夕焼けに想う
文化祭前日。放課後のチャイムが鳴り響いた教室の窓は、燃えるような見事な夕焼け色に染まっていた。
「終わったぁぁぁーーー!! 完全にやりきったわよ、私!!」
長かった準備期間の終わりを告げると同時に机の上に派手に突っ伏した。限界まで使い切った体からは、すべてのエネルギーが抜け落ちている。
「本当に、お疲れ様。でも、すごく楽しかったね」
「うう、桜音はなんでそんなに元気なのぉ……。私なんて、もう指一本動かす気力も残ってないわよ……」
愚痴をこぼす桜音とは対照的に、クラスメイトたちの顔はどこか晴れやかで、教室全体が心地よい達成感に満ちあふれていた。
入り口に飾る大型の看板、完成。机を並べ替えて布を敷いた、格式高い内装の装飾、完成。女子たちが夜なべをして縫い上げた、あの噂の和風メイド衣装、完成。
そして、試作を繰り返した抹茶やお菓子のメニュー、すべて完成。文化祭の準備は、ほぼ終わった。張り詰めていた空気が緩み、あとは明日という特別な一日を迎えるだけとなった、そんな放課後の静けさ。
「透歌」
ふいに低く、聞き馴染んだ声に名前を呼ばれて振り返る。いつの間にか教室の後ろの扉に、いつもの通学カバンを片手に持った宵が立っていた。
「帰るか」
「うん、そうね」
私が荷物をまとめようとすると、すぐさま机から顔を上げた桜音が、ニヤニヤとした視線を送ってきた。
「はいはい、いってらっしゃーい! 二人きりで仲良くお帰りくださいな」
「楼來!!透歌に近づかないでよっ!」
藍瑠の叫びが聞こえてきた。
「いいなー、これが噂の『文化祭前日イベント』ってやつか! 羨ましすぎて爆発しそうだわ!」
「何よそれ。ただ一緒に帰るだけよ、バカなこと言ってないで早く片付けなさい」
私は呆れながらも、カバンを肩にかけ、からかってくる二人を軽く睨みつけた。
「じゃあね、また明日」
「うん、また明日ねー! 明日は遅刻しちゃダメだよ、センター小紫さん!」
「わかってるわよ」
賑やかな教室を後にして、宵と二人で校舎を出る。グラウンドでは、まだ運動部が大会に向けて大声を張り上げて練習していた。
遠くの音楽室からは、吹奏楽部が明日演奏するであろう軽快なメロディの断片が風に乗って聞こえてくる。少し汗ばむような、夏の始まりを予感させるような、独特の匂いが鼻腔をくすぐった。私たちは並んで歩き出す。
学校から駅までの道。この春から、もう何度も、何十回も二人で歩いた、なんてことのない普通の帰り道だ。それなのに、今日だけは、夕焼けの色のせいか、それとも周囲の浮き足立った空気のせいか、少しだけ特別に感じられた。
「緊張しているな」
前を見据えたまま、宵がぽつりと言った。
「してないわよ」
私は一秒の迷いもなく、即答した。
「している」
「してない」
「ライブステージ」
宵がその単語を口にした瞬間、私はピタリと口を閉ざした。完璧な図星だった。
「……少しだけよ」
「少しじゃないだろ」
「……わかったわよ、かなり緊張してるわよ。悪かったわね」
私は小さくため息をつき、観念したように白旗を上げた。文化祭。何百人もの生徒が集まるライブ。そのど真ん中という人前。冷静に考えて、私の苦手な要素がこれでもかとグランドスラムを達成している。
「逃げたいか?」
「ちょっとね」
「今からでも、逃げるか?」
宵の大真面目な提案に、私は思わず吹き出してしまった。空の薔薇色と橙色はどんどん逃げていく。代わりに私の目の前に咲いた一等星のような燦めきは東の空に浮かんだ。
「逃げないわよ。みんなで一生懸命準備したんだもの」
「そうだろうな」
宵も、私の答えを最初から知っていたかのように、少しだけ満足そうに口元を緩めた。傾いた夕日が、アスファルトの上に私たちの長い、長い二つの影を落としている。しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。
聞こえるのは、カツカツというお互いの靴音と、遠くを走る車の音だけ。でも、不思議と気まずさは一切なかった。思えば、昔からそうだった。前世のあの過酷な戦場でも、移動中の馬車の中でも、私たちは何も話さず、ただ隣にいるだけで心が不思議と深く落ち着いたのだ。
「ねえ、宵」
私は沈黙を破り、空を見上げながら口を開いた。
「ん?」
「文化祭って、なんだか不思議ね」
「どうしてだ」
「だって、前世のあの頃なら、絶対に考えられないもの」
茜色から花紺青へと変わりゆくグラデーションの空を目で追いながら、私は言葉を紡ぐ。
