――これこそが本日の至宝、『図書館の鍵』でございます!」


 アイリスは個室のバルコニーで、無意識に手すりを握りしめていた。

 彼女の感覚が捉えたのは、舞台の上に運び込まれた「物」が放つ、異質な振動だった。それは金属が擦れ合う硬い音でも、古びた石の匂いでもない。


 舞台の中央に置かれたのは、小さな椅子と、そこに座らされた一人の子供だった。


「……っ」


 アイリスは、仮面の奥で息を呑んだ。

 その「鍵」と呼ばれた存在から放たれる拍動は、あまりにも弱く、そして絶望的なまでに無機質だった。


 人間であれば必ず持っているはずの、状況に対する恐怖や、見知らぬ群衆に晒される羞恥といった「感情の揺らぎ」が一切感じられない。


 代わりに、血管を流れる薬物の重い沈殿物と、喉の奥に埋め込まれた異物による、不自然なほど規則正しい、機械のような律動だけが響いている。


「驚かれるのも無理はございません。この者は、声帯を特殊な術式で調律され、特定の波長の音――扉を解錠するための『旋律』を記憶させるためだけに作り上げられた、生きた精密機械なのです」


 司会者の誇らしげな説明が、アイリスの耳には鋭利な刃物のように突き刺さった。


 人間を、その意志を剥ぎ取り、ただの解錠道具へと改造する。それは、エヴァリアで不死の加護を受けながら歪んでいった者たちや、エンド・ロアで死を乞うていた人々よりも、さらに深い冒涜に思えた。


(……この子の『声』には、自分がない。ただ、誰かが望む音を出すためだけの、空洞……)


 アイリスの内に、静かな、しかし烈火のような憤りが灯った。


 それは、エヴァリアの剣士として「正しく生きること」と「尊厳を持って終わること」を重んじる彼女の魂が、この街の「生の扱い方」に対して上げた、初めての明確な悲鳴だった。


「ひどい顔をしているわね、アイリス。仮面越しでも、あなたの嫌悪が伝わってくるわ」


 隣で扇を揺らすシビュラの声は、どこまでも涼やかだった。


「でも、これがこの街の『価値』の正体よ。彼らにとって、あの子供はもう人間ではない。図書館に眠る、金貨よりも価値ある知識へ至るための『機能』そのものなの」


 シビュラの鼓動は、驚くほど冷静だった。だが、その冷たさの奥で、彼女もまた獲物を狙う鷹のように、舞台上の「鍵」を冷徹に鑑定していた。


「……おかしい」


 個室の縁を握るアイリスの指先に、かすかな震えが走った。


「シビュラさん、ギルドの方々の拍動が……変です。大切なものを。隠しているものを奪われようとしている焦りが、どこからも聞こえません。むしろ、静かで、粘りつくような……」


「愉悦、でしょう?」


 シビュラは冷ややかに、けれどどこか楽しげに言葉を継いだ。

 扇の先で階下のメンデスを指し示す。


「あいつらが、自分たちの権力の源である『心臓』を、本気で他人に売り渡すわけがないじゃない。これは『洗浄』なのよ、アイリス。不都合な記録や血塗られた過去を、一度『商品』という形にして金で洗う。そして、改めて自分の身内や傀儡に買い取らせることで、それを公認された正当な財産に書き換える……。ここは競売場じゃないわ、罪を消し去るための祭壇なのよ」


 その言葉を裏付けるように、会場の空気が一変した。

 司会者が開始価格を告げる間もなく、最前列から一際重く、鋭い金属音が響く。


「……全額だ」


 メンデスが、その冷徹な声を劇場全体に染み渡らせた。

 彼が提示したのは、他の追随を許さない暴力的なまでの金額。

 会場全体が凍りついたような静寂に包まれる。


 アイリスの耳に届くメンデスの鼓動は、驚くほど安定していた。

 罠にかかった獲物を眺める蜘蛛のように、獲物を包み込む糸の感触を慈しむような、醜悪なまでの安らぎ。


 彼は、この「鍵」――すなわち、何も知らぬ子供の人生を買い取ることで、自らの闇を光り輝く黄金の盾に変えようとしている。


 シビュラが、ゆっくりと優雅な動作で扇を畳んだ。

 その乾いた音が、個室の中でアイリスの背中を叩く。


「ねえ、アイリス。教えてくれない?」


 シビュラの声が、毒を含んだ蜜のように耳元で囁かれた。


「あの『鍵』……あの子が今、どんな悲鳴を上げているのか。黄金の数字が飛び交うこの喧騒の中で、あの子の魂がどんな音で泣いているのか。……私には聞こえない、その『絶望の音』を、あなたの声で暴いてご覧なさい」


