あいる
珠瀬藍瑠は、それまでの自信満々な勝者の笑みを貼り付けたまま、数秒間のあいだ完全に硬直した。
「え……」
小さく、掠れたような声がその唇から漏れ出る。
「えっ、付き合ってるの……っ!?」
予想だにしていなかったカウンターを喰らった藍瑠の動揺を余所に、宵は耳を赤くしたまま、いつも通りの淡々としたトーンで短く答えた。
「……たぶん」
「たぶんって何よぉぉぉ!!!」
今度は透歌が爆発した。顔を真っ赤に染め上げ、湯気を立てんばかりの勢いで宵に猛抗議する。付き合っているのかという問いに「たぶん」で返す男がどこにいるのか。
藍瑠は、真っ赤になって言い合う二人を交互に見比べた。
数秒。
本当に、静寂が店内に満ちるほどの数秒の沈黙の後。
「終わった……」
ぽつりと、絶望に満ちた声を漏らしたかと思うと、藍瑠はそのままガタタッと勢いよく机に突っ伏してしまった。
「え」
「え?」
「えっ!?!?」
見事なまでに全員の疑問符がハモった。あまりの急展開に、店内の時が止まる。
「待って待って待って」
桜音が、引きつった笑いを必死に止めなが
ら、戸惑いを隠せずに口を開いた。
「え、何? どういうこと? 宵を奪われて絶望したってこと?」
藍瑠が、机からゆっくりと顔を上げる。
その大きな目には、なぜか悔しそうな、そして悲しそうな涙がうっすらと浮かんでいた。
「………ふざけないでよ」
低く、怒りをはらんだ声。一瞬にして空気がびりびりと震えるような感触が、透歌の肌に伝わってくる。
「ふざけないでよぉっ!!」
「…………はい?」
あまりの熱量に、今度は透歌のほうが完全に固まってしまった。
藍瑠は、ハンカチで涙を拭うのも忘れて、めちゃくちゃにしょんぼりとした、今にも泣き出しそうな顔で言葉を続けた。
「私がっ……中学の時からずっと、ずっと好きだったのに……っ!!」
「はい???」
今度こそ、桜音が飲んでいた紅茶を思い切り吹き出した。
そして、宵の思考も完全に停止する。
藍瑠は、突っ伏した腕に顎を乗せ、上目遣いで透歌を睨みつけながら拗ねたように愚痴をこぼし始めた。
「なのに透歌ちゃん、いっつも、ずーーーっと楼來くんのことしか見てないし……」
「えっ」
主語のバグを感知して、透歌の思考が完全にフリーズする。
「だから……っ、私が楼來くんにベタベタして、ちょっとくらい嫉妬させたら、こっちを見てくれるかなって思ったんだもん……!」
透歌の脳内は、大混乱の渦に叩き落とされていた。
整理がつかない。情報が多すぎる。
「待って」
「うん」
「あなた、宵が好きだったんじゃないの?」
「違うけど?」
一ミリの迷いもない即答だった。
すると、それまで彫刻のように固まっていた宵が、ふぅと小さく息を吐いて静かに呟いた。
「だと思った」
「気づいてたの!?」
透歌が驚愕して宵を振り返る。
「いや、俺に対する目が、そもそも“恋愛”のそれじゃなかった。どちらかと言えば、道具を見るような目だった」
「分析が冷静すぎるでしょ!」
すかさず桜音がツッコミを入れる。
藍瑠は、核心を突かれてむすっと頬を膨らませた。
「だってぇ、楼來くん便利だったんだもん」
「便利」
宵が、感情の消えた声でその言葉を復唱する。
「だってさ! 透歌ちゃん、楼來くんのことになると、驚くほどわかりやすいんだもん! 楼來くんに話しかけると、すぐこっち見てくれるし」
「なっ……」
「ちょっと腕に触ったりすると、めちゃくちゃ怖い顔で睨んでくるし」
「っ……」
「それが、もう……すっごくかわいかったんだもん!!」
透歌は、羞恥と混乱のあまり、ついに両手で頭を抱え込んだ。
