北辰庵
文化祭本番まで、あと二週間。
「……もう無理。私のライフは完全にゼロよ」
昼休みの賑やかな教室で、私は自分の机に突っ伏したまま、消え入りそうな声で呟いた。机の冷たい木目が、微熱を持った頬に心地いい。
「はーい、じゃあもう一回最初からいくよー!」
放課後の薄暗い体育館。大型スピーカーから大音量で流れるのは、今どきのアップテンポなダンスナンバーだ。
「さん、に、いち、せーのっ!」
実行委員の元気な掛け声とともに、ライブ組のメンバーが一斉に動き出す。音楽。ダンス。複雑なフォーメーションの振り付け。そして――。
「あ、小紫さん、そこ左右が逆!」
「きゃっ」
案の定、私は方向転換のステップを派手に間違え、隣の女子とぶつかりそうになって慌てておっとっと、と不恰好に踏みとどまった。
「ごめんなさい! 本当にすみません!」
「あはは、大丈夫大丈夫! ドンマイ透歌ちゃん!」
周囲のメンバーは信じられないほど優しい。誰一人として嫌な顔をせず、むしろ
「慣れないと難しいよね」
と笑顔でフォローしてくれる。優しい。確かに優しいのだが、それが逆に申し訳なさすぎて、私の精神は完全に死んでいた。
「どうして……どうして私がこんな目に……」
前世での記憶を総動員してみる。荒れていた北の財政再建。国益をかけた巨大商会の立ち上げと運営。さらには、一触即発の緊迫した外交交渉。
それらは全部、完璧にこなしてみせた。私は確かに歴史に名を残したはずなのだ。なのに。
「なんで……なんで右足を出して左に回るだけのステップ一つが、満足に覚えられないのよ……!」
「うーん、やっぱり人間、向いてることと向いてないことがあるからねー」
体育館のステージ下、ドラムセットの前に座った桜音が、スティックを器用に指で回しながらのんびりと言った。ちなみに、付き添い兼バンドメンバーとして参加している桜音はといえば、
「せっかくのアイドルソングなんだから、もっと腰をキュッと入れて、こう! はーい、可愛くポーズ!」
なんて言いながら、お手本としてキレッキレのダンスを披露してみせた。私よりも遥かに完璧に、しかも楽しそうに踊っている。
「ちょっと桜音、なんであなたそんなに踊れるのよ……」
「え? 昔からアイドルオタクだから! 画面の前で完コピするの、私の特技なんだよねー」
理由が信じられないほど軽い。前世であれほどお淑やかだった私の親友は、今世で立派な現代っ子に育ちすぎていた。私は冷たい体育館の床に、大の字になってゴロンと転がった。
「帰りたい……。もう私の足は一歩も動かないわ」
「えー? まだ練習開始から三十分しか経ってないよ?」
「私にとっては、体感で三時間と十分よ……」
***
私がダンスの沼で泥沼の戦いを繰り広げている一方、クラスの出し物である「和風メイド喫茶」組の準備も、着々と進んでいた。
「あ、小紫さん! ちょうどいいところに。ちょっと衣装合わせしない?」
「衣装……? ああ、喫茶店の衣装ね」
「うん! 裁縫が得意な女子メンバーで夜なべして作ったの。できたてホヤホヤだよー!」
女子たちが嬉しそうに、ハンガーにかけられた衣装を掲げて持ってきた。それは、衣装係のこだわりがこれでもかと詰まった和風メイド服だった。水色を基調とした、華やかで可愛らしい着物風のデザイン。そこに濃紫の袴を合わせている。袖は少し長めで、動くたびにひらひらと揺れる仕様になっている。ウエストの帯には、手刺繍による繊細な花のモチーフがあしらわれていた。
「かわいい!」
「絶対に透歌ちゃんに似合うって!」
「さあさあ、早く着替えてみて!」
純粋な期待に満ちたキラキラした目を向けられ、私はええ……と圧倒されながらも、恐る恐るその衣装を受け取った。
数十分後。体育館の更衣室にて。
「透歌ー! 終わった? 入っていい?」
「……うん。一応、着替え終わったけれど」
桜音の声に応えて、私が試着室のカーテンをそっと開けた。その瞬間。更衣室の中に、奇妙な沈黙が降りた。桜音を筆頭に、待機していた女子全員が、まるで時間が止まったかのようにピキリと固まっている。
「……え」
「ちょっと、待って」
「やばい」
「これ……想像以上っていうレベルじゃないんだけど」
あまりの無反応さに不安になり、私は困ったように首を傾げた。