「身分も立場も関係なく、みんなで一つの場所に集まって。何週間も前から、ああでもない、こうでもないって言いながら準備をして。本番に向けて失敗したり、成功したりして、一喜一憂する。そんな、ただ楽しむためだけの時間なんて、北にさえ作れなかった。」
少しだけ自嘲気味に笑い、続ける。北は身分関係なく平等で自由な国を作りたかった。だが時代的には身分関係なく、というのは儚い風の前の塵と同じような夢だった。
「たぶんね、明日が終わっちゃったら、すごく寂しくなると思うの。こんなに毎日が目まぐるしくて楽しかったから」
宵は私の言葉を、遮ることもなく、静かに聞いていた。そして、駅前の交差点が近づいた頃、静かに口を開いた。
「終わるから、楽しいんだろう」
「……そうかもね」
駅前の信号機が、タイミングよく赤に変わる。私たちは、並んで白線の手前に足を止めた。夕焼けの赤い光に包まれながら、私はふと思った。前世の記憶。
冷たい風が吹き抜けていた北方の地。華やかだけど冷酷だった王都。命をかけて紡いだ、あの残酷で美しい物語。それらすべてが、今のこの世界にいると、なんだか遠い昔の夢のように思えてくる。
けれど。世界の形が変わっても、言葉が変わっても、私の隣にいるこの人だけは、あの頃と何一つ変わらない。
「宵」
「なんだ」
「ありがとう」
不意の言葉に、宵が少しだけ首を傾げた。
「急だな」
「なんとなくよ」
私は、彼の綺麗な横顔を見つめながら、心からの笑みを浮かべた。
「またあなたに会えて、本当によかった。大好きよ」
千年。あるいは、それ以上の途方もない時間を、私たちは暗闇の中で待ったのかもしれない。それでも、こうしてまた同じ時代に生まれ変わり、同じ制服を着て、並んで帰り道を歩いている。
神様がくれた今世のボーナスタイムは、これだけでお釣りが来るほど十分だった。ピピッ、と音がして、信号が青に変わる。私が一歩を歩き出そうとした、その時だった。
「透歌」
宵が私の名前を呼び、私の歩みを止めた。
「?」
振り返ると、宵は少しだけ私から視線を逸らしていた。耳の尖った部分が、夕日のせいだけではなく、ほんの少し赤くなっているように見える。彼は少しだけ照れたように、けれど真っ直ぐな声を絞り出した。
「明日」
「うん」
「頑張れ」
張り詰めた空気から出てきたのが、またしてもその一言だったため、私は思わずお腹を抱えて吹き出してしまった。
「ふふっ、あはは! またそれ!? あなた、本当にそれしか言えないのね!」
「……他に言葉が見つからない。俺の語彙ではこれが限界だ」
「本当に不器用ね、宵は」
「知っている」
二人で顔を見合わせ、声を合わせて笑った。その瞬間、胸の中にあった重苦しい緊張が、綺麗さっぱり消え去っていくのが分かった。
そして、私たちは駅に到着した。ホームは、これから帰宅する他校の学生や会社員たちで激しく賑わっている。自動改札機の音、電車の接近メロディ。どこにでもある、いつもの日常の景色。
だけど、別れ際。宵が制服のポケットから、小さな白い紙袋を差し出してきた。
「これ、やる」
「え? 何これ」
受け取ると、予想以上に軽い。驚きながら中を覗き込むと、そこに入っていたのは――。コロンとした、手のひらサイズの小さな鈴。そして、それに結びつけられているのは、鮮やかな桜色のグラデーションが美しい、丁寧に編み込まれた組紐のお守りだった。
「文化祭用だ。お前の衣装に合うと思って、色のトーンを合わせた」
私は目を丸くして、その繊細な職人技のようなお守りを見つめた。
「これ……まさか、宵が自分で作ったの?」「ああ。麻の紐を染めて、編んだ」
「……あなた、器用すぎない? 」
「前世で作った天体望遠鏡に比べれば、この程度の編み込みは簡単だった」
比較する基準のスケールが、相変わらずおかしすぎる。私は呆れ、それから愛おしさに胸をいっぱいにしながら、思わずクスリと笑った。
そして、手のひらの中でその小さなお守りをそっと握りしめる。ほんのりと、宵の体温が残っているようで、じんわりと温かい。
「ありがとう。……大事にするわね」
「そうしてくれ。お前の後ろ盾だ」
ゴォォォ、と激しい音を立てて、ホームに電車が滑り込んできた。いよいよ、今日の別れの時間だ。
「じゃあね」
「ああ、また明日」
「ええ、また明日」
プシュー、と音を立ててドアが閉まる。ゆっくりと動き出す電車の窓越しに、ホームで見送ってくれる宵の、背筋の伸びた佇まいが見えた。彼が小さく手を振ってくれる。その姿が見えなくなるまで見つめながら、私は胸元で、貰ったばかりのお守りをぎゅっと握りしめた。明日は、いよいよ文化祭本番。
きっと、私たちの歴史の中で、一番忘れられない最高の素晴らしい一日になる――。