「待って、じゃあ全部わざとだったの?」
桜音が、今度はツボに入ったらしく、お腹を抱えて笑いながら問い詰める。
「うん」
「宵くんを強引に連れ去ってたのも?」
「うん、透歌ちゃんの視線を独占したくて」
「連れ去った後に、勝ち誇った顔をしてたのも?」
「うん。こっち見てくれた! っていう嬉しさのドヤ顔」
「最低だこの女!! 歪んだ愛情表現の癖が強すぎる!!」
桜音は大爆笑で机を叩いた。
しかし藍瑠は、もはや開き直ったように、ふんっと小さな胸を張ってみせる。
「でもでも、透歌ちゃん、今日めちゃくちゃ嫉妬してたよね?」
「してないわよ!」
「してた!」
「してない!」
「だってさっき、“宵はわたくしの”って言ってたもん! 録音しとけばよかった!」
墓穴を掘った。
透歌、精神的死亡。
「っっっ〜〜〜〜!!」
あまりの恥ずかしさに耐えきれず、今度は透歌が机に突っ伏した。顔の先から耳の裏まで真っ赤に染まっている。
追い打ちをかけるように、宵がぼそっと、しかし確実に嬉しそうな声で呟いた。
「……嬉しかった」
「もう何も言わないでっ、お願いだから!!」
透歌の声がくぐもって響く。
藍瑠は、机に突っ伏して身悶えしている透歌をじーっと見つめていたが、やがて「はぁ……」と深いため息を漏らした。
「やっぱ、かわいいなぁ……」
「…………」
恐る恐る、透歌が顔を上げる。
「え、本当に……本当に、私なの?」
「そうだけど? 他に誰がいるのさ」
「いつから……?」
「中二の春」
「長いわね!?」
藍瑠は、自分の可愛い指を一本ずつ折りながら、過去の思い出を数え始めた。
「だって、廊下ですれ違った時に『なんて綺麗な人なんだろう』って思って」
「待って」
「図書室の窓際で、静かに本を読んでる姿を見て完全に好きになって」
「待って」
「文化祭の時、クラスが違うのに、透歌ちゃんがシフトに入ってる模擬店を三回も見に行って」
「待って、ちょっと怖い!」
桜音は、もう涙が出るほど笑い転げている。
「重っ!! 藍瑠ちゃん、見た目に反して愛がめちゃくちゃ重いタイプじゃん!!」
藍瑠は再びしょんぼりとして、眉を八の字に曲げた。
「でも……透歌ちゃん、存在が高嶺の花すぎて、普通に近づけなかったんだもん……」
「そんなことないわよ。私は普通の女子高生よ?」
「あるよ!? 透歌ちゃん、中学の時めちゃくちゃ有名だったんだからね!」
透歌はきょとんとして首を傾げる。
「……そうなの?」
その天然発言に、今度は桜音も宵も、そして藍瑠までもが同時に真顔になった。
「……気づいてなかったの?」
「全男子が、一回は透歌ちゃんのこと好きになってたと思うよ。本気で」
藍瑠が真顔で断言する。
「えっ」
「えっ、じゃないよ」
すると、宵が静かに、しかし深く頷いた。
「それは本当にそう。無自覚なのはお前の方だ、透歌」
「宵までそんなこと言うの!?」
藍瑠は、そんな二人をじっと見つめていたが、やがてふっと、憑き物が落ちたように優しく笑った。
「?」
不思議そうに首を傾げる透歌に、藍瑠は小さく肩を竦めてみせる。
「でも、安心したな」
「安心……?」
「透歌ちゃんも、ちゃんと普通の女の子みたいに、恋をするんだなってわかったから」
その言葉に、透歌は少しだけ目を丸くした。
「ずっと、何でもできちゃう完璧超人みたいに見えたからさ。遠い世界の人なのかなって思ってた。……でも」
藍瑠は、ちらっと宵の方を見る。
「ま、お相手が楼來くんなら、仕方ないか〜」
「諦めが早いな」
宵の言葉に、藍瑠は真顔で深く頷いた。
