しのぶれど、色に出でにけり
「じゃ、俺ら帰るわ。またなんか会ったら連絡しろよ」
「うわぁぁぁぁぁん!!!我が妹と別れたくなぁぁぁぁぁい!!!」
「ぐふっ……!」
霧の容赦ない拳が霞の腹部にめり込み、情けない悲鳴と共にようやく二人の足音が遠ざかっていく。パタパタと騒がしい音が外の廊下から消え、玄関のドアがカチャリと閉まった。
「……本当に、嵐みたいな人たち」
静寂を取り戻したリビングで、私は大きくため息をついた。
兄たちはまあまあ忙しい。今日来てさっさと帰らないといけないなんてそんなことある?と聞いたらどうやら霞がやらかしているらしい。
「にゃあ」
ソファの足元で、ジジが「やっと静かになったね」と言いたげに私の足に体を擦りつけてくる。私はジジを抱き上げると、その温もりを胸に抱いたまま、再び自分のスマホに目を落とした。
画面には、さっき一方的に切ってしまった宵との通話履歴。
……さすがに、ちょっと怒りすぎたかしら。
そう思った瞬間、スマホが小さく震えた。
『さっきは悪かった。お兄さんたちが面白くて、つい乗せられた』
宵からのメッセージだった。
「面白くて」って何よ、と心の中で文句を言いつつも、画面を見つめる私の口元は緩んでしまう。不器用な彼が、必死に言い訳を考えて送ってきたのだと思うと、愛おしさが勝ってしまった。
『別に、怒ってないわよ。ただ、恥ずかしかっただけ』
そう打ち込んで送信する。
一瞬で『既読』がついた。
『そうか。……お前の可愛いところ、俺はもっと知ってるけどな』
「なっ……!」
画面に表示された文字に、今度こそ顔が爆発しそうになる。
『もう知らない! 本当に寝るから!』
今度こそスマホを放り出し、ジジをクッション代わりに抱きしめてベッドに潜り込む。
窓の外には、夕方に見た白い三日月が、すっかり夜の闇に紛れて優しく輝いていた。
騒がしい兄たちと、意地悪で、世界で一番大好きな私だけの王子様。
私の新しい人生は、前世を百としてもさらに何倍も、何十倍も、賑やかで愛おしいもので満たされている。
「……おやすみ、宵」
小さな声で呟きながら、私は心地よい疲れと共に、ゆっくりと目を閉じた。
***
翌朝。五月の爽やかな風が、学校の校門をくぐる私のスカートを揺らしていた。
昨夜の騒動のせいで、少しだけ寝不足だ。
教室に入り、自分の席へ向かう。
窓際のいつもの席に、彼はもう座っていた。机に肘をつき、気だるげに外を眺めている黒髪の横顔。
「……おはよう、宵」
カバンを机に置きながら、わざと少しぶっきらぼうに声をかける。
宵はゆっくりとこちらに顔を向け、私の顔を見るなり、その綺麗な唇の端をわずかに持ち上げた。
「おはよう、透歌。……よく眠れたか?」
その声には、明らかに昨夜の余韻を含んだ、いたずらっぽい響きがあった。
「……宵のせいで、ちょっと寝不足。お兄ちゃんたち、本当に帰る間際までうるさかったんだから」
私が席に座り、ジト目で睨みつけると、宵は声を立てずに低く笑った。
「悪かった。でも、お前が家でそんな風に過ごしていると知って、少し安心したんだ」
「安心?」
「前世のお前は、いつも張り詰めていただろ。誰も頼ろうとせず、一人で背負い込んで」
宵の穏やかな瞳が、まっすぐに私を捉える。
大水槽の青い光を反射していた昨日の目が、今は教室に差し込む朝日に照らされて、柔らかく輝いていた。
「あのお兄さんたちなら、お前をいくらでも甘やかしてくれそうだ」
「甘やかすっていうか、ただのシスコンよ。……でも、宵が一緒に私のこと『可愛い』なんて言うとは思わなかったわ」
昨夜の通話の内容を思い出し、今更になって顔がカッと熱くなる。
すると宵は、机に身を乗り出して、私にしか聞こえないような小声で囁いた。
「嘘は言っていない。……それに、俺しか知らないお前の姿は、あのお兄さんたちにも教えないつもりだ」
「なっ……!」
ずるい。今世の宵は、前世の側近だった頃の堅物さが嘘のように、こういう言葉をさらりと言ってのける。
私が真っ赤になって言葉を詰まらせていると、ガラッと教室のドアが開いた。
「おっはよー、透歌! ……って、およ? 朝から二人で何かいい雰囲気になってんじゃん!邪魔者は~退散しまーす!」
今日は寝坊して一緒の電車に乗れなかった桜音がやってきてすぐに別の所へ行く。んもう、みんなみんななんなのよ!!
