最高
午後二時五十分。秋晴れの空の下、黎明高校の文化祭は最高潮の盛り上がりを迎えていた。
校庭に並んだ模擬店からは香ばしいソースや甘いクレープの匂いが立ち込め、体育館では演劇部の公演が満員御礼の札を掲げている。中庭の通路はすれ違うのも一苦労なほどの熱気に満ちていた。
そして今、中庭に設営された特設ライブステージの前には、信じられないほどの大規模な人だかりが形成されつつあった。
「次は1年2組のライブらしいよ!」
「あの和風メイド喫茶で無双してた、小紫さんが出るんだって!?」
「まじか、それは絶対に見に行かないと!」
そんな外の喧騒とは裏腹に、ステージ裏の控室の空気は、重く、沈み切っていた。
「やだ。絶対にやだ。地球が滅亡してライブごとなくなればいいのに」
鏡の前で、私はこれ以上ないほど真剣な真顔で呟いた。
「うん、知ってる」
衣装の最終チェックをしていた桜音が、慣れた様子で淡々と答える。
「やっぱり嫌よ。今からでも代役を立てるべきだわ。藍瑠に着せてステージに放り込めばいいのよ」
「それ十分前にも聞いた。あと、藍瑠は透歌見たいって言ってたから無理」
「……今からでも急激な悪寒と高熱が出ないかしら」
「そんな都合よく体温コントロールしないで。ほら、往生際が悪いよ、お姫様」
私はがっくりと肩を落とし、メイク台の机に思いきり突っ伏した。胸の奥で、心臓がバクバクと壊れた時計のようにうるさい音を立てている。
前世での北方の再建、千隼と萌乃との対話。それを全部、私は完璧に経験し、乗り越えてきたはずなのだ。なのに。
「なんで……なんでただの高校の文化祭ライブの方が、あの何倍も緊張するのよ……!」
私の呻き声を聞きながら、ライブ組のメンバーはステージ専用の衣装へと着替えを済ませていく。
今回の衣装は、午前中の和風メイド服とは全く異なる、ライブ専用にデザインされた特注品だった。メンバーそれぞれにイメージカラーがあり、桜音は情熱的な赤。そしてセンターを務める私の衣装は――淡い浅黄色と、深い夜空色を基調としたものだった。
それは、細部にまでこだわり抜かれた、短め丈の和洋折衷の着物。裾は膝丈ほどで、動くたびにひらひらと軽やかに翻る。
ウエストをきゅっと引き締めるのは、シックな黒い帯リボン。そして、夜空色の生地の袖には、可憐な桜の模様が白く浮かび上がっている。動きやすさとステージ映えする華やかさを完璧に両立した、恐ろしく完成度の高い衣装だった。姿見の鏡に映る自分の姿を見る。
「……」
あまりにも普段の自分とかけ離れていて、少しだけ、いや、猛烈に落ち着かない。
「透歌」
桜音が私の後ろから鏡を覗き込んできて、満面の笑みを浮かべた。
「すっごく、かわいい」
「……ちょっと、待って。なんでそんなに自信満々なのよ。私自身のライフはもう残り数ミリなのだけど」
「だって事実だもん。透歌は自分のビジュアルをもっと自覚した方がいい」
「この人、緊張してる私をからかって楽しんでるわ……!」
私が頭をかかえたその時、控室の扉が勢いよく開き、インカムをつけたステージスタッフが顔を出した。
「1年2組のみなさん、本番五分前です! ステージ袖へ移動をお願いします!」
その一言で、控室の空気がピリリと張り詰めた。いよいよ、逃げ場のない本番がやってくる。立ち上がった私の手が、誰にも気付かれない程度に、ほんの少しだけ小さく震えていた。呼吸が浅くなる。
「透歌」
隣を歩く桜音が、ステージ袖の暗がりに着いたところで、そっと私の肩を叩いた。
「ちょっとだけ、カーテンの隙間から客席を見てみなよ」
「え……? 嫌よ、余計に緊張するじゃない」「いいから、ほら」
促されるままに、私はステージの厚い黒幕の隙間から、外の景色をそっと覗き込んだ。視界に飛び込んできたのは、中庭を埋め尽くす圧倒的な人の数だった。大勢の生徒たち、ビデオカメラを構える保護者、腕組みをして見守る先生。