「だって、千年分も積み重ねてる相手とか、普通の女子高生が勝てるわけないじゃん」
透歌と宵、二人が同時に、息を呑んで停止した。
店内の空気が、先ほどとは全く違う意味で凍りつく。
「…………っ!」
「…………」
前世の記憶。千年というキーワード。それ
を、今、この可愛いクラスメイトの口から、確かに告げられた。
何も知らない桜音だけが、机を叩いて大爆笑を続けている。
「あはははは! 待って、今さらっと核心言った!? 何それロマンチックすぎるんだけどー!」
沈黙する二人に向かって、藍瑠はそれまでの「現代のかわいい女子高生」の仮面を脱ぎ捨てるように、ゆるやかに、そしてひどく懐かしそうににこにこと笑った。
その佇まいは、どこか優雅で、それでいて深い忠誠を孕んでいる。
「――お久しぶりですね……透歌お嬢様。それから、楼來宵も」
初夏の風が店のドアを揺らし、からんと軽い音を立てた。
前世の因縁は、思わぬ形で、現代の放課後に集結しようとしていた
珠瀬藍瑠のその言葉が引き金となり、私の脳裏に、前世の記憶の断片が鮮烈に蘇ってきた。
「あいる……」
今世の名前と同じ、そのどこか珍しい、愛らしい響き。
それは私が前世で公爵令嬢だった頃、私の身の回りの世話をしてくれていた、専属の幼いメイドの名前だった。
私が貴族の義務として、あの全寮制の学園へと入学した時、彼女は年齢や身分の兼ね合いからお付きを外されてしまったのだ。学園の門前で、私の馬車が見えなくなるまで大泣きしながら手を振っていた、あの小さな女の子――。
「……あいる? 嘘、本当にあいるなの……!?」
私が目を見開いて立ち上がると、藍瑠は「ふふっ」と悪戯っぽく微笑んで、その場で制服のプリーツスカートの裾を軽く持ち上げ、完璧なメイドの礼をして見せた。
「はい、お嬢様。学園へ上がられるお嬢様とお別れしてから、まさかこんな未来で、またお会いできるなんて思ってもみませんでした。お久しぶりですね、透歌お嬢様。それから、楼來も」
初夏の風が店のドアを揺らし、からんと軽い音を立てる。
前世の因縁は、思わぬ形で現代の放課後に集結しようとしていた――。
「……え、ちょっと待って。え、何? 何それ」
そんな映画のワンシーンのような空気を、現実に引き戻す声が響いた。
正面に座る桜音が、完全に置いてけぼりにされた顔で、フォークを持ったまま固まっている。
「お嬢様? ? 千年分? ……え、何? 二人とも新しいオンラインゲームのオフ会か何かの話をしてるの? それとも高度な寸劇?」
「あ……」
しまった、と私は我に返った。
桜音は、今世で出会った私の大切な親友だ。剣道が強くて、ノリが良くて、いつも私の恋路を応援してくれる優しい女の子。だが、彼女は藍瑠や私、そして宵とは違って、前世の記憶を持たない「普通の女子高生」だった。
「ごめん桜音! これ、ちょっと……その、なんて言ったらいいか……!」
「あー、ううん、いいよ。なんか、私の知らない深いワケがあるのは、三人の顔を見てればわかるから」
桜音は少し寂しそうに、でも気遣わしげに微笑むと、手早くテーブルの上を片付け始めた。
「でも、うちのお店でこれ以上その『難解な設定の会話』を続けるのは、バイトとしても、一人の観客としても心臓が持たないからさ。ほら、もうすぐ私のシフトも終わるし、タルト代はレジで払っていいから、一旦お外でじっくり話し合ってきなさい!」
「桜音、ありがとう……!」
「あとで、話せる範囲でいいから絶対に説明しなさいよね! あ、それと宵くん!」
桜音がレジを指さしながら、宵を鋭く睨みつける。
