透明な霧と霞
「じゃあ、ばいばい。宵」
「ああ。気を付けて。透歌」
ひらひらと手を振るとこの楽しさの終わりを感じて寂しくなる。もうばいばいしなくちゃいけないの?
「ねえ、宵」
その遠ざかっていく黒いパーカーを呼び止めた。小さすぎる声は周囲の音にかき消されて消える。
「大好きよ。世界で私だけの王子様」
今宵も輝く月は夕方の空に薄く引かれた傷のような白い三日月。そこに素直に言えない言葉だけがまた傷のように残ってもう一つの月のように宵の空に浮かんだ。
***
「ただいま」
「おかえり~」
いつもとは違う声がする。あれ?この声は……
「霧。帰ってきてたんだ」
今回の人生では実は兄が居る。霧と霞という双子の兄で私は末っ子。前世では公爵令嬢家の一人娘として生まれたしその前も一人っ子だったので兄という存在はとても新鮮だった。
「俺もいるよぉー」
奥の部屋から出てきた霞。霧と霞は大学生で大学の近くに二人で住んでいる。最初はそれぞれ一人暮らしをするはずだったが霞が一人で暮らせるわけがないと霧と住むことになったのだ。
「透歌、遅かったな。どこ行ってたんだ?」
「あれぇ?お洒落してる~。何々?デート?」
うへぇ。うざーい。霧はまだしも霞はうざーい。
「ジジ~?透歌今日何してたか教えて?」
霞がジジを抱き上げて聞くがジジは嫌そうに鳴いただけだった。まず猫に聞くことがおかしい。
「あ!透歌デートしてたんだろ。 ほら、水族館のお土産!」
霞がジジを抱っこしたまま、私のカバンから突き出ていたイルカのぬいぐるみを指さした。鋭い。さすがは無駄に勘が良いだけのことはある。
「デートじゃないわよ。ただの……お出かけ」
「お出かけねぇ? 顔がまだニヤニヤしてるけど?」
そう言って霞が私の頬を突っつこうとしてくる。私はそれを素早くかわし、助けを求めるように霧を見た。リビングのソファに腰掛けていた霧は、読んでいた参考書から目を上げて、ふっと呆れたように笑う。
「霞、やめておけ。透歌が本当に怒るぞ」
「ちぇー。霧はいつも透歌の味方なんだから」
霞はジジを優しく床に下ろすと、わざとらしくため息をついた。自由になったジジは、私の足元にすり寄ってきて「にゃあ」と小さく鳴く。その温もりに、宵と離れて少しだけ冷えていた心がじんわりと温かくなっていくのを感じた。
前世では宵と生きていたけれど兄弟なんて物は北に移住してきた子供達のことでしか知らなかった。
だから、今世で霧と霞という二人の兄ができたと知った時は、本当に驚いたものだ。
不器用だけどいつも妹の私を気遣ってくれる霧と、お調子者だけどいざという時に頼りになる霞。二人の賑やかなやり取りを見ているだけで、ここが私の新しい居場所なのだと強く実感できる。
「透歌、夕飯は食べたのか?」
霧が台所の方を顎で示しながら聞いてくる。
「まだ。水族館の休憩スペースでジュース飲んだだけだから、お腹ペコペコ」
「よし、じゃあ俺が特製パスタ作ってあげる! 霧、手伝って!」
「……お前が言い出したんだから、自分で作れよ」
文句を言いつつも、霧は慣れた手つきでエプロンをつけに席を立った。二人が並んでキッチンに立つ姿を眺めながら、私は自分の部屋へと向かう。
バッグから、宵とお揃いで買った小さなペンギンのキーホルダーを取り出した。
冷たい水槽の光の中で、不器用に笑っていた彼の顔が思い浮かぶ。
『今世、結構楽しいわね』
自分の言葉が、今になって胸の奥に深く染み渡っていく。
愛する人が隣にいて、騒がしいけれど温かい家族が待っている。前世の私も幸せだったけれど今世を前世の私が見たら奇跡だと羨むに違いないほどの、眩しい日常。
「透歌ー! 準備できたぞー!」
下から霞の大きな声が聞こえる。
「今行く!」
私はキーホルダーを机の上に大切に飾ると、弾むような足取りで階段を駆け下りていった。
「んで、誰とデートしてたの?」