***
4時間目の古典の授業。
心地よい五月の風が、開け放たれた窓からカーテンを揺らしている。昼食前の少しけだるい空気の中、黒板にチョークの音が響いた。
『恋の短歌』
教師の米荒先生……通称「コアラ」が黒板に書いた文字を見て、教室がわずかにざわつく。
「さて、今日は平安時代の恋の歌についてだ。昔の人は、今のようにスマホで簡単にメッセージを送れなかった。だからこそ、三十一文字にすべての想いを乗せて、相手に伝えたんだな」
先生が教科書の一節を朗読し始める。
私は頬杖をつきながら、ノートの隅にシャーペンを滑らせた。
昔々公爵令嬢だったときに近い物は教師に見張られながらやった。あの頃は萌乃の動向などで気が気じゃなかった。でも今は、授業でそんな「恋の歌」をのんびり習っている。そのギャップが、どこか不思議で、少しだけくすぐったい。
「じゃあ、この歌の意味を……そうだな。楼來、読んでみろ」
先生の指名に、前の席の宵がすっと立ち上がった。
教科書を持つ指先が綺麗だ。
「『しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は 物や思うと 人の問うまで』」
宵の少し低く落ち着いた声が、静かな教室に響く。
その声を聞くだけで、昨夜の電話や、今朝のやり取りが脳裏をよぎって、心臓が小さく跳ねた。
「よし。宵、この歌はどういう意味だ?」
「……心の中に隠していたはずの恋心が、どうしても顔や態度に出てしまっていた。何か物思いにふけっているのですかと、他人に尋ねられてしまうほどに。という意味です」
淡々と答える宵の声。
先生は「その通り」と満足そうに頷いた。
「周囲にバレてしまうほど、隠しきれない強い想いということだな。まるで、今の君たちの年代の甘酸っぱい恋愛のようだ」
人気のあるコアラならではの言葉に教室内からクスクスと笑い声が漏れる。
その時、宵が席に座りながら、ほんの一瞬だけ、後ろの私を振り返った。
その穏やかな瞳と視線がぶつかる。
(しのぶれど、色に出でにけり……)
まさに今の私じゃない。昨日の水族館でも、昨夜の電話でも、宵の前では全部顔に出てしまっていた。
顔が熱くなるのを感じて、私は慌てて教科書で顔を隠した。
すると、隣の席から「トントン」と机を叩く音がする。
見ると、桜音がニヤニヤしながら、小さく折りたたんだ紙切れを私の机に滑らせてきた。
『透歌、顔真っ赤。完全に「色に出でにけり」じゃん♡』
ハートマーク付きの手紙に、私はさらに恥ずかしくなって桜音をキッと睨む。
けれど、もう一度、前の席の宵の後ろ姿を見つめると、自然と胸の奥が温かくなっていった。
隠しきれないほどの想い。
それはきっと、私だけじゃない。前世からずっと私の隣にいてくれる、彼も同じなのだと、今の私にはよく分かっていた。
***
キーンコーンカーンコーン。
放課後を告げるチャイムが鳴り響くのとほぼ同時に、外の景色は一気に薄暗くなっていた。
窓ガラスを激しく叩く雨の音。天気予報は外れ、空は完全に不機嫌な灰色に染まっている。
「うわ、最悪。透歌、傘持ってる?」
「うん、私は折りたたみ傘があるから大丈夫。桜音は?」
「私は置き傘あるから平気! じゃあね、また明日!」
「あれ?一緒に帰んないの?」
「んーん?透歌には楼來さんがいるじゃないのっ!」
桜音と別れ、下駄箱で小さめの折りたたみ傘を広げる。
外を見ると、雨は一段と強くなっていた。コンクリートに弾ける雨粒が、制服のスカートの裾を濡らしていく。
(……ちょっと憂鬱だな)
そう思いながら、俯きがちに歩きだそうとした。
「透歌」
不意に横から声をかけられ、顔を上げる。
そこには、傘も差さずに制服のブレザーのまま雨に濡れている宵が立っていた。黒髪がしっとりと額に張り付いている。
「えっ、宵!? 傘は?」
「忘れた。ちょっと入れてくれ」
「ちょっと待って、これ折りたたみだから狭――」
言い終わるより早く、宵がすっと私の傘の下に滑り込んできた。
思わず一歩、お互いの距離が縮まる。
狭い傘のせいで、宵の右肩と私の左肩がぴったりと触れ合った。
普段ならあり得ない近さ。宵の体温と、雨に濡れた制服の匂いが一気に鼻腔をくすぐる。心臓がドクンと大きな音を立てた。
「……狭いって言ったじゃない」
「これで丁度いい」
宵は悪びれもせず、フッと口元を緩めた。完全に楽しんでいる。昨日から、この男は私をからかう楽しさを覚えてしまったらしい。
「濡れちゃうでしょ。ほら、もっとそっち行ってよ」
「そっちに行ったら俺が濡れる。それとも、俺が風邪ひいてもいいのか?」
「う……それは、ダメだけど」
言い返せなくて口を尖らせると、宵は満足そうに目を細めた。
歩幅を合わせてゆっくりと歩き出す。
雨の音が、二人の周りだけを遮断する静かな壁のようだった。
右手の傘が重い。彼を濡らさないようにと、自然と手が震えてしまう。
「……傘、俺が持つ」
宵の大きな手が、下から私の手を包み込むようにして傘の柄を握った。
肌と肌が触れ合う。冷たい雨のはずなのに、触れられた場所から熱が広がって、顔がカッと熱くなった。
4時間目に習った短歌が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
『しのぶれど 色に出でにけり――』
(神様、お願い。私の心臓の音、雨の音でかき消して……!)
隣を見るのが怖くて、私はまっすぐ前だけを見つめて歩いた。
でも、宵の手の温もりと、すぐ隣にある肩の存在感が、隠しきれない私の恋心をどんどん加速させていく。
「透歌、顔赤いぞ」
「雨のせいよ!」
「そうか? ……まぁ、そういうことにしておく」
宵は優しく微笑むと、私の肩が濡れないように、そっと傘を私の方へと傾けた。
すれ違う人たちが私たちを見ていくけれど、今の私には、この小さな傘の中の、世界で二人きりの空間しか見えなくなっていた。