「透歌をあんなに真っ赤にさせたんだから、ちゃんと責任とりなよ!?」
「……善処する」
宵が気まずそうに目を逸らしながら、耳を赤くして答えた。
会計を済ませ、私たちは逃げるように『ノール・アムルー』の扉をくぐった。
外に出ると、少し傾きかけた五月の太陽が、オレンジ色の光で街路樹を照らしている。
駅から少し離れた静かな公園のベンチまで移動し、私たちはようやく、三人だけの空間を確保した。
「……さて」
私は腕を組み、ベンチに腰掛けた藍瑠を見下ろした。
「あいる。説明してもらえるかしら」
「はい、お嬢様」
藍瑠は、ベンチの上できちんと膝を揃え、今度は完全に今世の女子高生らしい、しょんぼりとした顔になって人差し指同士をツンツンと合わせた。
「あの……嫌がらせじゃなくて……。今世で再会した透歌お嬢様が、相変わらず楼來のことしか見てなくて、私のこと全然思い出してくれないから……。ちょっとをダシに使えば、お嬢様の視線が私に向くかなって思ったんです……」
「理由がやっぱり重いわよ!」
私が思わずツッコむと、隣に立つ宵が、深くため息をつきながら腕を組んだ。
「……お前、あの時泣きじゃくっていたメイドか。小紫(透歌)のことが好きすぎて、俺が小紫に近づくたびに、庭の物陰から般若のような顔で睨みつけていたのを覚えている」
「わ、! それは今世では時効です!」
藍瑠が慌てて顔を真っ赤にする。
「ちょっと待って、じゃあ本当に、宵のことが好きで連れ去ってたわけじゃないのね?」
私が念を押すように尋ねると、藍瑠は心底嫌そうな顔をして全力で首を横に振った。
「まさか!楼來のことは今でもちょっと苦手です。だって、前世でも今世でも、お嬢様の隣を独占してるんですもん。私はただ、お嬢様に『あいる!』って昔みたいに名前を呼んで、甘えてほしかっただけなんです!」
そう言って、藍瑠は潤んだ瞳で私を見つめてくる。その姿は、学園へ出発する私を寂しそうに見送っていた、あの頃の小さなメイドの面影そのものだった。
「あいる……」
私が愛おしさを込めてその名前を呼ぶと、藍瑠の顔が一気に輝いた。
「あぁっ! お嬢様に名前を呼ばれた! 幸せです、もう今世に悔いはありません!」
「勝手に人生を完結させないで」
大混乱の放課後は、まさかの前世の主従関係の復活という、誰も予想しなかった結末を迎えた。あいるが私の手を嬉しそうに両手で包み込み、「これからは毎日お供します!」とはしゃいでいるのを見て、私もようやく心の底からホッと胸を撫で下ろした。
しかし。
そんな温かい主従の再会の空気を破るように、宵が、私の顔をじっと見つめながら、静かに口を開いた。
「それで、透歌」
「な、なに? 宵」
「さっきの店での話だが。お前の『わたくしのなので』という言葉と、俺の『その認識でいい』という話」
一瞬にして、公園の空気が再び甘酸っぱいピンク色に跳ね上がった。
あいるが「あっ、そこ掘り返すんですか!?」と即座にメイドらしい一歩引いたポジションに下がり、目を輝かせて私たちを見つめる。
「それは……その……あれは勢いというか、珠瀬さんに、あいるに取られたくなくて、つい……」
私が再び真っ赤になって言葉を詰まらせると、宵は私の目を真っ直ぐに見つめ、少しだけ耳を赤くしながら、けれど確かな声で言った。
「俺は、あの言葉を今から現実にしたいと思っている。前世でも、今世でも、俺はお前だけのものだ。……お前の返事を聞かせてほしい」
オレンジ色の夕日に照らされながら、前世からの愛が今世のメイドの思わぬ暴走によって、ついに本当の「始まり」を迎えようとしていた。