「あれだろ、前桜音ちゃんから聞いた。宵って奴だろ」
「なんで霧が桜音と繋がってるのよ……」
私がジト目で睨みつけると、霧は視線を泳がせながら、手元のフライパンで手際よくベーコンを炒め始めた。香ばしいにんにくの香りがキッチンに広がる 。
「別に怪しい意味じゃない。この前、桜音がノートを借りに家に来ただろ。その時に連絡先を交換しただけだ。お前が変な奴に引っかかってないか、心配だったんだよ」
「シスコンだー! 霧、それは普通にシスコンだよ!」
霞がパスタの茹で加減を見ながら、ここぞとばかりに囃し立てる。
私は呆れてため息をついた。桜音は前世からの私の大親友で、今世でも変わらず仲が良い。まさか私の知らないところで、兄と親友がそんな情報交換をしていたなんて。
「変な奴じゃないわよ。宵は……」
そこまで言って、言葉を詰まらせる。
宵のことは、前世からずっと知っている。誰よりも信頼しているし、世界で一番大切な人。だけど、それをこの過保護な兄たちにどう説明すればいいのか分からない。
「宵って、どんな奴なんだ? ちゃんと透歌を大事にしてるんだろうな?」
霧が真面目な顔をして、炒めた具材にトマトソースを投入した。トングを持つ手が少し強張っている。
「すっごく無愛想で、口数も少ないわよ」
私が思い浮かべる宵の姿をそのまま口にすると、霞が「えーっ」と大声を上げた。
「透歌、そんな男が良いの!? もっと俺みたいに明るくて、レディーファーストができる男にしなよ!」
「霞みたいにうるさいのは論外。宵はね、言葉は少ないけど、私が困っている時はいつも一番に気づいてくれるの。今日も……私がタコに墨を吐かれた時、すっごく笑ってくれたし」
「それ、大事にされてるか……?」
霧が怪訝な顔で眉をひそめる。
確かに文字にすると酷い仕打ちに見えるけれど、あの時、前世では見られなかったような心からの笑顔を宵が見せてくれたことが、私は何よりも嬉しかったのだ。
「いいの。宵といる時の私が、一番私らしくいられるから」
そう言うと、二人の兄は一瞬だけ顔を見合わせた。
いつになく真剣で、どこか愛おしそうな私の表情を見て、これ以上からかうのは野暮だと察したらしい。
「……まぁ、透歌がそう言うなら、悪い奴じゃないんだろうな」
霧が少しだけ悔しそうに微笑みながら、出来上がったパスタを皿に盛り付けた。
「でも! 今度その『宵くん』とやらに会わせてもらうからね! 妹を泣かせないか、お兄ちゃんが厳しくチェックしちゃうんだから!」
霞がフォークを片手に拳を突き上げる。
うるさい兄たちに呆れつつも、私は差し出された大盛りのパスタを見て、自然と口元が緩んだ。
前世の私にはなかった、この賑やかで温かい食卓。
明日、学校で宵に「お兄ちゃんたちに目をつけられちゃった」と言ったら、彼はどんな顔をするだろう。そんなことを考えると、胸の奥がまた少し、くすぐったくなった。
夕食を終えて自室に戻り、ベッドに転がってペンギンのキーホルダーを眺めていると、スマホが小刻みに震えた。画面に表示されたのは『宵』の二文字。驚いて跳ね起き、慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし、宵?」
『……起きてたか?』
受話器の向こうから聞こえる、少し低くて落ち着いた声。さっきまで一緒にいたのに、声を聞くだけで心臓がトクンと跳ねる。
「もちろん。ちょうど宵のことを考えてたところ」
『……そうか。髪、ちゃんと乾かしたか? 濡れたままだと風邪ひくぞ』
「もう、過保護ね。子供じゃないんだから」
水族館でイルカの水を被った彼の姿を思い出し、ふふっと笑う。宵は少し決まり悪そうに『悪かったな』と呟いた。そんな何気ないやり取りが心地よくて、胸がいっぱいになる。
「ねえ、宵。実はさっき――」
今日の楽しかった余韻に浸りながら、兄たちのことを話そうとしたその時だった。
バタンッ!