「あの……変かしら? やっぱり私には可愛すぎるというか、似合ってないんじゃ……」
「違う!!」
「全然違う!!」
「なんかもう、クオリティが完成されすぎてて神々しい!!」
女子たちが一斉に我に返り、大騒ぎを始めた。
「これ、今すぐ写真撮って看板のポスターにしよう!」
「絶対に客呼べるって! 男子全員釣れるわこれ!」
「学園祭始まる前から勝負あったね……」
私は彼女たちの言っている意味がさっぱり分からなかった。しかし。その時、女子の一人が興奮のあまりに撮影した私のスマホ写真が。その日のうちに、女子のグループLINEを経由し、巡り巡って、クラスの一部男子グループへと流出してしまったのである。
翌日。朝の教室。
「……?」
ガラリと教室の扉を開けて中に入った瞬間、私は奇妙な違和感を覚えた。いつもなら朝から騒がしい男子たちが、妙に静かだった。全員が前を向いて、教科書やスマホをじっと見つめている。
けれど、私が教室に足を踏み入れた瞬間、彼らの肩がビクリと跳ねた。私が自分の席に座る。すると、前の席の男子が、ロボットのようなぎこちない動きで振り返った。
「お、おはよう、小紫さん……!」
「あ、おはよう! 今日も、その、いい天気だな!」
「そうだな! 絶好の、通学日和だな!」
明らかにおかしい。挙動不審にもほどがある。
「ねえ、桜音。男子たち、何かあったの? さっきから視線が泳ぎまくっているのだけど」
私が桜音に小声で尋ねると、桜音はすっと目を逸らし、真顔で答えた。
「……透歌。世界には、知らない方が幸せなこともあると思うの」
「え?」
結局、私は何が起きているのか分からないまま、その日を過ごすことになった。
***
その日の放課後。文化祭の準備時間。教室では、喫茶店の入り口に飾る大型の看板作りが行われていた。
「よし、これで……完成!」
桜音が特大の模造紙に、達筆な筆さばきで文字を書き入れた。看板に躍るのは『北辰庵』という三文字。和風メイド喫茶の店名だ。なかなか風情があって上手い。
「北辰って……」
私はそれを見て、思わず苦笑してしまった。
「なんかかっこよくない!?しかも私めっちゃ口馴染むんだよね」
笑う桜音。すると、教室の後ろの扉から、低くよく知った声がした。
「透歌」
振り返ると、そこには宵が立っていた。両手で大量の段ボール箱を抱えている。
「宵? 何してるの?」
「男子組の大道具作業だ。買い出しの搬入を頼まれた」
「そうなの、お疲れ様」
「……それより」
宵は段ボールを机に置くと、私の方をじっと見つめてきた。その切れ長の瞳が、少しだけ細められる。
「衣装、見たぞ」
その言葉に、私の思考が完全に停止した。
「……誰が。誰があなたに見せたの」
「藍瑠だ。スマホの画面を無理やり突きつけてきた」
「裏切り者が多すぎるわよ、このクラスは!?」
「……で」
私は恐る恐る、顔を赤くしながら宵に聞いた。
「どう……だったかしら。その、変じゃなかった?」
ほんの少しだけ、胸がトクンと跳ねる。不意に緊張が襲ってきた。宵は数秒間、沈黙した。本当に、真面目に数秒間考え込んでから、ぶっきらぼうに口を開いた。
「似合ってた」
「……そう」
「かなり、似合ってた」
「……そう」
「だから、写真保存した」
「今すぐ消しなさい!!」
私の即答の叫び声に、教室中がワッと大きな笑いに包まれた。私の猛抗議を受けながら、宵はほんの少しだけ、満足そうに口元を緩めていた。そんな、何気ない日々が。新しく、けれどどこか懐かしい思い出が、少しずつ、少しずつ積み重なっていく。
放課後、みんなで手を絵の具で汚しながら段ボールを切って。看板のデザインについてあーだこーだと議論して。家庭科室で作った、喫茶店で出すお菓子の試作品をみんなで毒見し合って。
足がもつれそうになりながら、ダンスの練習をして。こんな風に、ただ笑って、ただ行事のために馬鹿騒ぎをするような時間は、あの頃の私たちには決して得られなかった時間だ。
世界を救うような、特別なことじゃない。けれど、きっと。何年経っても、大人になっても、私たちはこの時間を絶対に忘れないだろう。夕焼けが教室を黄金色に染め上げる中、私たちの賑やかな声が響く。そして、文化祭本番まで、残り一週間となった――。