 アイリスは、個室を仕切る厚いカーテンを、僅かにその手で押し開いた。

 仮面の奥の、光を映さない瞳を舞台の上の子供へと向ける。


 数千人の欲望のうねり、金貨の擦れる音、メンデスの傲慢な拍動。


 それらすべてのノイズを削ぎ落とした先で、アイリスが聴いたのは――あまりにも静かな、そして深い「虚無」の底から漏れ出す、魂の断末魔だった。


「……あの子は」


 アイリスの声が、微かに、けれど確かな芯を持って震えた。


「あの子は、助けてとさえ言っていません。ただ……自分が『音』として消えていくことを、ただ待っている。死ぬことさえ許されず、誰かの扉を開けるためだけの『振動』に成り果ててしまった自分を……」


 アイリスの内に、エヴァリアの凪とも、外の世界の喧騒とも違う、激しい感情の奔流が湧き上がる。 それは、正しく生きる権利を、そして正しく終わる権利を「金」という記号で踏みにじられた者への、烈火のような同情と憤りだった。


 シビュラが、個室の壁に埋め込まれた真鍮製の集音管に、細い指先を這わせた。


「さあ、聴かせてあげなさい。この街が忘れてしまった『本物の価値』を。あなたが感じるままの言葉が、一番の毒になるわ」


 シビュラがレバーを引くと、バルコニーの個室と会場を繋ぐ魔石が淡く発光し、アイリスの周囲の空気を震わせた。彼女の囁きさえも、劇場の隅々まで届く聖歌のように増幅される「鑑定士の特権」だ。


 アイリスは一歩、暗がりの個室から光の差す縁へと踏み出した。


 会場ではメンデスが勝利を確信し、冷酷な微笑を浮かべてガベルが鳴るのを待っている。だが、その頭上から、霧の中から響く鐘の音のような、清冽な声が降り注いだ。


「……その子は、もう扉を開けることはできません」


 会場の熱狂が、一瞬で凍りついた。

 数千人の視線が、シビュラの個室へと吸い寄せられる。 銀の仮面をつけ、光を反射する彫像のように佇むアイリス。その姿は、欲望にまみれた会場において、あまりにも異質で、神聖なほどに美しい。


「その子の喉の奥で鳴っているのは、旋律ではありません。……それは、行き場を失い、自らを削り取って消えようとする魂の悲鳴です。あなたたちが金貨を積むたびに、その子は『鍵』としての機能を、自ら壊していく」


 アイリスの声には、不思議な説得力が宿っていた。

 盲目の彼女が捉える「音の真実」が、振動となって聴衆の心に直接触れたのだ。


「誰が嘘を吐いている!」 最前列でメンデスが立ち上がった。その拍動は怒りに濁り、冷徹な仮面が剥がれ落ちる。 「シビュラ、貴様の仕込みか! その名もなき鑑定品に、何がわかる!」


「あら、メンデス。私の至宝が嘘を吐いていると言うの?」 シビュラが余裕たっぷりに個室の帳を開き、アイリスの隣に立った。


「彼女には、あなたたちの耳には届かない『崩壊の音』が聴こえているのよ。価値のない抜け殻に、全財産を投じるおつもりかしら?」


 メンデスは、忌々しげにバルコニーを見上げた。

 その時、光の加減が、アイリスの顔を覆う銀の仮面を透かした。

 あるいは、アイリス自身が真実を突きつけるためにその顔を僅かに上げたのかもしれない。


 メンデスの目には、仮面の隙間から覗く、あの地下書庫で見た「光を映さぬ瞳」と「銀の髪」がはっきりと映し出された。


「……貴様、あの時の」


 メンデスの鼓動が、驚愕と、底知れぬ殺意へと跳ね上がった。


「そうか……やはりシビュラ、貴様、ギルドの反逆者を匿っていたか!」


 その叫びが、混乱の引き金となった。

 メンデスの怒号に合わせるように、劇場の天井に張り巡らされた巨大な天窓が、凄まじい音を立てて砕け散った。


 降り注ぐ硝子の破片が、劇場の黄金の照明を乱反射させ、幻想的なまでの惨劇の序曲を奏でる。

 闇の中から、影のような刺客たちが次々と舞台へと舞い降りた。


 彼らは「鍵」である子供を奪取するため、あるいは混乱に乗じてギルドの重鎮を仕留めるために放たれた、第三の勢力。


「キャアア!」 悲鳴と怒号が渦巻く中、劇場は一瞬にして「生の品評会」から「死の戦場」へと変貌した。


「さあ、アイリス。舞台は整ったわ」 シビュラは騒乱を眺め、悦びに満ちた声で囁いた。 「真実を暴いたのなら、最後まで責任を持ちなさい。あなたのその剣は、偽りの生を終わらせるためにあるのでしょう?」


 アイリスは、背負った「始祖の剣」の柄に指をかけた。

 喧騒の中、彼女の感覚だけが、舞台の上の子供が放つ消え入りそうな細い、けれどこの場で最も純粋な「震え」を捉え続けている。


(……助けなければ)


 アイリスは杖を手放した。

 彼女の指先が、研ぎ澄まされた銀の柄を強く握りしめる。

 鞘から刃が滑り出した瞬間、劇場の狂乱とは隔絶された、冷たく清らかな月光のような熱がアイリスの全身を駆け抜けた。

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