「透歌ー! 夜食にアイス食べない!?ボーゲンハッツだよ!」
勢いよくドアが開くと同時に、霞がノンシャロンな笑顔で部屋に突撃してきた。その後ろからは「霞、お前ノックくらいしろ」と霧が呆れ顔で続いている。
「ちょっと! 今、電話中なんだけど!」
私がスマホを胸に抱え込んで睨みつけるが、二人のシスコン兄貴たちがそんなことで退くはずもなかった。霞が私の手元に目を留め、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「あーっ! もしかして噂の『宵くん』!? 霧、大変だよ! 透歌が男と夜の秘密の電話してる!」
「何!?……もしもし、宵くんか? 俺は兄の霧だ。うちの妹がいつも世話になっているな。だが、夜遅くの長電話は感心しないな」
霧が私の手からスマホをひょいと奪い取り、大真面目なトーンでスピーカー通話に切り替えた。
『……初めまして。宵です。夜分遅くにすみません』
スマホから流れる宵の、一寸の乱れもない冷静な声。前世で修羅場をくぐり抜けてきただけあって、兄たちの急襲にも全く動じていない。
「お、落ち着いてるな……。いや、挨拶ができるのは感心だけどさ! 宵くん、君は透歌のどこが好きなわけ!?」
霞が画面に向かって身を乗り出す。私は顔を真っ赤にしながら「二人ともやめてよ!」とスマホを取り返そうとするが、霧に軽くかわされてしまう。
『どこ、と言われると困りますが。……危なっかしくて目が離せないところでしょうか。』
私がスマホを取り返そうとベッドの上で手を伸ばすのを、霞が器用にガードする。
受話器の向こうの宵は、相変わらず冷徹なほど落ち着いている。むしろ、私の兄たちの扱い方を瞬時に見抜いたような、絶対的な余裕すら感じられた。
「なるほどね。でも放っておけないってのは分かるわ。こいつ、家でもぼーっとしてて、たまに突拍子もないこと言うし。水族館でタコに墨吐かれるとか、普通ある?」
「そうそう! でもさ、宵くん。透歌って生意気だけど、実はお化けとかめちゃくちゃ苦手でさ。怖いテレビ見た日の夜とか、俺たちの部屋の前をウロウロしててさー」
「霞、それは言うな。……まあ、宵くん。透歌は意地っ張りだが、本当は傷つきやすい。飯を美味そうに食うところとか、そういう素直なところは可愛いんだがな」
『……知っています。笑うと、少し目が細くなるところも』
「あ、分かってるねぇ! 分かり合えそうじゃん宵くん!」
スピーカーから流れる三人の声。
最初は私を心配する尋常ならざる過保護さだったはずが、いつの間にか「透歌の可愛いところ・危なっかしいところ」を肴に、男三人で妙な連帯感を築き始めていた。
私の顔は、茹で上がったタコ並みに真っ赤になっていく。
恥ずかしさと、プライバシーの崩壊と、何より宵まで一緒になって私の暴露大会に参加していることへの怒りが限界に達した。
「……ちょっと、いい加減にして!!」
火を噴きそうな勢いでベッドから飛び起き、霧の手から力任せにスマホをぶんどる。
さすがの気迫に霧と霞が「うおっ」と後ずさる中、私は画面に向かって怒鳴るように声を張り上げた。
「みんな最低! 宵も、調子に乗って一緒になって喋らないで! もう知らない!!」
『あ、透歌、待っ――』
宵が何かを言いかけるのを遮り、私は容赦なく赤い通話終了ボタンをタップした。
プツッ、と静寂が戻った部屋で、私は荒い息を吐きながら二人の兄を極限のジト目で睨みつける。
「霧も霞も、今すぐ私の部屋から出てって。一歩も入ってこないで。明日まで口きかないから」
「あ、いや、透歌……お兄ちゃんたちはだな……」
「出てって!!」
枕を投げつけるフリをすると、二人は「ひぇっ」と短い悲鳴を上げて大慌てで部屋から逃げ出していった。
バタン、と今度こそ乱暴にドアが閉まる。
「……もう、バカ宵」
静かになった部屋で、私は赤くなった顔を両手で覆い、ベッドに倒れ込んだ。
怒りは半分、恥ずかしさが半分。
でも、胸の奥がさっきよりもずっと、熱くバクバクと脈打っているのだけは、どうしようもなかった。
小紫霧
しっかり者の大学二年生。料理や家事なども全て完璧にこなす。将来は弁護士になることを目標に勉学も人間関係も非の打ち所のない秀才。
小紫霞
自由奔放な大学二年生。家事は殆どできないが霧と一緒なら少しだけできる。将来は特に決めてない。やればできるしやらなくてもできる天才。