その、人の海のなかを、私は無意識に泳ぐように探していた。そして――見つけた。たった一人だけ、私の世界の中で、特別に色彩が際立っている人物を。
彼は、午前中と同じ、凛とした濃紺の袴姿のままだった。中庭のプラスチック椅子の席で、相変わらず背筋を真っ直ぐに伸ばして座っている。
その圧倒的な容姿のせいで、周囲の女子生徒たちがチラチラと彼を盗み見ているが、たぶん本人はこれっぽっちも気付いていない。相変わらず、周囲に関心のない男だ。
でも。宵は、周りの誰のことも見ていなかった。ステージの袖、黒幕の隙間から覗く、私だけを――その真っ直ぐな、切れ長の瞳で見つめていた。数十メートルも離れているのに。これほど多くの人間がひしめき合っているのに。なぜか、ちゃんと分かった。彼が私を見て、心の中で『大丈夫だ』と、静かに告げてくれた気がした。
「……ふっ」
私は思わず、小さく笑ってしまった。本当に不思議だった。数分前まで、本気で体調不良を装って逃げ出したかったはずなのに。彼の姿を見た瞬間に、手の震えがピタリと止まり、少しだけ頑張ってみようと思えたのだから。
「見つけた?」
私の表情の変化を見逃さなかった桜音が、ニヤニヤしながら聞いてくる。
「ええ」
「いた?」
「いたわよ。相変わらず、目立つ座り方をしてたわ」
「ほらね」
私の後ろから、桜音が声を潜めて言った。
「透歌の顔。少し……いや、完全に安心してる」
私は胸中を見透かされたのが恥ずかしくなり、誤魔化すようにわざとらしく咳払いをした。
「き、気のせいよ。ただの深呼吸の成果です」
「気のせいじゃないなー」
「気のせいよ」
「いやー、本当にわかりやすいなぁ、透歌は!客席でがち見するから」
いつの間にか、楽器のセッティングのために後ろに控えていた藍瑠が、意地の悪い笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいた。
「珠瀬さん」
「はいっ」
「黙って。本番前に叩き出されたい?」
「はーい、黙りまーす!」
藍瑠が慌てて口にチャックをするジェスチャーを見せる。そのやり取りに、クラスのメンバーの緊張がふっと和らいだ。
「1年2組、スタンバイお願いします! カウント、5、4、3……」
スタッフの鋭い声が響く。ステージの外からは、地鳴りのような大歓声が聞こえていた。パン、とステージのきらびやかな照明が灯り、世界が光に包まれる。
桜音がドラムスティックを強く握りしめ、拳を掲げる。客席で未遥が深く息を吸い込む。私は最後にもう一度だけ、客席のあの場所を見た。
宵がいた。何があっても変わらず、あそこにいてくれる。昔。前世の、あの冷たい風が吹く北方の丘で。私のために不器用ながらも望望鏡を作ってくれた、愛しい、千年待ち続けた人。時代が変わっても、形が変わっても、彼は変わらずに私を見守ってくれている。
「……よし」
私は小さく、けれど深く息を吐き出した。もう逃げない。この大切な日常を、全力で楽しむと決めたのだから。
「いくわよ、みんな!」
私の声を合図に、ステージの幕が一気に開いた。目の前を覆い尽くす、眩いばかりの五色の光。耳を突き刺すような、全校生徒からの地を揺るがす大歓声。私は一瞬だけ、緊張のあまりに死にそうな顔になりかけたがそれを一瞬で完璧な、弾けるようなアイドルスマイルへと塗り替えた。マイクを両手でしっかりと握りしめ、私はステージの中央へと躍り出る。
「よろよろー! みんな、今日は最高だったー!? 今からライブステージが始まるよ! 楽しんでねっ!」
私の弾けた声が、スピーカーを通じて中庭全体へと響き渡る。その瞬間、会場のボルテージは一気に爆発した。こうして、小紫透歌の、人生で一番特別で忘れられない文化祭ライブが、ついに幕を開けたのだった――。




